1DKの忘れ物 6

今年もバレンタイン一色に染まろうと、駅前通り商店街は早朝から店舗の装飾に励むが、あちこちに散らばる赤いハートに歩道を行く人々は誰も目もくれない。凛と冷えた寒空の下、通勤者、通学者らが黙々と駅を目指す光景は平日の極日常だ。ジャージの上にダウンを着た牧も朝の通学者の一人として、ポケットに手を突っ込み電車に乗り、目的の駅へと向かっていった。
引っ越しを来週に控えた今日、駅の片隅には同じ大学のジャージを来た部員らが集い、全員が揃うとぞろぞろと電車に乗り込んでいった。
「けっこう時間かかるが、しっかり調子整えとけよ」
先頭席に立つ監督が言うと、電車は出発。県を跨いでの遠征を、道端で今にも咲きそうな沈丁花が程なく見送った。車内で頬杖をつく牧がそれを窓越しに見つめていた。
それから乗り継ぎを重ね会場に到着したのは午後。快晴の下、ロビーでの受付を経て着替えを済ませ、すでにギャラリーで沸く館内に姿を現した。
白のユニフォームを着た相手はインカレ予選でも対戦したチームで、すでに奥のコートで練習に汗を流しつつ、ちらちらとと敵を見やる。対する牧の大学は紺のユニフォーム、予選での試合も勝利した彼らはすでに勝利を前提として今日の作戦を組んでいる。手前のコートの中心で円陣を組み、「よし、今年は黒星なしで行くぞ。わかったな」中心に立つ監督の一喝で部員は各々の練習に散った。
そうして間も無く始まった試合は観客も息を呑む白熱ぶり。静穏だった外の気候も冬を巻き返すような北風が吹き込み、唸り声を上げながら建物に迫る。それが館内にも流れてきたかのように、試合はいつまでも拮抗した。張り合うブロックの連発で互いにまるで点が伸びず、盛り上がるに盛り上がらないこの冬空に似た空気。ディフェンスを強化した、復讐に燃える白の相手に紺のチームが苦戦、互いにロースコアのまま前半が流れようとしていた。
「おい牧、はなから切り込んでいけやコラ」
もたつくコートに浴びせられた声はベンチにいる三年生からだ。今年四年に、年長となる彼らからスタメンの座を奪った後輩への不満は中でも突出した牧に向けられ、今も尚尻上がりなペースを責め立てる。
しかし当の本人は逐一それに応ずるでもなく、なかなか切り崩せないディフェンスに対し、冷静に機会を窺っていた。視線や僅かな仕草でフェイクを仕掛けつつ、強力なマンツーマンの裏の流れ、動きを探る眼差しは正に飢えた獣。それは直ちに確実な道程を描き、最もリスクの少ないゴールまでの最短ルート、つまり左へ切り込む……と見せかけて逆側でスクリーンをかけたキャプテンにパス、すぐにリターンをもらい、四分ぶりの二点を、鮮やかなダンクを決める。同時に沸き立つ観客は、その瞬間を待ちわびていたように歓声を上げた。ほんの数瞬の猛攻のために払った神経は汗となって流れ落ち、また次のプレイに走り目をギラギラと光らせていた。
「牧のヤツ……尻上がりどころか絶好調だな」
ベンチからそんな声が囁かれた。
やがて後半を終え、試合は十七点差で幕を閉じた。そしてお疲れ様の挨拶のあとで牧がふと客席を見上げた、その時だった――――。
「あれ……流川か?」
二階席から射す視線とうっかり目が合うと、これから控室へと戻る部員から離れた牧は一人二階へ。退出に流れる観客らを擦り抜け、そして客席の後ろで立ったままの私服の男に声をかけた。
「流川……だな?」
「ウス……」
相変わらず、僅かな驚きをその眼差しに留めるだけの反応を示す流川。
二人は人の捌けゆく客席に席を一つ空けて座ると、別の大学の練習を見下ろしつつ話を……というより、依然ユニフォーム姿の牧が一方的に話しかけた。
「……で、なんで流川がこんなとこいるんだ?」
「引っ越したから」
「そういやそんなこと聞いたか。こっちに来てたんだな。神奈川も少し張りがなくなったと、高頭監督も言ってたぞ。……で、今日はなんだ? 見学か?」
「偶然通りかかっただけっす」
「……そうか。そういやうちの監督も流川を欲しがってたが、乗らなかったんだな」
「俺、アメリカ行くから」
「ああ……」
……とそこまで訊いて、牧は木暮や清田から聞いた話を思い出したようだ。
「最近、お前が落ちぶれたと聞いたんだが」
「……」
「冬の選抜で湘北と当たって、随分と桜木を失望させたらしいな。それで乱闘騒ぎにまでなったと聞いた」
牧もまた、その現状を嘆く一人だった。海南翔陽の二強時代を切り崩した湘北のエースが、あの流川と呼ばれた男がそんな試合をしたとは、いつか共に神奈川を背負った仲間としてもとても不甲斐ないのだ。
「そんな調子でアメリカ行ってどうするんだ?」
同じ神奈川の先輩として多少歩み寄りを見せていた牧の口調は、一変して突き放したような嘲笑を孕んだ。敵として挑発するいつかの王者の姿を彷彿とさせた。
流川は静かに青筋を立て、隣の先輩をキッと睨めつけ…………いや、いつもの冷めた声音で答えた。
「あん時は体調悪かっただけ。もうアメリカ行って手続きしてきた」
「まあ行くのは勝手だが、お前が体調が悪いだの甘えを抜かすヤツだったとは、見損なった」
忌憚なく嫌味を放つ牧の言葉に、そして次に発せられたその名前に、流川の顔は益々色褪せてゆく。
「この間仙道と会ったが、関西にいいライバルが出来たと、自分と似たヤツを見つけたと言っていた。あいつも大学に上がった今、また型を変えてきてる。オールラウンダーの名を恣にする気だ」
そこまで言うと牧は立ち上がり、「じゃ」と背中の六番を向けた。歩み出した足を止め、最後にもう一つ……
「何があったか知らないが、アメリカに行けばどうにでもなると思ったら大間違いだ。帰国したらぜひ俺を訪ねてくれ。いつでも負かしてやる」
立ち去る牧の後ろで流川は一人、席に着いたままうな垂れていた。牧もまた、階段を下りる間嘆きの霧を落とした。




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