1DKの忘れ物 5

学校が始まり、元旦前の生活が戻ってきた二月の頭。キッチンでは牧が皿洗い、居間では木暮が洗濯物を畳んでいた静かな夜、鳴り出した電話を牧が受けた。
「……はい、わかりました」
電話を終えてからも暫し置いた受話器を見つめるしかつめらしい顔。木暮が内容を尋ねるが、「まあ、あとでゆっくり話そう」と先に皿洗いを済ませ、二人交互に風呂に浸かった。
そうして互いに床に就いたころ、漸く電話の内容が語られた。
「宅建会社から。アパートの更新だ」
「ああそっか。二年だったな」
忘れていたとばかりにはっと顔を上げた木暮は、うつ伏せに寝転がったままで読んでいた本を伏せた。
このアパートに越してきてから間も無く二年、更新継続か退去の二択が二人に迫られていたのだ。
「まあ大した不足はないが、夏がな……」
牧の懸念はそこ、夜の気分を見事盛り下げてくれたこの風を通さない立地にある。入居前は1DKの狭さを案じていた二人だが、二年も生活した今はすでに順応し、風通し以外の問題はないようだ。何れにしろ、継続するも退去するも二人一緒であることには何の言及もなく、これからも生活を共にすることは変わらない。
牧が提案した。
「確認してまた連絡すると言ったわけだし、少し他も周ってみないか?」
「ああ、それもいいな」
木暮の快諾で話は進んだ。引っ越しの条件を出し合ったところで結局は家賃、そして風通し。間取りや設備などは今と同程度であれば良い。
「よし、じゃあ決まりだな」
来週日曜、木暮の午後のバイトが一件空くというその日に二人で不動産屋を当たることにした。

そして日曜日。三時二十分を指す駅前の時計の下、改札を出てすぐのところで練習を終えた牧が待っていた。はらはらと細雪が舞う中でランチコートを纏い、スポーツバッグを背負い、騒がしく街行く人々の流れをぼんやり見つめていると、ふと女子高生の団体に視線が移る。雪も恥らう若く眩しい太腿に……いや、その時季外れの露出に眉を顰める牧は最早ただのおじさんだった。
そんな彼の目の前に今度は天使が舞い降りた。チャコールグレーのダッフルコートを着た天使はニコニコと白い息を浮かべ、白いマフラーを口元まで巻いていた。
「悪い。待ったか?」
「いや……」
冬の正装を目の前にした牧は一人頷き、「お疲れ、行くか」天使の背中にある羽根に触れつつ、先を促す。行き着いたのは宅建会社だ。店員に先週出し合った希望を告げれば紹介されたのは数件。それならと更に条件を捻り、絞った二件をこれから見に行くことにした。地図のコピーと鍵を受け取り、再度駅へと戻って行った。
そうして二つほど駅を跨いだそこは、いつか踏み入ったあの街だった。あの夏――見知らぬ男とぶつかった、駅を出てすぐの商店街の裏の角。そこからずっと行った先のアパートに木暮と近しい女性がいた。そこで遭った一悶着が景色の中に蘇っては、不自然に視線を逸らす二人がいる。しかしあれから木暮はその女性と会っていない。牧が言うには、夏の終わりに引っ越したと姉から聞いたようだ。
そろそろ日も暮れるからと足早に地図を辿れば、方向もまた逆だった。何も言わない木暮もすでに消化していたようで、二人の足取りは軽く、目印のスタンドもすぐ見つかり、駅から徒歩十五分のそこに十分で到着した。
「ここか……」
やや造りは古く、随所にペンキの塗替えが垣間見える二階建ての木造アパートだ。駅まで多少歩くが、建物も密集せず、商用施設もやや離れたところにある。二人は早速階段を上がり、二○一号室のドアの前に立ち、その鍵を開けた。告げた家賃の上限もあり住み古した感は否めないが、2Kというその間取りが気に入っていた。
中に踏み入った牧は先に片方の部屋を覗き込み、その後ろのダイニングで木暮がキッチン周りを見回していた。換気扇やガス台やらを順に確認する、その真剣な背中に牧が歩み寄った。
「どうだ?」
じっとシンクを覗き込んでいた木暮はその排水口を指す。
「これ。排水口小さいのがいいな。この方がまめに片付けられる気がする」
「ほう……そんなもんなのか」
「それに換気扇も大きい。ここだけリフォームしたみたいだ」
ガス台を覆うような形のそれを見上げる木暮に、「気に入ったか?」牧が問えば「ああ」と木暮が微笑む。すでに二人の気持ちは固まっていたようだ。が、確認事項はもう一つ……
「おい牧……」
ここでもするかといった苦笑は木暮から。キッチン前に立つ木暮の背中に、牧が凭れるよう抱きつくのはいつものことだった。木暮のうなじに、いや、今はしっかりと巻かれたマフラーの上から牧の額が乗る。腕を回しつつ耳元に呼吸が触れれば、木暮もまた不意の反撃に出た。
「…………?」
咄嗟に振り向いた木暮からの、突然の口付けだった。それは牧の首に腕が伸ばされたまま暫く離れず、優しく啄む唇に、牧は多少狼狽えつつもしかとそれを見つめていた。自らキスを仕掛けた木暮のそっと閉じられた瞳、熱く火照った両頬、そして、今日一番の眩い笑顔がそこにあったからだ。
「俺、ここがいい」
キスを離れてすぐ、明るく無邪気に弾む声。小窓から指す赤い夕陽がそれをキラキラと照らしていた。
「決まりだな」
奥の部屋まで見る間もなく、早くも二人の引っ越しが決まった。……が、次に申し出た牧の一言で今日もまた、二人の間に摩擦が生じてしまったのだ。
「それと敷金礼金なんだが……全部俺が出す」
「は? 何言ってんだ牧、そこは折半だろ?」
「いや、そのつもりですでに金は用意してあるんだ」
「そのつもりって、何だよそれ……?」
忽ち顔を曇らせた木暮が問い詰めれば、改まって唇を噛み締めた牧は、正月以前から抱いていたその腹案を打ち明けた。
「実は……正月、この時のために親に頭を下げてきた。勿論このためとは言ってないが、以前から木暮と同居の解消は避けたいと思ってた。だから更新するも別のアパートを借りるも、全て俺のわがままだ。だから俺が金を出すのは当然のこと。親に前借りしてきた」
「おいやめてくれよ……牧、おかしいぞ? 一緒にいたいのは俺も同じだし、これじゃ俺の親にも示しがつかない。お前の親に迷惑かけただけじゃないか。それに……俺だってバイトしてるんだ」
それともう一つ……
「あと、指輪だってくれたばかりだろ?」
先月牧が木暮に手渡した物……牧のけじめとされたそれが如何なるものか。これもまた、牧の口から明かされた。
「それは……実は親父がお袋に渡そうとして拒まれた、いや、遠慮された物なんだ。親父は俺に彼女がいると思ってて、それで金が要るんだと勘違いして、ついでにその指輪もくれた。だからそれに関しては今度のついでのような物だ。今度の手数料こそ俺に払わせてほしい」
「今度こそって……指輪はもう、納得して受け取っちゃったけど、でも金に関しては譲れない。お互い学生なんだから、半分は親に返してくれ」
木暮も頑なに食い下がれば、その両肩に手を掛けた牧は真っ直ぐ木暮の目を見つめ、再びあの言葉を口にする。
「だからこれも、俺のけじめなんだ。わかってくれ……じゃなきゃ俺の気が収まらない。俺が先にあんなことしておきながら、お前に告白させてしまったこと、まだ悔やんでる。だからこれで筋を通したい。キャプテンをした時と同じ、重いくらいの責任を持つことで充実を得たい、きっと男の持つ欲求の一つなんだ」
そう言って抱き締めるも、分厚い腕の中の木暮は依然として、首を縦には振らなかった。
「筋を通すも何も、あれは俺が好きでそう言ったまでだろ? もう終わったことだし、けじめだなんだで押し通そうとするなら俺だって男だ。だから……」
「頼む木暮……!」
更にと抱き締める筋力は木暮の口を塞ぐほど強力で、藻掻くことでどうにか抱擁を逃れた木暮は、一人ふらりと奥の部屋へ。六畳側の戸を開け、その向こうの窓を開けた。
そこからはひんやり冷たい風が舞い込み、前方のビルが遮る手前までの住宅街、商店街が見渡せる。家々の合間から今にも沈みそうな夕陽が真西から射し込んでいる。
「風通しも良さそうだな」
先程とは打って変わり、優しく穏やかに呟く木暮。その後ろに歩み寄った牧は、再び木暮のうなじに額を乗せた。そして今日もまた…………
「木暮……お前が好きだ」
誰も知らないか細い声に木暮はそっと微笑み、腹に回った牧の手に触れる。
「この部屋でも、また一緒に寝てくれるか?」
「ああ勿論だ。こっちを寝室にしよう」
金の件はさて置き、こうも仲直りが早いのは今日までいくつかの悶着を経たから。とりあえずは互いにその気持ちを明かし、険悪になりかけた空気はそれはそれで、互いに間を置いて分散する。これが二年で培った二人の解決法だ。後日また話し合うとして、二人は新しい引っ越し先を出て行った。
もう遅いから、親にも引っ越す旨を話さなくてはならないからと契約はまた次回。鍵だけを返してきた。すっかり日が沈んだものの、街灯や店舗の灯が却って眩い、賑やかな帰り道だった。
「二年前に戻ったみたいだ……」
歩道に隣並んだ木暮の、今にもマフラーに埋もれそうな唇がこっそり呟いた。
――――二年前。それは海南近くの図書館で、ボールを持たない、互いに眼鏡のレンズを通した二人のあまりに奇遇な出会いから始まった。
「ああ、木暮の受験前だったな」
一緒に住まないか? の牧の一言でまるで定められていたかのようにあっさり同居を決めてしまい、それから親に許可を得たり、部屋を探したり、必要な買い物をしたり。友達でもなかった二人が不思議な巡り合わせで同居を始め、それがこれからも続こうとしている。
「二年後はどうなってるかな……」
「その頃はもう卒業だな。バスケしてるか仕事してるか……。木暮はどうするんだ?」
「俺は……俺はもう決めてあるよ」
二年後、二十二歳となった二人にきっとまた訪れるアパートの更新時。共に大学を卒業するだろうその時、二人はまだ、こうして一緒にいるだろうか……
微かにオリオン座の覗く夜空を見上げた木暮は、その瞳いっぱいに星空を映し、まだ見えない二年後の空を眺めていた。



やがてアパートの契約も決まり、木暮はあと三週間で出て行くことになった今のアパートの掃除をしていた。牧が帰ってくるまでにと、纏め出した荷物を端に寄せ、雑巾片手に隅々まで磨いていた。
月に一度はこうして大掃除をしていたわけだが、徐々に二ヶ月に一度、三ヶ月に一度と間隔が伸びていった。おかげでサッシの隙間や浴室の天井など、週一の掃除ではとても行き届かない部分に汚れが溜まっていて、最近ホームセンターに通い出した程だ。
入居時は汚れ一つ見当たらなかったわけだが、それだけこの部屋には世話になったということ。窓を開ければそこからは冷たい風が吹き込むが、力いっぱい雑巾を行き来させる彼は二の腕まで袖を捲り、バケツの汚水に素手を突っ込む。そしてクシャミを連発した瞬間、勢いでズボンのポケットからいつかの指輪が零れ落ちた。
サッシの隙間に落ちたそれを拾うと、木暮は切ない吐息を漏らした。牧から持ってろとだけ言われたそれはとりあえず持っているだけで、気安く指に嵌めることなど出来ずにいた。本来牧の母が受け取るべき物だったと知っては尚更、金額的価値も計り知れない木暮にとっては身に余る品だと、彼は改めてその日の日記に記したほどだ。誰に相談するわけにもいかない以上、返事のない日記に書き連ねるしか出来なかった。しかし一度受け取ってしまったのだから、指輪に関してはこのまま持っているべきだと済し崩し解決したが、日記に連ねる悩みはまた最近増えたわけだ。
先日、牧が敷金礼金を全額払うと言い出した。この件はまだ保留であり、木暮の親にも引っ越しを告げた時点で当然のように折半で話は進み、そこは牧の親も了承済みだ。きっとすでに連絡を取り合ったに違いない。牧が全額負担しようとしているなどと知ったら親はどう思うか。牧の行いはきっとその誠実さに依拠するが、まだまだ親の扶養にある学生の身、親の知らない大それた額に触れてはいけない。牧はそれで筋を通すつもりかもしれないが、木暮にとってはそれが筋を通すことにはならない。その必要性すら見出せない。となるとやはり受け入れられない。素直に甘える気にもなれず、責任を押し付けたくないのは木暮もまた男だからだ。
迫る引っ越しを前に、木暮は今夜、その気持ちを牧にぶつけた。




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