1DKの忘れ物 4

風呂を出たばかりの木暮が髪をタオルで拭っていると、先に風呂を出ていた牧が何やらキッチンに立っていた。明かりを点ければそこに挙動不審なその姿。冷蔵庫を開けるでもない、立ち去ろうともしない、何やら落ち着かない様子の牧に木暮が声をかける。
「どうした?」
「ああいやぁ……なんだその……」
牧は咳払いの後で緊張を帯びた一息。目の前に立つ木暮を前に、掌にある小箱をぎこちなく差し出した。
「ん? なんだこれ?」
「その…………受け取ってくれ」
「受け取ってくれって、なんだ急に? なんだかわからないものなんて、とても受け取れないよ」
困り顔で拒む木暮に対し、その手を強引に取った牧は小箱を無理に握らせつつ、こう付け加える。
「俺なりの、けじめなんだ」
そっと箱を開けた木暮は、あんぐりと口を開けたまま唖然と立ち尽くしていた。
牧は続けた。
「お前を抱いてしまったこと……単なる出来心だと思われたくない」
「おい何もそんなに重く受け止めることないだろ?」
「それが嫌なんだ…………」
消え入りそうな、今にも押しつぶされそうな牧の声に一度は木暮の反論も途絶えたが、突然の小箱を巡る口論はすぐに終わらない。三十分前まで共に発し合った熱が今は摩擦を起こしていた。
「充分重いんだ。何かあった時の責任は俺が全て取る」
「責任って……俺別に、身体ももう慣れたし」
「それだけじゃない。俺はお前をそういう世界に導いてしまった。例えば更衣室で男の裸を見た時、それまで何も見えなかった世界が急に見えてきただろ?」
「俺はそんな……何も……」
「正直になれ」
「……んまぁ、なんて云うか、思い出すよ。お前とのこと。こいつもあんなことされたら俺みたいになっちゃうのかって、気付けば変なこと考えてた」
「そういうことだ。それに、俺はお前の家族にも……」
「だからそれは関係ないって言ったろ?」
「もっとよく考えてみろ。お前がこのまま俺といてずっと結婚しなかったら、子供を授からなかったら、親は悲しむものなんだ。関係ないなど言えないはずだ」
「だから、これは俺の人生だ。親じゃなくて俺が決める。俺だってちゃんとけじめを………」
……と、はっとして急に言葉を絶やした木暮により長い言い合いに間が生じた。ある言葉が引っかかったようだ。
「神がさ、昨日ピアスしてたんだ。これが結構似合ってて、どうしたんだって聞いたら、ちょっとした転機だ、けじめみたいなもんだって」
「神が、ピアス……?」
「そうそう、先日神も湘北来てたんだ。牧も、今度一緒に海南行ってきたらどうだ?」
「ああ、そうだな……」
暫し眉根を寄せていた牧だが、神が話題に上ったことでキッチン中に広がった緊張までが徐々に解けたようだ。
互いの表情も和らいだところで、木暮は今一度、その気持ちを告げた。
「俺もけじめはつけたつもりだ。さすがにピアスは無理だけど、気持ちはちゃんと、ここにある」
そう言って牧の片手を取ると、自らの左胸へ導いた。掌にぺたりと密着させ、息衝く鼓動に触れさせた。
「俺もだ……」
呟いた牧もまた、木暮を左胸に抱き寄せてはその心音を耳に直接伝えた。
「俺も、きっと神と同じようなもんだ。木暮に対する身勝手な押し付けだ。だから、持っててくれればそれでいい」
「そう言われたら何も言えないな……わかったよ」
二人にやっと笑顔が戻り、木暮が小箱を受け取ったことでその日は終わろうとしていた。が、そこに電話が鳴り響く。
「誰だこんな時間に」
さあな、と木暮が電話に出る。
「はい、どちらさま……」
電話は数秒の無言の後で切れてしまった。
受話器の戻された電話機を不審な目で見つめる牧がいた。



それから一週間ほど経った頃、その日は牧の試合があり、木暮が見学に来ていた。選手の登場を前に賑わう、二階観覧席を後方からざっと見渡していた木暮は、今その広い視界の中で遠目にも鮮やかな赤い坊主頭を見つけた。透かさずその席へ駆け寄っていった。
「よう桜木」
「あっ! メガネくん!」
「おおメガネくんだ」
人目を引く一驚と共に席を立つ桜木に続き、木暮に振り向く桜木軍団も横に並んで座っている。
「で、なんで桜木がここに?」
「それはなメガネくん……」
木暮の顔に、みるみる笑顔が溢れ出ていた。
「あの名高き□□大がこの俺をスカウトしにきたから、こうして見学に来たまでよ。っつーか、もう推薦で決まったよメガネくん!」
「おお、やったな桜木!」
つまり今年、桜木が牧の後輩になる。頼もしい未来のチームに「ははは、信じられないや!」と木暮は喜びの声を上げ、身長差が益々広がる後輩と戯れた。
そしてもう一人……
「水戸くんは? 進学? 就職?」
いやぁ……と濁しつつも水戸の顔はにこやかだ。
「なんつーか、永久就職ってやつかな」
「永久……? すごいなそれ」
「洋平……まさかヒモにでもなる気か?」
野間が口を挟んだことで馬鹿騒ぎに発展する後輩らと、木暮も並んで席に着くと、間も無く大学チームが登場。試合開始と共に客席は沸きに沸いた。
「お、ジイ!」
先に気付いたのは桜木で、二年生でスタメンとして威力を発揮するその姿に膝の上の拳を握り、専ら目を奪われている。
「老師のヤツ、いつの間にあんな……」
「ん? 老師?」
聞き慣れない名称を聞き返せば、答えはジイだと返ってくる。
「……それって、牧のことか? 牧のヤツ、聞いたら怒るぞ」
そう、木暮が呟いたその時だった――。丁度木暮と桜木の間から、後ろの席から謎の男が尋ねてきたのだ。
「あんたら、牧さん知ってんの?」
振り向けば同年代ほどの背の高い男。すかした目で気だるそうに頬杖を着くその姿に、桜木が「なんだテメェ?」と睨めつける。木暮が取り押さえつつ応じる。
「知ってますけど、何か…………」
男との会話はそれで終わった。以降男が絡んでくることはなく、試合終了後に一度後ろを振り返る木暮だが、すでに姿はなかった。
試合にすっかり魅了された桜木を横に、木暮は一人訝しんでいた。
「あの男……どこかで見た気が…………」
そしてその男は今、一階のロビーにいた。控室の並ぶそこである一室の前に立ち、やがてそこから出て来た選手に声を掛けた。
「すみません、牧さん呼んでいただけますか?」
「おーい牧、客人だぜ」
先輩の呼びかけで廊下に出た牧は依然ユニフォーム姿で、その客人と対面するなり忽ち色を失う。目に見えた動揺を男の前に晒してはみるみる目の色を変え、そして男の手を掴むと、その場から強引に連れ去っていった。
「話がある」
低く据わった声で、足早に廊下を突き進み、向かった先は無人の男子便所だ。中に入ったところで邪険に突き放すと、改めて向かい合った客人にまずは問い質した。
「どういうつもりだ」
控室を訪ねた客人は、茶色の前髪を垂らした長身の男は、元海南の七番だった。凄みを効かせた先輩の声に、彼は怯むどころかあっけらかんとして、その垂れ目がちの目で舐めるように見つめる。
「別に、今日はただの見学ですよ」
「見学なら他の大学だって構わないだろ」
「そんなの俺の自由じゃないですか」
生意気な態度に舌打ちを漏らした牧の敵愾心は剥き出しだ。
男もそれに酬いるよう、間近に歩み寄ってはあえて背を屈ませつつ下から先輩を覗き込み、まるで挑発していた。
「牧さんさ、なんか勘違いしてません? 自惚れですか?」
「どういうことだ」
「牧さんがここにいるって知ったから今日はとりあえず挨拶に来ただけで、他に意味はありませんよ。昔のことは綺麗さっぱり忘れました。未練もありません」
「それを言うためにわざわざ挨拶に来たというのか? 確か以前も見に来てたな。ウチをずいぶんひいきにしてるじゃないか」
「ええ、たった二回目ですが、わざわざ挨拶に来た後輩にずいぶん冷たい歓迎ですね。そりゃあ今はまだ他人ですけど、それにしてもあんまりだ。昔は仲良くパス出し合った仲なのに」
「おいちょっと待て……」
ツラツラと語る男の口を遮った牧は、ある台詞が引っかかったようだ。
「今はまだ他人、とはどういうことだ?」
前髪を掻き上げた男はしたり顔で、今日ここに居る真相を告げた。
「ああ、言ってませんでしたっけ。俺ここの監督から直々にスカウトきて、四月からここのバスケ部入るんです」
「な………………」
その日の帰宅後、牧は神と高砂、宮益と武藤に連絡を取った。

数日後。壁に『常勝』の掲げられた海南附属高校体育館には、防寒着を纏ったままのOB五人が肩を並べていた。外は空風吹く冬場も決して抜かりない練習に暮れる沢山の部員達と、その中心に立って仕切る清田を、暖かくも厳しい視線で館内の隅から見守っていた。
「清田もなかなか成長したな」
「去年も、流川に負けずフェイダウェイ身につけたいとかで頑張ってましたよ、信長。牧さんは、ここに来るの卒業以来ですか?」
「ああ。高砂は?」
「俺は何度か来てるぞ。一度は武藤とも来て練習を見てやったな」
「だったなぁ。宮も呼んだが、行ったばかりだって断られたっけ」
「僕は今も足運んでますから」
「……となると、来てなかったのは俺だけか……」
そう言って、気まずそうに額を押さえる牧を透かさず神がフォローする。
「仕方ないですよ。牧さんは大学もあっちだし、それこそバスケ三昧ですから」
「いやまあ。それに、今度もまた色々あったんだ……」
武藤と宮益が差し入れを手渡しに行った後、牧が意味深長にぼやいた。両隣りの神と高砂が覗き込めば、力なく項垂れるその影から心労の吐息が零れ落ちた。
牧は先日の件を打ち明けた。
「実は今年……うちの大学にあいつが入学する」
「あいつってまさか……」
「ああ、元七番だ」
「そんな……」
元七番、と聞いて当時の経緯を知る二人は二の句を失う。三人のいる場所はそのまま、時間だけが三年前に遡っていった。
「じゃあ以前聞いた、バスケに返り咲いたって噂、あれ本当だったんですね」
「あいつの話じゃ、あくまでうちの監督からスカウトがきての推薦で、俺を追ってきたわけじゃないと」
「話って、会って話したのか?」
「ああ。態々試合後の控え室に挨拶に来たんだ。決して俺目当てではないらしい」
「信じ難いな。あの執念深さは異常だった。牧はまた、何かと狙われるんじゃないか?」
「そうですよ。あいつが転校したおかげでどうにか落ち着いたのに。それに態々挨拶に来るなんて……」
理解のある二人を前に、牧は奥に押し込んでいたいたその心情を吐露した。
「どんな裏があるか知らないが、なんだか薄気味が悪くて仕方ない。転校したあいつがあの後どうなったのか知らんが、今年新入生ということは留年したわけだろう? 海南よりキツイうちのバスケに着いてこれるのか……」
「あの執念深さがあればいくらでも乗り越えますよ。だって牧さん、覚えてますか? 俺の五百本を牧さんが皆の前で褒めたあと、あいつ俺より居残りしてましたから」
「なんだかな……。あいつにスカウト来たくらいなら神にも来てよかったはずなのに……」
「あ、それは……牧さん実は…………」
話題が神に流れたところで、一時男の話題は堰き止められた。
神は先ほどの牧同様、射る二人の視線から逃れるよう視線を落とす。唇を噛み締め、気まずそうに口ごもる後輩をいつまでも憂う眼差しは、今もこうして肩を並べる先輩からだ。
そんな先輩に対し、程なく開いた重たい口はとんでもない真相を告白したのだった。
「すみません……実は、一つも推薦来なかったなんて、あれ嘘だったんです」
「嘘…………?」
あれからおよそ一年が経った今、信頼ある後輩の嘘を知った二人は目を丸くしたまま、何を聞き返すこともできないでいた。それもそのはず。去年、木暮と同じ今の大学に進学を決めた神は、そこにバスケ部がないことを憂いていたのだ。それを知った牧は、高砂から藤真率いる元翔陽チームの情報を得ると、高砂を通じ藤真に連絡を取り、神の状況を伝えた。その結果が、今最も話題を集める元翔陽チームの存在だ。
「当時、監督からいくつか来てるぞって並べられた学校の中に、実は牧さんの大学もあったんです」
「そ、そうだったのか……まあまさかとは思っていたが」
「寧ろ安心したというかなんというか……だが、何故推薦が来なかったなどと嘘を……」
優しく嘘を問われた神は、今一度頭を下げる。その理由を告げる。
「それは本当に、ごめんなさいとしか言えないんです。理由としてはただただ自分を騙すためで、だからあそこまでしていただけた時は勿論嬉しさもあったけど、同時にうしろめたくもあって、いつかはちゃんと打ち明けようと思ってました」
「自分を騙す?」
「はい。あの時点で、俺は家業を継ぎたいって気持ちがどこか上回ってたのかな。勿論バスケを諦めたわけじゃなく、親にプレッシャーをかけられたわけでもなく、寧ろ好きにしろって言ってくれたんですけど……小さい頃からずっと見てきた背中だったんです。親は充分好きなことさせてくれました。俺、結構恵まれて育ったんだって、そう思えたのは最近なんですけど」
家族思いな健気さが明かされたあとは、やると決めたら黙ってやり遂げる、内に秘める癖のあるあの強い志が発せられた。
「嘘を吐いたのは、せめて受験を控えた間だけはそっちに集中するためでした。バスケはいいのか? って、周りに無駄な心配かけないように、親にもみんなにも嘘吐いたんです。でも却って心配かけちゃったみたいで、牧さんには特に気を遣っていただいて……すみませんでした。でも、おかげで今すごく充実してます」
ニッコリ輝く笑顔と同時に神のピアスも光っていた。
「けじめ、か……」
牧がそう呟く傍から高砂も呟く。
「お、いいパスだ」
その一言で牧もコートに視線を戻せば時間も今に戻る。目の前ではディフェンスを欺く絶妙なパスが通り、即座にシュートが決まったところ。頼もしい次世代部員を見つめる元キャプテンの眼差しは鋭かった。
「あいつは……次期キャプテンか」
それに答えたのは神だった。
「彼は俺が三年の時入った一年です。そうですね、きっとキャプテンになるでしょう。実は当時色々あって、彼、一度部を辞めたんです。でもなんとか説得したら戻ってきてくれて……」
「そうか。俺の知らないところで色々苦悩があったんだな」
元キャプテンの嘆息は重かった。が、それを覆す派手なダンクを、今現キャプテンが決める。その後透かさず次期キャプテンがボールを奪い、反撃が始まる瞬間を見て、神が力強く言った。
「色々あったけど、それがキャプテンの務めですよ。彼もこれからそれにぶち当たって、それでもなんとか立ち上がって、それで今年こそ、また常勝の歴史を一から積み上げてってくれるかな……」
「ああ、そうだな」
「そう願おう」
窓から差し込む太陽の光は凍て付く真冬でも強く眩しく、それをよく知る三人の瞳は、常勝を再び掲げる近い未来を映し出した。
そこに間もなく顔を出した監督が、各々の近況を語る教え子を前に高らかな笑い声を上げていた。その上機嫌な顔を冷ますよう、いつまでも扇子で煽っていた。




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