1DKの忘れ物 2

以前、牧は木暮に言い聞かせた。遅くなる時は連絡を。大学生が大学生に言う台詞ではないが、それだけこと木暮に関しては心配性な面を見せていた。
「ああ、おかえり」
牧の声は素っ気なかった。しかしまだそれに気付かぬ木暮はマフラーを外し、コートを脱ぎながら朗らかに尋ねる。
「もしかして、受話器上がってたか?」
「いや……」
「三十分前かな? 駅から二回は電話したんだけど、ずっと通話中でさ」
三十分前、通話中……牧ははっと目を剥くとばつが悪そうに顔を背ける。
「ああ悪い。親父から電話があったんだ」
「そっか……」
木暮もまた、唇を噛み締めつつ牧の居るリビングへ踏み入る。歓迎のない背中、ぎこちない空間の中で「なあ……」とどこか憂いを帯びた声。牧の隣に歩み寄ると、いつになく甘えた目で牧の横顔を見上げていた。牧は上げ損ねた腕をそのまま、その場に立ち尽くしていた。
――それは年末から年始に跨ぐ十日ぶりの再会だった。たった十日、されど十日、ずっと生活を共にしていた二人には少し長い期間だったのかもしれない。
牧は透かさず抱き寄せるとその黒髪を撫でながら、はっと息を呑むよう、嗚咽を抑えるようにして、太い上腕筋の内にキツく木暮を封じてしまう。北風で撫で付けられたままの前髪に触れた片頬を擦り付け、覗く額に口付けを二つ、三つ。
一心に愛でる牧に、先程の素っ気なさは消え去ったように見えた。しかし木暮の両肩をゆっくりと引き離すと、今も憂いの残るレンズの奥に先ずは夜の外出を質す。
「で、こんな時間まで何してた?」
木暮はずれた眼鏡を直してから、今日の出来事を打ち明けた。
「ああ、実はさ……」

木暮は今日、面子の揃い出したサークルでの練習を終えると、いつもとは逆方向の電車に乗り、これまでも何度か足を運んだバイトの営業所へと赴いていた。義務付けられた月に一度の研修日。報告やシフト、相談が主だが、木暮の今日の目的は他にあった。
「やあ、久々だな」
営業所を出た後のこと。その営業所近くの喫茶店で、およそ一年半前も立ち寄ったここで待ち合わせをしていたのだ。夜の迫る時間帯、賑わう店内の奥の席で先にコーラを手前にした木暮の許へ、長身の目立つ待ち人は周囲の視線を集めながら歩み寄ってきた。
「木暮……変わってないな」
それはなめこのプリントされたトートバッグを見て、フッ、と零れかけた微苦笑に木暮も安堵の笑みを浮かべる。
程なく対面に掛け、ホットコーヒーが届いたそこはいつかのメガネ五番同士による、店内の雰囲気に見合う大人の会話が展開された。
「それで、急にどうしたんだ? まさか電話がくるとは」
花形がマフラーを外しながら問えば、今や双方のチームメンバーであるその名が挙がるのは必然だった。
「昨日、年明け初のサークルの練習だったんだ。練習と言っても、人数が少なければ当然やる気もなくて、神と二人きり。一応練習もすることはしたけど、気付けばコートの真ん中で話し込んでて、そこで、花形の話が出た」
「俺の?」
「ああ。…………何かあったのか?」
それまで朗らかだった木暮の顔は深刻に、直球の質問で投げた視線は花形に躱される。
「いや、別に……」
わかりやすく言葉を濁す花形だが、絶えぬ周囲の和やかな語らいと耳触りの良いBGMは暗に会話を閉ざさぬよう、花形に促していたようだ。
「……えっと、そうだな。単に進路の問題だ。俺は短大だからもう卒業だ。就職先も決まったが、自分でも見えない不安があるんだろう」
ああ、そっか……と頷く木暮は、卒業、就職という言葉に小さく反応していた。
「でも花形のことだから、きっとすごいとこ就いたんだろな」
「いや、俺は短大だし、就活もそこまで入れ込んだわけじゃない。決めたのは父の知人の会社で、実はまだ起こしたばかりの先が見えないベンチャーだ。紹介された時は正直不安だったが、先日、実際に会って話して決めた。徹底的に知を軸にしたエンタメ展開、生じる様々な可能性から利益の循環までの明確なビジョンを、あたかも取引先を落とすかのように見せられて、その説得力と人間性に俺も落ちたってところかな。彼も昔、バレーで実業団入りした父のチームメイトだったこともあって、バスケのことにも結構な理解を示してくれたんだ」
「へえ……」
すっかり感心する木暮の眼鏡は、先に社会人となる同級生を眩しく映し出していた。
花形は冗舌に続けた。
「父の後押しもあったんだ。母の期待を無理に背負うことないと言ってくれた。やりたいことがあるならと短大も許してくれた。しかし俺ももう大人だ。これからは親に心配かけずやっていきたいと思ってる。だから、さっきバイトも辞めてきたんだ。近々引っ越す予定だよ」
「そっか……………」
木暮は口をあんぐり開けたまま、持ち上げたグラスを宙に浮かせたまま。心配からその顔色を窺おうとした相手に寧ろ圧倒されていた。
「木暮はあと二年あるもんな。もう就職先は絞ってあるのか?」
「いや、俺は……」
「二年なんてあっという間だからな。慌てることもないが、早い方が何かと楽だぞ」
「そう簡単に言ってくれるなよ。絞るって言ったって、どこから絞っていいかもわからない」
「就活を始めてから見えてくる部分もあるが、やりたいことがあるならそこから攻めればいい」
「やりたいこと、か……」
コーヒーカップを口許へ運ぶ花形を前に、木暮は今日の目的も忘れ、自らの行く先を見つめていた。暫し宙を彷徨ったあとで視線はふと窓の外へ、見下ろした先には出てきたばかりの営業所。その壁に貼られた集客用のポスターがこう謳っていた。
『成績アップの近道はお子さまに合ったマンツーマン指導! 優しく丁寧! わかりやすい! ネットで実績公開中! 詳しくは……』
折しも子連れの母親が営業所のドアを潜っていったところだ。
「ああ……そうだな」
何か手応えを得た木暮がにこやかに視線を戻す。すると、目の前で頬杖をつく男はいつの間にか、両肩に重い陰りを背負っていた。落ち着いた店内に馴染んでいた先程までの空気は失せ、それは昨日神の話した、触れてはいけない何かをひしと纏っているようだった。
「なあ花形、一つ聞いていいか?」
「ん?」
「彼女と、何かあった?」
「…………」
尋ねた木暮には確信があった。以前ここで会った際、恋人に対する花形の言葉には確かな愛情が窺えた。もしその恋人と何かあったなら、よくない方へと転じたなら、それが不調を示す原因でもあるのでは……と。
案の定、花形は言葉に詰まっていた。冗舌だった語り口は今や閉ざされたきり開こうともしない。視線も落とされたまま、周囲の賑わいから益々遠ざかるこの雰囲気に木暮は漸く、その過ちに気付く。
「……ああ悪い。それを知ったところで俺は何もできないし、お節介なのはわかってるつもりなんだが……………」
「そういうことだ。もう別れたようなもんかな」
潔く認めた花形に、今度は木暮が言葉に詰まる。目の前の憂色をそのまま映した眼差しで先程の言葉を質す。
「別れたようなって……どういうこと?」
「相手と暫く会えなくなる。期間はよくわからない。会いに行きたいからといって簡単に行ける距離じゃない。今でさえ遠いのに、これからもっと遠退いてしまう。木暮なら……それに堪えられるか?」
「俺は…………」
前に汲んだ手に額を支え、深く考え込んだ木暮は徐々に顔色を沈ませていった。落とした視線の先のコーラはすっかり氷が溶け、日焼けにも似た茶褐色は面影もないほど色が褪せ、弾ける炭酸も今はしんと鳴りを潜めている。木暮の手が微かに震えた。
「俺だったらきっと……寂しさに耐えられなくて、そんな自分も嫌になって、連絡も途絶えたりしたら、暫く気落ちするだろうな。次の約束があるならともかく、それもいつかわからないとなると、そうだな……」
相手の身になってみて初めてわかる他人の気持ち。すっかり消沈する木暮にとって、それだけ今の恋人の存在は大きなものだった。花形にとっても大きなそれはこれから更に遠退くわけで、見えない期限を前にしては誰もが不安を抱くはずだ。が、一度は同調した木暮の考えは少し違っていたようだ。
「でもだからといって、俺は別れることなんてできないよ。あいつの代わりなんていないんだし、会えなくても、いつかは会えるなら、俺は待つよ」
「見えないところで相手の気持ちが冷めていようと、それが自分に伝わることがなくても、じっと待っていられるか?」
「そうだな…………まず気持ちが冷めたとしても、あいつはちゃんと言ってくれるだろう。ほんの一言でも、手紙だって構わない。それに、地球の裏側にだって決して行けないわけじゃないんだから、いざって時はどうにかしてでも会いにいくよ。俺にはじっと待ってる方が苦痛だからな」
屈託のない笑みを浮かべる木暮の愛情も確かだった。
花形はその笑顔に屈したように、苦笑を零した。
「なんか、意地悪なこと言って悪かったな」
「いいんだ。ただ、花形のこと心配してるやつが沢山いる。落ち込むななんてとても言えないけど、あんまり考え込んでも始まらないし、寂しかったらどうにかしてでもその気持ちを伝えればいいよ。それに、彼女のことをもう少し信用してやってほしいかな。彼女だって、花形のこと好きなんだろう?」
「ああ……」
はにかみの覗く返事に木暮は安心して、バスケとバイトを介したこの不思議な巡り会いを回顧した。
「実は俺、試合で初めて花形を見た時、きっと取っ付きにくいヤツだろうなってずっと思ってたんだ。それがこんなことまで語り合う仲になるなんて、なんだか信じられないや」
それは……否定できないな、と肯く花形がまた照れ臭そうに笑う。
「確かに、俺は昔から勉強も運動もトップでいることが当たり前だった所為か、正直なところ他人を見下す癖があったよ。そういうのって自分でも気付かぬ間に滲み出てるもんだからな。でも、そうやってずっと固持していた妙なプライドがいつからか消えていったんだ」
大人になった、というよりもっと大事なものを知った気がした。そしたら見える世界が広がり、短大行きというこれまでの実績を翻す選択をしていたと、花形は感慨深く語った。
いつからか……それは素人桜木と対戦してからか、はたまた恋人との出会いかと、木暮はどこか自分と重ねながら、やがて二人は店を出た。
そうして駅までの歩道でも冗談が零れ出るほどの仲のいい同級生をしていたわけだが、駅で別れてすぐだ。木暮がふと振り返った先にはまたも重い沈鬱を乗せた背中が覗き、これには木暮も肩を落とした。

「すっごくやるせ無くて、ちょっと話しただけであいつの気持ち知った気になった自分がすごく情けなくて、気落ちしてるところを態々無理に付き合ってもらったみたいで……気付けばどういうわけか、お前が恋しかったよ。それでふと時計見たらすごい時間になってて、慌てて電話したんだが……」
神に花形の不調を窺ってからの今日の経緯と事の始終、故の落胆を知った牧は、まずは自分のことのように今も気落ちする木暮の肩を抱き締めた。耳元に、そっと囁いた。
「俺が本当に地球の裏側にいても、お前は来てくれるのか?」
「ああ……だって……」
仕方ないだろう、と牧の背中にも腕が回る。
「大丈夫だ。俺はどこにも行かない」
牧が覗き込んだレンズの奥に、切な瞳に涙が滲んでいる。今日の花形の意地悪が効き過ぎたか、十日間があまりに長かったか。牧は木暮の手を取ると裏の戸を開け、寝室に連れ込んだ。
「……と、まずは布団敷かなきゃな」
少し先走ったことに後頭部を掻きながら、早速敷いた布団の上で二人は幾度と抱擁を交わした。




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