1DKの忘れ物 1


正月明け。実家からアパートへ戻った木暮はその鍵を開けた。ドアが開くと同時に陽の光の射し込む玄関に靴がないことを確認し、薄暗く無言の室内に足を踏み入れると、まずは開けたカーテンからそこに遅い新年を迎えた。
「ただいま……」
発した声に返事はないが、木暮の顔は朗らかだ。
重そうな荷を置くと、そこで一息吐くことなく別の荷物をスポーツバッグに纏め、すぐアパートを出て行く。再び降りたばかりの駅へ、いつもの電車に乗り、着いたのはまだ冬休み中の大学だ。白一色の寒空の下、体育館まで小走りで向かうが、「少し太ったかな……」地面を踏みつける足音でそれを感じたようだ。木暮は白い息を長く吐き、次の一歩を大きく踏み出した。そして体育館を覗き込めば、その中央にはボールを持つ神一人の姿があった。
「神、みんなは?」
「あ、木暮さん。まだですよ。練習は今日からですけど、来れる人だけって話でしたし」
つまり参加も自由なのがサークルだと、この静かな体育館が云っている。
木暮は隅に荷を置くと、更衣室へ行くことなくその場で着替えを始め、神の放ったボールが次々とリングを潜る様を見つめていた。
サッとネットを潜っては床に弾む音がただ淡々と、一定のリズムで響く館内。
「まるで機械だ……」
茫然と呟く木暮だが、次にあれ……? と顔を上げた彼は、日光に反射しキラリと光る小さなそれを見つけた。
「神それ……」
「え?」
「昨日会った時は気付かなかったけど、ピアスか?」
「ああこれ? そうですよ。先月末に思い切って」
へえ、と歩み寄った木暮はその耳元を見つめ、「で、なんで?」理由を問う。
神はボールを持つ手を止めると、はにかみながらこう言った。
「なんて云うか、ちょっとした転機があって……なんでピアスかは俺もわかってないんですけど、まあ、これでまた頑張れます。けじめみたいなもんです」
次のシュートを放り、言葉を噛み締めるように放つ眼差しは内に輝く底光りを映す。リングの遥か向こうの方を見据える。 そして木暮に振り向いた笑顔で話題を変えた。
「木暮さんは、昨日こっちに戻ったんですか?」
「いや、今朝。さっき戻ったばかりだよ。牧はまだ帰ってなかった」
そうですか、と互いにボールを手にした二人は、実は昨日顔を合わせたばかりなのだ。
正月ということで実家に帰省したついでに、久々に湘北OB組で湘北体育館に顔を出した木暮だったが、そこには部の練習に加わる神の姿があった。暇を持て余しての敵情視察との経緯と、海南にも顔を出しましょうという牧への伝言が交わされ、練習後は神と水戸を置いて他は去っていった。
そして今日は神と木暮の二人がこの第二体育館で練習をしている。並んでゴールへ走りつつ、パスを回しながら木暮が零す。
「なんだか懐かしいな……」
それはまだ、湘北が弱小ワンマンチームであった頃を振り返っていた。
「昔さ、赤木ともよく、二人だけで練習したんだ」
「二人だけ……ですか?」
「ああ。当時はバスケ部といっても、赤木以外高みを目指していたわけじゃなかったから。正にこんな感じだったよ。コートが静かで広いんだ。だから全国なんて本当、夢のまた夢だった……」
言ってはまた受け取ったボールを木暮がリングに放る。
見事リングを潜るボールを見て、神が力強く応える。
「でもそれが実現するって、やっぱり努力あってこそですよ。俺は、それが足りなかった……」
「何言ってんだよ。神はこうして今も努力を重ねてるし、翔陽だって最近すごいんだろ? 結構噂になってるぞ」
木暮の言う通り、藤真率いる翔陽OBチームは着実にその名を轟かせていた。しかし神が言うことには……
「まあそうなんですけど。今年から市の体育館も使えるし、ユニフォームも揃ったし、大学との練習試合は増えるばかりなんです」
すっかり手を止めた二人はコートの真ん中に腰を下ろし、噂のチームの内部事情について、膝を突き合わせていた。
「誰にも不調な時ってあると思うんです。勿論、それをバスケに持ち出さないに越したことはないですが、人間ですから。俺だってテスト明けなんかは身が入らないこともあったし、仕方ないこともあると思います。でも……最近、花形さんとやりにくくて……」
「花形と?」
「はい。と言っても、やる気がないとか不機嫌ってわけでもなくて。試合中ってオフェンスならオフェンス、ディフェンスならディフェンスでチームみんなが気持ちを一つに、流れに応じてプレイに挑んでるはずなんですが、その気持ちが同じ方を向いてないというか、噛み合わないなって感じることが多いんです」
そう色を曇らせる大きな瞳に映り込む花形の不調。神は続ける。
「夏みたいに、わかりやすくミスが続いてるなら尋ねることも出来るんですけど、その時とはまた違う気がして……なんだかもっと触れちゃいけない感じで、藤真さんも気付いてるはずなんですけど、何も言わないんですよね」
「藤真も……となると、なんだか深刻だな」
透かさずフォローを挟む木暮はこんな時、決して目に見えない他人事として受け流そうとしない。神の陰りをそっくり写した顔ではからいを申し出た。
「俺、実は花形と同じ家庭教師のバイトしてるんだ。明日事務所に寄る用事があるから、そうだな……花形の連絡先、教えてくれないか?」
そう言って、神の持っていた名簿の番号を書き写しつつ、同じく不調だと窺っていたもう一人の名を挙げた。
「そういや流川も、なんだか酷い試合したみたいだな。転校して、選抜でせっかく湘北と当たったっていうのに、桜木が怒るのも無理ないって赤木から聞いたよ」
「俺も乱闘になったって話は聞きましたが、原因が流川っていうのはなんか……」
「意外……だよな。ずっとアメリカ行きに向かってバスケに生きてるようなヤツが、一体どうしちまったんだか……」
年明け初の練習早々、身近な人物の愁い事に胸を痛める二人だが、「まあ、今ここで心配しても始まらないか」気を取り直し、練習に励んだ。
「一人でも二人でも練習は出来るんだし、本当、気持ち次第ですね」
神の言葉に大きく頷いた木暮は今日、神に倣い、シュート二百本に挑戦した。それはどうにか達成したものの、練習を終え体育館を出ても腕が上がらないと嘆く始末だ。
「木暮さん、大丈夫ですか……?」
「うんまあ……じゃあ明日な」
日没を前に、駅で神と別れた木暮は次にバイトへ向かう。生徒の家族とも新年の挨拶を済ませ、そしていつもの街並みがすっかり夜に染まった頃、スーパーで惣菜を買い、アパートに帰宅した。
しかし鍵を開けても中は暗く、玄関には木暮のそれより大きな靴もない。足を踏み入れれば奥に赤い点滅が覗き、ぱっと灯りをつけた木暮は、点滅の続く電話機の前に、留守番電話の解除を押した。
一時間ほど前に届いたそれは、牧の声で再生された。
「俺だ。明日の夕方には帰る」
プツっと切れたあとで木暮は受話器を取った。鞄から今日書き写したメモを取り出し、いつか悩みを打ち明けた彼に連絡を取ったのだった。

一方、その頃牧は苦戦していた。煮物の湯気が立ち込める実家のキッチンにて、慌ただしく炊事に勤しむ母の背中に、幾度と拝み込む牧紳一の姿があった。
「母さん頼む……」
「そんな何度もお願いされても、紳一が理由を言ってくれないことにはねえ」
「それは……」
「だいたいなんで理由を言えないの、そこがわからないわ」
盛り付けた皿を手にした母親は、肩を落とす息子の前をすたすたと通り過ぎていく。
牧はその場に一人、ハァ……と深い溜め息。一度トイレに行ってからリビングへ、特に会話もなく三人での夕食を終えると、片付けも済んだそこは父と息子の男二人となった。母は風呂に、姉は新年会で遅くなるそうだ。
ソファに深く掛けた父はポロシャツを着崩した姿で、グラス片手にのんびりテレビを見ていた。芸人が茶化す芸能ニュースに耳目を傾けていたが、いつまでも視線を落とす息子を見やり、とうとう声を掛けた。
「ははは、まだ母さん口説けないか」
「…………」
「まあそう簡単にはいかないからなぁ母さんは。俺は別に構わないんだが、母さんの許しが出ない限りはなぁ」
「お袋に頼めって言ったのは親父だろ?」
「仕方ないだろう。うちの財布はみーんな母さんが握ってるんだ」
あくまで他人事、といった具合に父はまたテレビを見つつ、時折笑い声を上げる。その姿に愛想を尽かしたか、息子は顔を背けるよう頬杖をつく。
夏以来の息子の帰省で始めは団欒の様子も見られた一家だが、その存在が当たり前になるに連れ、加えて息子が強請ることを始めてからは基本的に放ったらかしだ。それも含めて団欒と云うのかもしれないが、そんな息子はもう、明日にはアパートへ戻る予定だ。
やがてCMに切り替わったところで、酒を含んだ父がずばり一言。牧の意表を衝いた。
「……で、女か?」
忽ち目を剥いては返事もしない息子を見て、父は確信を含む笑みで妙な理解を示す。
「ははは、紳一ももう二十歳だからなぁ。バスケばかりもやってられんだろう」
しかし今テレビで流れたニュースは俳優とモデルの急な授かり婚だ。それは先程の冗談の果てを映したか、冗談で済まない疑心の目が息子を捉えた。
「いやいや、待ってくれ親父。俺に限ってそんなことはない。そういうのはきっちり筋を通したいんだ。だからその、こうして頭下げに来た……」
慌てて語り過ぎたのか、項垂れたまま立ち上がった息子はそのままリビングを去ろうとする。そしてハァ……と続く落胆を乗せた背中に、最後の言葉をかけた父のしたり顔は何やら思わせぶりだった。
「帰るのは明日だろ? まあ待ってなさい」
すると翌朝、牧の懇願していたそれは母親からあっさり手渡されたのだ。
「えっ? 母さんいいの……?」
「今回だけよ。でもあとでちゃんと理由を教えなさいね」
そこは口をすっぱく釘を刺す母だが、唖然とする牧の手にはしっかり希望した分が握られていた。
息子の願いを頑に拒んできた彼女に果たして何があったのか。一夜の間に何が起きたか。牧は訝しげに辺りを見回した。
「親父もう仕事?」
「そう、今日からよ。紳一も今日あっちに戻るんでしょ? 朝ご飯早く食べちゃって」
そして思い出したように母が付け加える。
「そうそう、それとリビングに置いてある箱、父さんから紳一にだって」
「親父から……?」
リビングに戻ればテーブルの上に小さな箱があった。訝しげに箱を開けた息子は、瞬きを忘れたままその場で暫し固まっていた。
中には『母さんには内緒』と書かれた紙切れが一枚。そして、もう一つ………………

やがて朝食を済ませた牧は、纏めた荷物を手に実家を出て行った。くすんだカーキ色のランチコートに身を包み、駅へ向かい電車に乗る。昨夜「夕方には……」と留守電に言伝した牧だが、アパートに着いたのはもう夜だった。玄関を開け電気を点け、奥に干された洗濯物を見ては、寒さに硬まっていた表情が僅かに溶けた。冷蔵庫を開ければ、あとはレンジで温めるだけの焼うどんが皿に盛られ、早速それをレンジに入れた。
そして再び冷蔵庫に貼られたカレンダーを見て、牧は顔を顰める。一月六日の今日、木暮のバイトの印がない。見上げた時計は八時を回り、次に電話の前に立つが、留守電を解除してもそこに新しいメッセージはなかった。
「木暮……」
カレンダーを睨めつける目には去年、女性に掻き乱されたあの夏が映り込む。するとそこに今、目の前で折しも電話が鳴り出し、透かさず受話器を取った彼は再びその名を呼んだ。
「こ、木暮か……!」
「おーい紳一、もう帰ったかぁ」
やけに気の抜けた返事を聞くなり牧はみるみる肩を落とした。
「なんだ親父か……」
その受話器からは雑音が絶えず、父に尋ねればそこは駅で、今は仕事帰りだと言う。
「……で、用件は?」
「いやいや、今朝母さんから受け取ったんだろ? 少しは感謝してくれよ」
「ああまあ……助かった。でも俺はあんな物まで……」
「ああ、それも受け取ったんだな。あれは母さんの機嫌取るのに買ってきたんだが、受け取ってくれなかったんだ。遠慮されちまったよ。だから彼女にでもやったらいいさ。……というか、俺もやる時はやるだろ? 伊達に云十年と大黒柱やってるわけじゃないんだよってな」
……と、父が付け上がってしまったが最後。それはとうとう語り出してしまった。
「昨日、母さんを海に連れ出したんだ。夜の誰もいない海。ロマンチックだろ? そこで、紳一も大きくなったって話したんだよ。今年はもう成人式だからな」
牧夫妻は今年で結婚二十四年目。長男紳一はその結婚記念日に産まれ、周囲に比べやや早い成長に両親は戸惑いつつも、一家四人、これまで円満にやってきた。その円満の秘訣とやらを父が息子に伝授した。
「俺は母さんの尻に敷かれてやってんだ。いやあ、可愛いもんよ。昨日も母さんに言ってやったんだ。いつもすまないねって。紳一が大きくなったのも全部母さんのおかげだって。そしたら今日の弁当がまた豪華だこと豪華だこと……」
父の長い一人語りに、電話の片手間にすっかりバスケ雑誌を開いていた息子だが、三十分を超えた時計を見ては腹の虫さえ音を上げていた。
「わかった親父助かった。俺もう飯食うから」
「ああそうか。じゃあええと……木暮くんにもよろしくな。彼女と上手くやれよ。なんだったらうちに連れてきてもいいんだぞ」
わかった、と受話器を置いた牧は溜息を一つ。それにしても……と依然静かな玄関を見やると同時にドアがガチャっと開けられた。
「ただいま」





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