乙女座のA型 4

玄関のドアが開くなり、全身汗だくの客人はその場でさぁっと色を失う。
「こ………………」
声を詰まらせる彼の手前に、その足元で唇を合わせる男と男。その向こうに女性が一人、そしてもう一人の女性がキッチンから玄関を覗き込んだ。
「あれ? 紳一くん、どうしたの?」
そんな女性の声に応えることなく、足元に寝転ぶ男を牧はただじっと見据える。
「ちょっと三井、早く離れろよ!」
木暮は慌てて三井を押し離し、軽く唇を拭った。
漸く我に返った三井も尻もちを着きつつ後退、ゴシゴシと唇を拭い、「これは事故だ、勘違いすんなよ」と咳払い。
しかしそれでこの気まずい空気が解消されることはなく、それは寧ろ重くなった。三井の背後から不穏な影が木暮の顔を塗り潰すなり、気付いた木暮は愕然とした。
「牧……なんでお前が…………」
その名前で振り向いた三井が声を荒げて驚愕。
「まきって…………んなっ!? ま、ままま牧かよ!?」
一方、姉はごく落ち着いた様子で玄関へ赴き、依然として無言で佇む牧を笑顔で出迎えた。
「紳一くんそんなに汗かいて、何か急ぐ用事でもあったの?」
それは牧にとって仮にも姉の友人だが、彼は応えない。憎しみを孕んだ目で鋭く睨みつけ、そして三井にもその視線を落とせば、三井は微かに後退る。
「な……なんだよ牧…………」
突如訪問した男の静かな威圧に皆が言葉を失う中、牧は木暮の手を取ると、それを強引に連れ出していった。玄関を出てアパートを出て、ひたすら無言で薄暗い街からエプロン姿の木暮を引きずっていった。
「あの、なあ牧……」
微かに震える木暮の声に応えることなく、その不安いっぱいの顔に振り向くことなく、行き交う人の視線も他所に専ら腕を引っ張ってゆく。一言だけ……
「事情はあとで聞いてやる」
「う、うん……」
やがて、最寄り駅が見えてきたところで事件は起きた。
何やら騒がしい駅前から只ならぬ形相をした男が車道に飛び出していった。「待て!」と放つ後ろの声を気にしつつ、程なく二人の前に飛び込んだ男が同様に帰路を急ぐ二人と、いや、木暮とぶつかったのだ。狭い路肩での出会い拍子、勢い余る激しい正面衝突で二人は共に跳ね返る。互いに尻もちを着くと同時に確かな金属音が響くが、牧は突としてその手を離れた木暮の許に駆け寄った。
「木暮、平気か?」
「いや、うんまあ。それより……」
そうずれた眼鏡を直しながら、少しずつ身を起こした木暮はぶつかった男を案ずる。が、今、手前で背中を摩る男の足許で何かが光った。商店街の灯りにどす黒く反射する、生々しく帯びた赤錆色……そして四人の警官たちが透かさず駆け込んできたことで辺りもざわつき、忽ち物々しさが覆う。
「やべ!」
男はそう漏らすなり一目散に逃げ出した。それを追いかける警官らの一人がたった今二人の許へ駆け付け、事情を伺い、牧が衝突の経緯を話す。パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響く中、木暮が手前に見つけてしまった凶器を震えた指で指した。
「こ、これ……………」
居合わせた通行人も足が竦む中、牧もまた警官に事情を尋ねた。
「電車内で痴漢があって、それを注意した少年二人がこれで刺されたんだ。幸い深い傷じゃなかったけど、君達は? 怪我はどう?」
「俺は、ぶつかっただけですから」
そう言って、腰を支え立ち上がった木暮はあれ……? と一つ疑問を浮かべた。
「でもさっきの男、ずいぶん顔が腫れてたよな……」
……その真相はこうだった。痴漢を注意したことで少年は犯人に刺された。その報復として、もう一人の少年が拳を振るったことでその少年も反撃に遭ったと。
それを知った木暮の頭には、いつか水戸の制裁を受けた三井の崩れた顔が浮かび上がった。いやまさか……と打ち消すが、ここに来る以前、木暮は確かに神に付き添う水戸と会っていたのだ。
「いやでもな……」
一人考え込む木暮の隣にそっと牧が歩み寄る。
「すまん。俺がもっと注意してれば……」
木暮の腰へさり気なく手を伸ばし、その体を気遣う。
「いやぁ、俺もぼんやりしてたんだ。お前が謝るなよ」
「悪かった」
「だからいいって、別に刺されたわけじゃないし。でも……物騒だな、世の中って」
木暮はそう言って、周囲の目も憚らず隣の肩に身を寄せた。

それから疲れの色の覗く二人に大した会話はなく、帰宅するなり買ってきた弁当で夕食を済ませ、やがて各々床に就く。
並ぶ布団の上で腰を下ろし、漸く一段落といった具合に息を吐くと、先に口を開いたのが今眼鏡を外したばかりの木暮だった。
「今日、牧があそこに来た理由は聞かない。でもまさかとは思うけど、俺とあの人の仲を疑ってた……?」
言って、隣を向いた木暮はまさに図星と言わんばかりの牧の顔を覗く。そうだったのか、と柔い笑みを零し、彼女について語り始めた。
「俺にとって、すっかり姉みたいな存在だったんだ」
「姉はいるだろ?」
透かさず牧が口を挟むと、木暮は気まずそうに俯く。
「まあ、だが実は、その……」
奥歯にものが挟まったように呟くと、眼鏡を枕元に置いた木暮はやがて改まった。ここで初めて他人に対し、自らの出自について打ち明けたのだ。
「姉はいる。二人いるけど、実の姉ではないんだ。俺本当は、養子だった……」
白く明る蛍光灯の下、あまりに急な告白に牧は声を詰まらせる。声にならない声で「な……?」と木暮を凝視、ただただ目を見開く隣で、木暮は穏やかに続けた。
「物心ついた時にはすでに施設で暮らしてて、自分が何故そこにいるのか、疑おうともしなかったよ」
そこでは、皆が支え合って暮らしていた。年上が年下の面倒をみるのは当たり前、散々面倒をみてもらった分、五歳にもなればオシメの交換もする。持ちつ持たれつの関係が幼少の頃から備わっているから、そこでは年に関係なく皆が平等に笑っていられた。淋しさで泣き出す子供も一月も経てば笑ってる、それが木暮にとって当然の家族でもあった。
しかし小学三年生を迎えたある日のこと、どうしても息子が欲しいという家に木暮は養子として貰われたのだ。
「それまで仲良くしてた同級の子がいたんだけど、今もさ、俺が出て行く時のあの恨めしそうな目が忘れられないんだ。結局さよならも言ってくれなかった。自分だけが幸せになった気がして、それが今でも心苦しいよ。皆が平等だったから、自分だけっていうのがすごく嫌だった。父親ができる、母親に姉も二人……それは確かに幸せなことだし、事実そうだったけど、手放しに喜べた日は一度もなかった」
その、どこか後ろめたい気持ちから木暮は一度も施設に顔を出すことをしなかった。幾度と育った場所を思う間も家族皆に可愛がられ、木暮家の長男として不自由なく育てられたからだ。
「けど、俺が中学に入学した年、姉が少し変わったんだ。俺だけが獣医である父の病院に連れてってもらったり、たくさんの動物に触らせてもらったり、父の期待が長男である俺にあることを察したんだろうな。それまで勉強をみてくれたり、たくさん遊んでくれたのに、少しだけ、姉がよそよそしくなったんだ」
当時高校生だった姉が父の仕事である獣医を突として志望、専ら勉強に励み医学部へ進学、後に獣医となった。そこに実子としての意地のようなものを感じた木暮も姉と少しの距離を置き、それまでの父の期待を有耶無耶にした。
「養子の俺が父の跡を継いじゃいけない。そう感じて、普通の学生でいようと決めたんだ。勉強を休む言い訳としてスポーツに打ち込むのもいいと思って、俺はバスケを始めた。でも不思議だよな……最初はスポーツならなんでもいいと思ってたけど、今はこんなに大好きで、だから牧とも出会えたんだって、そう思うと偶然じゃないような、そんな気がするんだ」
穏やかに始まり朗らかに締める木暮公延の裏側。
あっと言わせる間もなく牧は木暮を抱き寄せると、益々過剰に抱き締めた。うっ……と木暮の息が詰まるほどの腕力でその身を隙間なく保護し、鍛え抜かれたその両腕の内にきつく閉じ込めてしまう。
そして、やっと出た言葉を木暮に返した。
「本当は今日、またお前の優しさを責めようと思ってた。だが面倒見がよく誰にでも優しいのがお前だ。公平に人を思うことなど、俺には出来ない。色んな環境を通して木暮の中に染み付いたそれが、今もこうして伝わってくるから、俺は、何も言えない……」
深く抱え込んだ木暮の頭に、その黒髪に指を鼻先を差し込み、切ない視線を落とす。
すると密着した牧の胸元に、そのティーシャツにじわじわと水分が染み込んできた。木暮……と涙を見下ろして牧は言う。
「何かあったら、必ず俺が守ってやりたいと思ってる」
「牧……なんか、ありがと」
いつになく鼻にかかった声も牧の胸元へ染み込んでゆく。
「今日のことも……」
そう続いた声でふとその身を離した牧はキスを一つ、見つめる裸眼に滲む涙を親指で拭ってやり、続けて名残惜しそうなキスを額に二つほど。
「さて、寝るか」
各々の布団で横になり明かりを消す。外の足音もだんだん疎らに、寝息も響き始めて程なく、牧……と呼びかける声は微かな寝返りの音と共に。
「ね、手ぇだけ……」
せめて……と言わんばかりの薄闇にも甘えた声。布団と布団の間に伸ばされたその手が、逆から伸びた大きな手に包まれた。





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