そうして牧の合宿も終われば夏休みは残り一週間となる。朝食時は決まって流れるテレビがその一週間の天気を報じる。
「今夜から少し気温が下がりそうです。二、三度と僅かではありますが、蒸し蒸しとした嫌な暑さからは解放されそうです」
ほう……と納得する牧の隣で木暮が言った。
「よかったな牧。レポート頑張れよ」
「ああ」
先に器を片付ける木暮をよそに、牧はぼんやりと卵焼きを口へ運ぶ。そして続いてテレビに流れる今日の占い、乙女座A型の運勢に、牧の野望は奮い起こされた。
「思い立ったが吉日とはずばり今日のこと! やろうやろうと思っていたのにずっと出来なかったこと、今日中にやってしまいましょう!」
しかし勘違いにはご注意を……という忠告までは耳にせず、牧は木暮に尋ねた。
「木暮、今日はサークル何時までだ?」
「今日は四時だったかな?」
「じゃあ……」
「でも今日、あのお姉さんの友達が料理教えてくれるって言うから、ちょっと行ってくるよ」
「そ、そうか……」
絶好の機会だとされる今日も、依然木暮から離れない女性に朝から苛立ちを覚えていた。しかし時計を見るなり慌ててスープを流し込む。鞄を引っ掛け玄関へ小走り、一旦戻った牧は歯磨きの後、後ろからの足音に振り向いた。
「どうした木暮?」
「いや最近、その、少し…………」
二人対面する玄関にて、木暮はやや伏し目がちに屈託の色を浮かべていた。しかしそれはすぐいつもの笑顔に打ち消され、「ああいやぁ、なんでもない。いいから頑張ってこいよ」そう却って牧の心配を煽る。
だが今日の牧は少し違った。
「木暮…………!」
今、木暮の身ががばっと太い右腕に絡まれ、透かさず唇を奪われる。急な口付けに暫し目を見開く木暮だが、その表情は徐々に切なく、次第に潤む瞳の奥に朝の恋人を映し出す。
レンズ越しに見つめ合う、至って真顔のその男が告げる。
「木暮……好きだ」
牧がすぐ部屋を出て行くと、残った木暮は閉じたドアを前に茫然と立ち尽くしていた。持ち上げた指先ですっと自らの唇をなぞり、静かに頬を濡らしたところで再び玄関のドアが開く。
「鞄忘れた」
息荒く戻った牧は木暮の涙に気付くことなく、今日も部活に励んで行った。
やがて木暮も午後からのサークルへ、汗より笑い声の飛び交う体育館にはまた例の女性が来ていて、今日もメンバーの冷やかしから神のパスが木暮を救った。勿論すぐにシュートが決まる、もはや日課と化した演出に彼女が拍手を贈る中、今日はその後ろからもう一人、来客があった。
「よう、木暮」
「な……みみみみ三井…………!?」
え? と振り向く女性の背後に私服姿の三井がいた。
三井さん……? とボールを止める神にメンバーが誰だと問いかける。
「元湘北バスケ部で、木暮さんと同級生ですよ。彼もスリーポイントの名手で、よく覚えてます」
「へぇ、神が言うなら相当なんだな。なんか怖いけど」
そんな三井の許へ、女性もいる出入り口へ木暮は駆け寄っていった。
「三井、急にどうしたんだ?」
「急に来ちゃ悪りぃか?」
「いや、別に……。とりあえず、待っててくれ」
そうして四時、いつも通りメンバーと更衣室へ向かう木暮だが、そこにいつもはいないメンバーが隣にいることに気付く。
「あれ? 神、今日は居残りしないのか?」
「今日はちょっと行くところがあって」
すると着替えを始めた半裸二人の間にメンバーが首を突っ込む。
「お、なんだ神もデートか?」
「まさか、俺には木暮さんみたいに甲斐甲斐しい彼女いませんから」
まったく嫌味のない微笑を浮かべる神には木暮も苦笑を保ったまま、「だから違うって……」若干困り果てた様子でそそくさと着替えを済ませ、先に更衣室を後にする。そして、木暮を待つ二人のいる体育館前へ歩を進めていった。
「悪い三井。で、今日はなんでここまで来たんだ?」
……と、まずは女性と適度な距離を保つ不機嫌な三井に問いかける。
「大学はわかったとして、よくここだとわかったな」
「人に訊いたんだよ。今日は木暮が惨めなキャンパスライフ送ってねぇか、わざわざ見に来てやったんだが……」
三井の視線は隣の女性へ、一変して鼻息荒く木暮に詰め寄り、こっそりとその胸ぐらを掴んできた。
「木暮、テメェ一体どういうことだ? つまりその、あの人はオメェのかかカノジョなのか?」
「だから違うって……」
「じゃあなんなんだ? 聞いてみりゃぁオメェのこと待ってるって話じゃねぇか? 一体どういうことだよ?」
「俺はこれから、彼女に料理を教わりに行くんだ」
三井は今一度彼女を一瞥し、再び詰る。
「それはつまり、家に行くってことか?」
「ああそうだよ」
「なんだと……?」
すっかり呆れて無抵抗と化した木暮を案ずるべく、そこに当の彼女が間に入った。
「ほらほら二人とも、もうせっかくだから、今日は二人でウチへいらっしゃい」
猛暑も和む仲裁により、結局これから三人で女性のアパートへ向かうこととなった。
仲良く並んで歩く二人の仲を後ろから三井が訝しむ形で、途中、駅で神と水戸洋平に遭遇しながらまずはスーパーで食材を購入した。残り少ない夏の日暮れを前に、姉妹二人暮らしの一室に若い男らが招かれていった。
一方、牧は部屋で一人レポート作成に打ち込んでいた。……といっても扇風機に靡くレポート用紙は未だ白紙、テーマすら未定のままじっとテーブルを前に腰を据える。外から家族連れの声を聞いては『温暖化と核家族化における関連性』そうテーマを改めてみるが、すぐに頭を抱えて込んでしまう。
その姿を嘲るように扇風機が牧の頭を冷やすが、僅かな風が行き過ぎるなり、傍らでふとページの捲れる音に気付く。牧は頭を上げ、振り向いた先にあの一冊をみつけた。先日木暮から受け取った参考書『効率のよいレポートの書き方』だ。
牧はそれを手を取ると早速中を見ようとして…………躊躇って閉じた。いや……ともう一度表紙を捲るが、いやダメだ、と床に置く。そのうちテレビを点けたり消したり、バスケ雑誌を捲ったり閉じたり、扇風機の手前に座ってみたりバタバタと落ち着かない様子だ。
いつかそれは、木暮の帰りが遅かった日も牧のとった行動だった。後に花形と会っていたと判明したが、当時は連絡もなく遅いことを心配、牧は一人苛々していた。
しかし今日は違う、木暮が今誰とどこにいるか本人の口から聞いて知っているのだ。
「誰と、どこに…………」
牧は今一度あの参考書を睨んだ。そして、たった今鳴り響いた電話へ駆け寄り「木暮か?」と受話器に縋った。返ってきた声は女性のものだった。
「あ、紳一? 私、若子」
「なんだ姉貴か……」
すっかり落胆する弟に姉がハァ、と溜息を零す。そんな姉の用件は二つで、一つは今の牧にとって実にどうでもよいものだった。
「紳一、あんたお彼岸も帰らなかったんだから、今度こそ帰ってきてあげなさいよ」
「あ、ああ……」
「夏休みなのに全然連絡ないから、父さんが紳一は元気なのかっていつも心配してるのよ。テレビ点けたり消したり、新聞捲ったり閉じたりして。しまいには扇風機の前でアアアアアよ!」
「俺はアアアアアはやってない」
「……? 何だかわからないけど、たまには電話してあげて」
「はい」
そして用件はもう一つ……
「で、木暮くんも元気なの?」
木暮は……と牧が言いかけてすぐ、姉は不安を誘う口ぶりで事実牧の不安を煽ったのだ。
「実は少し気になってたんだけど、前に連れてきた私の友達、木暮くんとまだ連絡取ってたりする?」
「ああ、連絡どころしょっちゅう会ってる」
「やっぱりね。実はあの娘………………」
電話を終え、受話器を置くと、牧は部屋を飛び出していった。住所と簡単な地図を記したメモを右手に握り締め、鍵も閉めずサンダルで、漸く日の暮れ落ちた歩道を一目散に駆け出した。
「冗談じゃない……!」
眼鏡で年下となればあの娘の大好物だから……
昔よく、家庭教師での教え子を片っ端から食い漁ってたのよ……
姉の言葉を頭に抱え、やって来た電車に飛び乗ってはドアのすぐ手前に佇む。組んだ腕に乗せた指を忙しく貧乏ゆすり、景色流れる黄昏の窓に深い焦りの色を滲ませ、やがて目の前のドアが開くなり真っ先に車両を降りた。行き交う人の波をすり抜け急いで階段を駆け上り、途中、擦れ違った神に気付くことなく駅東口を出た。
……が、開いたメモに記されている駅前のデパートはそこにない。あるのはラーメン屋へ続く行列のみ、周囲の景色もまるで一致しない。
牧があれ……? と振り返って見上げたそれは、電話で聞いた一つ後の駅だった。
「………………」
踵を返すなり、牧は再び駅へ駆け戻った。
その頃、本来二人の料理教室となるはずだった台所にエプロン姿の三井も加わっていた。
「なんで俺がこんな格好を……」
「妹のだから少し小さいけど、我慢してね三井くん」
「なかなか似合ってるぞ三井」
「なんだと木暮!」
作業より口数の多い和やかな料理教室だ。色気より食い気を誘うここでは三井の疑念も多少晴れたか、餃子の皮を使ったレシピは順調に皿数を増やしていった。
「冷凍にしておけばいつでも使えるし、ちょっとしたオヤツにも最適ね」
スープに揚げ物、デザート等、テーブルに並ぶ品々を前にグゥと三井の腹が鳴る。用意した素材も使い切ったことでここで解散となるはずだったが、女性は二人を引き止めた。
「お腹空いてるわよね。このまま夕飯作っちゃうから、二人とも食べていって。木暮くんも、余った分は紳一くんに持っていったら?」
木暮は少しの遠慮を見せてから三井を気遣う。
「三井は遅くなっても平気なのか?」
「ああ。親には言ってきたからな。まだまだ信用されてねぇけどよ」
じゃあ俺は……と木暮は女性に電話を借りる。そっちよ、と案内された玄関先へ、そこで受話器を持ち上げたところ、手前の玄関のドアが開いた。
「お姉ちゃんただいまー。ハァ、今日も暑かったぁ」
麗らかな女性の声におかえりー、と応える姉に続き、キッチンから覗いた三井はみるみる頬を染めていった。姉とはまた雰囲気の違う、健康美溢れる日焼けした腕が短い袖からすらりと伸び、フゥ、と額の汗を拭っていた。
三井は一変、玄関先に立つ木暮へ視線をキッと切り替えると、顔を真っ赤に鼻息荒く木暮の許へ歩み寄る。
「木暮テメェ……つまりそういうことだったんだな?」
またも木暮の胸ぐらが掴まれるが、その瞬間、つい足を滑らせた木暮は妹の手前でバランスを崩し、三井もその足に足を払われ二人同時にすっ転ぶ。
「痛たたた……なんだよ三井、そういうことってなんなんだまったく」
すると足元に寝転ぶ木暮を見下ろした妹が何やら意味深長に一言。
「あなたが木暮さんね? なるほど……」
へ……? と疑問符を浮かべながら上体を起こそうとする木暮だが、何かを勘違いしたままの三井は重なった木暮の上を降りず、馬乗りに旧友を責め嘆いた。
「木暮! 俺はオメェを見損なったぞ! まさか姉妹同時だなんて……大人になれってつまりそういう意味だったのか! テメェはこの俺を見下してたのか!」
「何が見下すだって? いや三井のこういう喧嘩っぱやいところは確かに……」
「ふざけんな! 俺を差し置いて木暮がオイシイ思いをするなど俺は断じて認めん!」
エプロン姿で身を重ねたまま揉み合う仲の良い二人を、足元に見下ろした妹はただただ呆れていた。片足を高く上げ、入室を阻む二人の頭をよっ、と跨ごうとした…………その瞬間だった。三井は真上を見上げてしまったのだ。ふわりと舞い込む風に誘われるごとく、青いスカートの奥に潜むその白い逆三角を、風通しの良い生地に隠れた最後の一枚を覗いては暫し瞬きも忘れ、たった今、口をあんぐり開けたまま木暮の上に落ちていった。
「おい三っ…………ンー! ンーッ!」
そうして二人の唇まで重なったところ、更なる客人が現れたのだ。
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