今、木暮の目の前で鮮やかなスリーポイントが決まる。中のネットのみを潜る精密さにはバスケサークルの皆が感心、さすがだな、と揃って口を零していた。
「いやぁ、正直申し訳ないくらいだよ」
「まじで進路誤ったんじゃないか?」
第二体育館のコート半分に固まる十人にも満たないメンバー。
その中央に立つシュートを決めた本人は、いつも目的のその奥を見つめ、誰より汗を流して言う。
「いえ、こうしてリングとボールがあれば充分練習はできますから」
その殊勝な顔付きは皆より頭が一つ抜き出ていて、元神奈川得点王であることを唯一知る木暮だけがどこか誇らしげだ。
「さすが元海南生、と言ったところか。しかしここは試合もなければ監督だっていないからな……」
「せめて部に昇格できれば……。あれだけ勧誘に励んだってのに三人の見学のみとは」
神の実力がただの遊びとならぬよう、それは神の入学を知った木暮の呼びかけで皆がメンバー集めに努めてきた。しかし結果はこの通り、場違いな新入生である神が一人加わったのみ、環境は変わらなかったのだ。
壁に跳ね返って転がるボールを神が拾って言った。
「夏休みの練習を増やしてくれただけで有難いと思ってますよ。おかげで勉強にも集中できるし、翔陽での練習にも全力投球できますから。それに……」
木暮に不意のパスを投げつつ、神は視線を出入り口の方へ、意味深長に呟いた。
「見学なら、今日も見えてるじゃないですか」
え……? と木暮も目を転じた先からにっこりと微笑みかけ、涼しげなワンピースを着た彼女がお疲れ様、と重そうな差し入れを上に掲げた。
「ああ、すみませんいつも」
微笑み返す木暮の許に早速サークルメンバーが詰め寄った。
「おい木暮、いい加減白状しろよ」
「誰なんだよあの人、年上だろ? どこまでの関係なんだよ」
ぐるりと囲まれる形で木暮は遂に白状する。
「いやぁ、知人のお姉さんの友達なんだ」
嘘をつけ、と更に数人がかりの徹底マークが仕掛けられる。困惑する木暮には、救いの手を差し伸べるべく、厚いブロックの壁の向こうから救世主の声が舞い込んだ。
「木暮さん、パス!」
「神、頼んだ」
隙を塗って放られたリターンを神が受け取り、何……? とメンバーが振り向いた時にはすでにボールがリングを潜っていた。
「ナニ!? またやられた…………」
そんなやり取りを日課とする彼らが部へ昇格する日は遠いのかもしれない。
やがて午後五時となり、体育館に一人残る神を置いて、メンバーは更衣室へと向かっていた。
「しかし神もよく飽きないよな」
「五百本なんて、どうやったらそんな数字に行き着くんだか」
木暮は言った。
「きっと百でも二百でも足りなかったんだろうな。天才も努力も敗者には認められない言葉だから、勝つために、ずっとそうしてきたんだろう。今までも、これからもさ……」
皆が着替えを済ます中で木暮はぼんやり呟きながら、いつも胸のすぐ取り出せるところにある、高校時代に思いを巡らせる。
そして、彼女の許へ向かった。
「お待たせしました」
日中と変わらない空の下、木暮が朗らかに駆け寄った相手は去年、牧の姉が連れてきた女性だ。初対面のその日から、木暮は家庭教師のバイトに関して何かと世話になっていた。勿論それは男女の交際になく、生徒との接し方、生徒の親との接し方から肝心な授業について、悩みを相談したり参考書を貰ったりといったまで、今日も参考書を買いに行く予定だ。しかし今の木暮にここまで親しい女性はいないため、メンバーがカノジョかと疑うのも無理はなかった。
「私、木暮くんのバスケ見てたらバスケが好きになってきちゃった」
「それは嬉しいな」
……と後頭部を掻く木暮ののんきぶりは、並んで校門を出る二人の背中は今、追ってきたメンバーらの目に狙われている。
「木暮くんは、好きな子いないの?」
「好きなコはいないかな」
木暮が返事をした途端、後ろからは「嘘吐くな」「調子に乗るな」のヤジが一斉に飛び込んできた。
一方、その頃、牧はアパートで散乱した紙くずに囲まれていた。リビングで一人頭を抱え、テーブルの前に腰を据えたままじっとそこを動こうとしない。眼鏡の奥に真っ白なレポート用紙を睨み、ポキッとシャーペンの芯を折る。
「まずはテーマも決まらんことには始まらん」
そう小さく呟いた傍から額にじっとりと汗が這い、ジリジリと茹だる窓の外に虚ろな目を向ける。そして、今飛び込んできた子供の声で彼ははっと顔を上げた。
「これだ……!」
『温暖化と少子化における関連性』
そう素早くペンを走らせたが、ん? と顔を顰めるなり再び考え込んでしまった。
「暖かくなり春が来ると、人はそれを出会いの季節と云う。そして今、夏も真っ盛りとなれば…………」
そこに玄関のドアが開き、折しも木暮が帰宅した。
「牧、またちょっと出てくる。夕飯には戻るよ」
牧は席を立つことなく「ああ」とだけ応えるが、閉まりつつあるその扉の向こうに、今日も朗らかな木暮の後ろに女性の姿を見てしまった。
「確か…………」
姉の友達、と去年を顧みるなりレポート用紙を握り潰す。ドアが閉まるなりそれをグシャグシャに丸め床に叩きつけ、不機嫌に浴室へ、シャワーでさっと汗を流した。
それから一時間もしないうちに木暮は帰宅したが、「話がある」と木暮を問い質そうとするなりリビングの電話が鳴った。
先に受話器を取った牧だが、「オレオレ、三井だけど」と馴れ馴れしい声を聞くなり無言で木暮に手渡した。
木暮の第一声はとても驚いた様子だった。
「み……三井!? なんで……」
「テメェの親に聞いたんだよ」
「ああ、そうか。元気でやってるのか?」
元湘北メンバーがすっかり話し込む様子に牧は無言でトイレへ、リビングへ戻ると、すでに電話を終えた木暮が今度は牧に問いかけた。
「で、さっきの話ってなんだ?」
牧は依然として不機嫌だった。
「いや、なんでもない」
「なんだよ言えよ」
それでも一向に不貞腐れる牧へ、今、右下四十五度の位置から一瞬のキスが触れる。この期に及んでの不意な悪戯に牧は呆然と立ち尽くすが、それを仕掛けた張本人は頬を掻きつつはにかんでいる。牧は益々ムッとしていた。
「それより、レポート終わったのか?」
木暮が目線を落とした先に散乱した紙くずと、依然真っ白なレポート用紙。
「いや……テーマも決まらん。二つの問題を掲げた上でその関連性について纏めなきゃならんのだが、なんせこの暑さだ」
「早くしないと、来週には合宿も始まるんだろ? 夏休みもあっという間だぞ」
「ああわかってる。わかってるが……」
ふとキッチンに向かった牧は冷蔵庫からペットボトルを、冷えに冷えたお茶を取り出す。グラスに注ぎグイッと飲み干すその後ろから、「ほら、これ」と差し出されたのは一冊の参考書だった。『効率のよいレポートの書き方』と題されている。
「どうしたんだこれ?」
「今日貰ってきたんだ」
「貰ったって……」
一体誰に……と考えては今日を遡りはっとする。牧は今、木暮の好意をあまり喜べないでいた。とりあえずで受け取ったそれを開くこともなければ当然レポートも捗らないまま、あっという間に一週間が過ぎ、やがて合宿の日がやってきてしまった。
それは設立二年にして、去年インターカレッジベスト4を納めたこともあり、すでに二階観客席には取材陣やギャラリーが見物に来ていた。牧が入部するその三年前のこと、俄然バスケ部への多大な投資を打ち出した大学はまず優秀な監督、優秀なメンバーの獲得に始まり、僅か一年にして名実を共にしてしまった。故に今年は更に入部希望者が増し、観客席の中には見学に来ている高校生もいる。
その中に、牧はある男を見つけてしまった。
「あれは……まさか……」
先輩に続きコートを周回するその途中、ふと見上げた二階席にじっと牧を追う男がいる。互いにぶつけた視線を外すことなく睨み合うが、先頭を走る先輩の合図で急なペースアップに慌てて我に返った牧は、そこで去年を思い出した。神の言っていた例の噂だ。
「それとあくまで噂ですが、例の七番だったあの男……転校してから一度留年して、またバスケに返り咲いたって話です」
それが今、こうして合宿の見学に来ては牧を目で追っている。
「また厄介なことになりそうだな……」
次の日も、その次の日も見学に来たその男に牧は不安を募らせていた。
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