木暮がバイトから帰った夜、片頬を痛々しく腫らした彼を待っていたのはテーブルの上のメモ書きだった。
――バイトお疲れ。
これから実家に帰る。明日の夜には戻る。
朝はぼんやりしてて気が回らなかったが、体の具合はどうだ? ダメだったら俺の実家に電話くれ。以上――
薄暗いキッチンにパッと明かりを灯し、拾い上げたそれを目にした木暮は自らの腰に掌を当てた。ジーンズの上からゆっくりと手を滑らせ、淡く頬を染めながら後ろの寝室を見やった。
「平気なわけないだろ、馬鹿……」
珍しく乱れたままの布団へ、独り言を零した彼はティーシャツを脱ぎつつ浴室に篭る。頭からシャワーを被る中で今一度腰に手を伸ばし、滴る前髪の奥からそっと視線を落とすのだった。
……彼が成人を迎えた夏のことだった。いくつかの紆余曲折を経て、初めて受け入れる愛を教えられた彼はまた一つ大人になったのだ。
そんな夏の始まりのこと…………
「牧、ただいま」
目元を赤く、声を震わせた木暮が玄関のドアを開けると、中からは夕食を済ませたばかりの牧がおかえりを言う。大きく肩を落とす木暮に案ずる声をかける。
「おい、どうした?」
中へ重い足を運んだ木暮はその顔を見上げるなり、まるで堰を切ったようにほろほろと涙を零した。
「あいつらが、あいつらが……」
しゃくりあげる声に遮られた台詞はなんの説明も為さないが、その肩に触れた牧の問いかけは恋人を優しく宥めるように、つまり……
「やったのか? やられたのか?」
木暮は静かに首を振った。暫し呼吸を落ち着かせ、二人腰を下ろしたところで涙の理由を明かした。
「夢みたいだったんだ。きっと叶うと信じてた、ずっと抱き続けた、でも、叶わなかった夢……。それを今日、あいつらが遂げてくれると思ったら始まる前からこれで……赤木にも三井にも呆れられた」
以前は寂しかった応援席もいつからかとても騒がしくなり、それは部の成長に伴い規模を増し、今日の舞台を盛り上げてくれた。そして久々に集結した懐かしい顔ぶれが、彼らが一際沸き立った瞬間、遂に主役が現れたのだ。コートに踏み入る後輩達の、悪者役の似合い過ぎるあの目を以前も見た気がする……と木暮は続ける。
「俺の5番を今は桜木が着ているのを見たらもう、ろくに試合も見られなかったよ」
「今日の試合はうちの監督も見にいってる。流川桜木のプレイは嫌でも目に焼き付いただろう」
牧がそう伝えた今日はインターハイ決勝戦、八月初旬だった。
ふとカレンダーを見上げた牧は、左胸に木暮の頭を抱きながらそこに溜息を落とす。
大学も夏休みに入ったこの月、それはもちろん牧にとってあまり関係ないが、練習は九時から四時まで、試合も合宿もゼミもあるが忙しいとする日程でもない。しかし木暮はすでに誕生日を迎え、牧より先に成人していた。大人になったその日こそ、と決意していた牧だが、七月十二日……平日のその日もまた、気温が高かった。
――――七月十二日。
牧が部活を終えても空は明るく、アパートの階段を踏む頃合いを見て漸く陽が霞む程度。木暮のバイトがない日は決まって夕食の匂いが牧を待つが、朝から落ち着かない牧はドレッシングもかけず生野菜を頬張り、不自然に木暮の唇ばかりを見つめていた。そして黙々と夕食を済ませた後、すでに必要な物も揃えた上でいざ迎えた誕生日の夜。窓から僅かな夜風を通し、タオルケット一枚の布団で湯上りの恋人を待っていた。電気を消し、程なく隣の布団に収まる木暮を牧はじっと見つめる。夜に染まるその左の頬に木暮……と、やや掠れた声で。
「ん? なに?」
なんの疑念もなく振り向いた木暮に眼鏡はなかった。成人しても変わらない、夜の闇にも染まらない透き通った素の眼差しが無邪気に牧を締め付けていた。
きっとまだどんな汚れも知らない、純粋で無垢で清純で、人より少し涙もろい、疑うことをしない瞳…………
「……………………」
牧は顔を背けてしまった。いいのかと、これからその心も体も、欲望を込めた自らの手で穢すことは愛故として許されるのか。下手すれば嫌われて、幾度と交わした唇ですら二度と受け入れてもらえないかもしれない。
……今更迷いが生じてしまった。長く時間を置いた分、大切に思う気持ちが膨らんだことで畏怖の念が芽生え、いざその時を目前にして激しく決意が揺らいでいた。同居してから一年と少し、これまで何かと辛抱を重ねてきたわけだ。
いつか壊れてしまった風呂は僅か三日で直ったものの、その間の銭湯通いは牧にとって酷なものだった。……ずばり見えてしまうからだ。それまで同じ屋根の下にいようと一度も目にしなかったそれが、仮にも公の場であるそこに違和感なく視界に飛び込む。
そして、それは同時に見られてもいた。
「牧は、やっぱりデカイんだな」
恥じらいも躊躇いもなく凝視しては平然と口にする木暮に対し、牧はさり気なく前を隠した。なにも男同士だろ? とでも言いたげな笑みには遂に項垂れ、いそいそと浴場を去る始末だ。それからも牧の溜息は続いた。
しかしそんな嘆きの霧も、木暮の誕生日を迎えるその日には晴れるものだと思っていた。大事なものを後生大事にとっておいたわけだが、八月に入った今日もまだ何も変わっていなかったのだ。
「ハァ…………」
「牧、さっきからどうした?」
「ああ、いや」
覗き込む瞳から逃れるよう、牧が立ち上がったところでテレビが明日の天気を告げる。
「今日に続き明日もまた、強い日射しが照り付けるでしょう。突然の夕立にも十分にご注意ください」
窓の方に出向いた牧はカーテンを開けるが、今こめかみを滑り落ちた汗に吹き付ける夜風はない。建物の密集する夜景から涼しい潮風は舞い込まず、焼けたアスファルトの臭いがほんのり入り込むだけ。また一筋の汗が伝う。
「ここは立地が悪すぎる」
そう言って、隅の扇風機を回した。
「これの所為で部屋も狭い。こんな生温い風で今年の夏を乗り切れるか……」
やけに独り言の多い、徐に玄関へ歩み寄る牧を木暮が不思議そうに見つめている。
「冷房点けるか?」
「いや、去年みたいに電気代が跳ね上がっても困る」
「仕方ないだろ? 無理したって体に悪いぞ」
「大丈夫だ。少し出てくる」
なぜ……? と首を傾げる木暮を背に、牧は部屋を去っていった。裸足にスニーカーを引っ掛けつつ一人夜の歩道を行き、隣を走る車のごく微かな風に吹かれる。両手をポケットに視線を落とし、愛を貫くことに迷う自らの優しさに酷く落ち込んでいた。
「情けない…………」
恣意のまま恋人を愛せない、触って穢して傷付けて、そして全てを失うのが怖い。辛い。でも欲しい……。
今は一つ年上の恋人を前にとうとう部屋を飛び出してしまった。それが、いつか帝王とされた男の現在の姿だった。
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