先のカップルは席を立つなり、小さな隙間も埋めるべく腕を絡め、自動ドアから出て行った。
「……で、その相手はどんな子?」
花形は”好きになっちゃいけない”理由を早速避けてくれたようだが、木暮はまたも頭を捻る。
「えっ……と…………」
何も適当な女性の特徴を言えばいいわけだが、なぜか筋肉質の彼以外が浮かばない。
「とりあえず、色黒……?」
色黒な女性も多いはず。まず無難な答えだと思ったが……
「そ、そうか……」
花形は訝し気に頷いていた。
そして、そんな彼にはまたも痛いところを衝かれてしまった。
「でも恋人でもないのにルームシェアとは、相手もそれなりに気があるんじゃないか?」
「そう?」
「そもそも、男女で同居を決めておいて何の気もないなんて、まず信じられないがな」
「ああ……確かに」
木暮は言葉を詰まらせた。花形の言う通り、気のない同居など俄には信じ難い。容貌から聡明な彼に反論の余地はなかった。
同居の事実までは明かしすぎたとして、木暮はその話題を打ち切った。
「まあ、古い付き合いなんだ」
適当に流したあとで、「そろそろ出るか」と隅の伝票を取る。透かさず財布を出す彼を背に、程なく店内を後にした。
そこから駅までを共に、すっかり更けた夜の歩道で、木暮の頭は早速アパートに向かっていた。
「結構いたな。同居相手が心配してるんじゃないか?」
隣に肩を並べた彼にはすっかり見透かされた気分だ。
「んー、俺が心配してるかな? またコンビニ弁当食べてないかって」
「はっ、まるで奥さんだな」
奥さん……。不覚にも、否定の言葉が出なかった。
そうして駅で花形と別れるなり、木暮は笑顔を取り払った。唐突な彼の登場には多少気も紛れたが、それだけった。
夏とはいえ夜は少し肌寒いホームで、今日のショックに早速染まり、そして項垂れる。電車と共にやって来た都会のにべない風を受け、何かと厳しい風当りに、ふと潮の香りを探していた。
「ただいま……」
アパートに着き、そっと静かなドアを開ければ煌々と明かりが漏れる。しかし返事はなかった。電気を点けたまま寝てしまったかと、中へ上がれば彼はいた。整頓の行き届いた居間のテーブルに、頬杖を着く無言の背中は寝ているわけではないらしい。
「まだ起きてたのか?」
壁時計が十一時を指すそこで、「ああ」とだけ返って来たうなじはいつにも増して素っ気ない。どうした? という問いかけには遂に返事がなかった。
さて何事か。木暮はその静かな背中へ、今日のとびっきりの偶然を教えてやろうと歩み寄る。
「今日、営業所に花……」
「連絡もないのか?」
偶然を遮る突然の声は、凛と冷たい怒気を孕んでいた。続く嘆きの息に、二人の居間は忽ち凍りついた。
これまで築き上げた空気が壊され、耳が痛くなる程の静寂が部屋を覆う。うっかり落とした教材すら、それを絶つには至らなかった。
気色を察すには遅かったようだ。初めて見るその姿に、彼を怒らせてしまったことに、木暮はその場に立ち竦むだけでただただ閉口していた。
「夕飯も待ったんだ」
ぼやいては立ち上がる、一切振り返ろうとしない不穏の背中は、日曜の今日も疲労を溜め込んで見えた。
「あ、牧…………」
ゴメン……と、続く前にも彼は戸の前へ、何も言わず、そのまま暗い寝室に消えた。
すっと閉まる戸もまた静かで、木暮は急な喪失感と同時に、全ての色を失った。
「………………」
虚しいほどに明るい居間で、木暮は床にへたり込んだ。
――事前に言ってくれ、と以前忠告した彼は今日ずっと待っていてくれたようだ。
結局夕飯は食べたのか。明日も朝早いのに、少ない睡眠は身体に応えないか。思い煩えば切りがない。勝手に食べていてくれればよかったとか、先に寝ていてくれればよかったとか、そういうことではなかった。電話一つすればよかっただけのこと、なぜそれが出来なかったか。あれだけ心配して連絡を怠るとは、すでに憤りすら覚える。抱えた頭に髪を握り掴んでも、裂けそうな頭痛すら叱責には至らない。待っていてくれた彼を裏切るような、そもそも待たせてしまったことが許せない。消えてしまいたい。
ここまで胸が痛むのはもう、そういうことだから――――。
押さえ付ければ吐き気まで催し、鼻の奥がつんと痛み、今あまりの痛さに涙が滲む。
ぽたっと落ちた一滴が元気なオバQの瞳まで濡らした。決して涙の似合わない彼が唯一の同情をくれた。
やがて胸が痞え、込み上げた感情にえずきそうになったところで、木暮は眼鏡を外し目許を拭う。そっと立ち上がり、居間の電気を消した。
静かな戸の向こうで、彼はすでに眠っただろうか。寝息こそ聞こえないが、衣擦れの音もないことにはふうと微笑み、そして、アパートを出て行った。
ゴールデンウィークと違い、今度は逃げるためではない。大人になれよと、それはうっかり涙した大学生に言い聞かせるためだ。
街灯もまばらな夜の道路を彷徨き、夜風に当たることで切り替えようと、特に今日を忘れようと、一人おぼろ気な夜に染まった。たまに擦れ違う他人の視線に、その冷たさに触れようとしたが、たった今眼鏡を忘れたことに気付いた。全く見えないわけではないが、やはり若干の支障はある。
ぼやける標識、濁る夜空、滲む光…………木暮は今一度目を擦り、眠らない夜の清々しさを抱き締めた。
そして後ろから、不意に腕を掴まれたのはその五分後のことだった。
呼吸を大きく整えながら、「木暮……」と放つ人物に、振り向いた木暮は咄嗟に声を失う。愕然と色まで失い、同時に足元が竦んだ。
「ふざけてんのか?」
先程と同じ、じりじりと詰め寄る静かな声音には戦慄すら走る。
「ぁ……と…………」
覚束ない唇は忽ち震え出し、木暮は僅かな声を発すにも汗を要した。彼に押されたわけでもないのに、その場に尻餅を着きそうになるのを堪えるのがやっとだった。
「一体何がしたい?」
淡い街灯の下、陰る表情からは細く窄めた目がこちらを射す。じっと冷ややかに睨み据え、色をなす彼が夜目にも見て取れた。
「な、何でもない……!」
木暮は声を振り絞り、怯えを絶つべくキッと下から見上げるが、どういうわけか……
忽ち目を瞠る牧は、「木暮……?」と案ずる表情を浮かべていた。
「どうした……」
ふっと浮き上がった右手がこちらへ、今木暮の片頬へ、そっと優しく、生きた雫の上に乗せられた。
「あ……いや……」
木暮は咄嗟に顔を背け、透かさずその手を払い退けた。
「ゴミが入ったんだ」
不器用な誤魔化しには見過ごしてもらったつもりで。
「帰るぞ」
そう苦り切った声に、踵を返した背中に大人しく続いた。…………が、突如目の前の景色が歪んだ。同時に足元がふらつき、「あっ」とよろめくその前に、木暮の背中には素早く腕が回り込んでいた。
「平気か?」
やけに温かな心配の声が耳に触れる。逞しく頼れる腕に、脇腹からしっかりと支えられていた。
「悪いな。眼鏡忘れたんだ」
木暮はそっと俯き、今にも染まる頬を下に隠す。
情けなく身を委ねながら、軽く下唇を噛むと、涙を分けたオバQにはすっかり笑われていた。
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