大人になれよ 5

ティーシャツ本番となる七月は、気分も健やかに晴れる時季だと思っていた。すっかり日も暮れた今、お気に入りのオバQティーシャツを着た木暮は家庭教師のバイトを終え、一人逆方向の電車に揺られている。今日は月に一度、バイトの営業所へと向かわなければならないその日。以前面接を受けたそこに着いてすぐ、シフトや給与明細、その他指導要項などの確認を受ける。……それだけのはずだった。
「あんまり気を落とさないでね」
気遣いの声を背に、今奥の個室を出た木暮は極端に肩を落としていた。狭く薄暗い通路で一人、ハァ……と零した精魂は重い足許に消え落ちる。芽生えたやりがいも励んだ努力も、今はどこかへ飛んでしまった。
そして、前方から来る他人とぶつかった。
「あっ、ご、ゴメンなさい」
慌てて頭を下げる木暮の、その目の前にあるのはなんのプリントもないグレーのポロシャツ。その厚い胸元……
「え…………?」
頭上の顔を仰ぐなり、木暮はまず瞠目した。パチパチと瞬きをしてから、間違えようのないその名を言い当てた。
「は…………花形か!?」
赤木と変わらない長身の、同じセンターの黒縁眼鏡をよく覚えている。試合には勝ったが、あの赤木でさえ苦戦した相手だ。
「えっと……」
怪訝に木暮を見下ろす彼は、やはり牧同様覚えていないらしい。
「ああ、俺も一応出たんだけどな。翔陽戦……」
木暮は片頬を指で掻きながら、上目遣いに去年を仄めかした。
「あ、もしかして湘北?」
益々目を丸くする彼は、元緑の5番は漸く思い出してくれた。
「はは、スタメンじゃないから仕方ないか。花形は、どうしてここにいるんだ?」
「俺はバイトで」
「じゃあ、同じ……!?」
木暮もまた大きく目を剥き、先の落胆を打ち消す一驚を上げた。まさか花形と同じバイトとは……。
「同じ……みたいだな。といっても先月始めたばかりなんだが、月に一度ここに来るようにと」
「ああ、俺もだ。簡単な確認受けるだけ。すぐだよ」
「そうか。じゃあ行ってくる」
そう言って、一歩を踏み出した花形はハッと振り返るなり……
「ああ、少し待っててもらってもいいか?」
「じゃあ、そこの出口で待ってる」
出てすぐの壁際に立った木暮は偶然の再会に驚いていた。高校を出ればそんなこともあるんだなと、夜も忙しい人の往来を見つめながら、思えば元副キャプテン同士、何か分かり合えることがあるかもしれない。単に気を紛らわせたいだけかもしれないが……。
やがて戻ってきた花形に、外で立ち話もなんだと近くの喫茶へ促した。若干の賑わいを見せる店内で、四人掛けのテーブルに同じ教材を置き、アイスコーヒーとメロンソーダを対面に囲った。
試合以外で全く面識はなかったが、木暮は元5番である彼に、似たあだ名を付けられた彼には勝手な親近感を抱いていた。
「ところで、名前何だったか……」
そう、ドリンクに手を付ける前に尋ねる元5番。
やはり……と、同じ元5番は小さく笑ってから、「木暮」
「ああ、木暮……くん」
「いやぁ、呼び捨てでいいよ」
「そうか。いや、試合は覚えてるんだ。三井に替わって出てきたな」
「はは、よかった。牧にも最初は思い出してもらえなくてさ」
木暮は偶然に喜ぶばかりついその名を零した。
「牧……海南の?」
まあな、と濁してから、木暮はメロンソーダを手に、気さくに尋ねる。
「で、用ってなんだ?」
花形は頬杖を、拳に片頬を乗せて言った。
「ああ……木暮は、最後に部に顔出したのは卒業か?」
「いや、つい先日。決勝リーグだ」
「そっか……」
そう視線を下げたきり、一旦口を噤む花形を下から覗き込む。
今年決勝には出てきたものの、全敗に終わってしまった翔陽のことを思い出したが、次に彼が口にしたのは少し意外な名前だった。
「流川は……変わってない?」
木暮は忽ち首を傾げ、顔に疑問を残したまま先日の決勝戦を振り返る。
「ああ、あのまんまだ。すっかり怪我も治ってたし、本当スゴイ奴だ。……なんで?」
「いや、そうか……」
何故流川か。少し気になるが、彼もまた一目置いているのだろうと木暮は気に留めず、親近感ついでに同級生ならではの話題を振った。
「花形は、恋人いたりする?」
何ら違和感のないむしろ健全な話題だが、忽ち顔を背ける花形はぼそりと否定した。
「いや…………」
……と言って押し黙るのはいない奴の取る態度じゃない。
「いるって顔だな。どんな子?」
木暮がニヤニヤと言い寄れば、観念した彼は素直に教えてくれた。
「んー…………色白で、おとなしい」
「ははは、でも花形はでかいから、身長差すごそうだな」
そう確かな長身を目の前に言ったはずだが……
「いや、そうでもない」
「え? そうなの?」
木暮は一瞬、口にしたメロンソーダを詰まらせそうになった。
「まあ……木暮はいるのか?」
今度は花形が濁すように、ミルクもシュガーもないアイスコーヒーを混ぜながら尋ねる。
「いない」
「大学は女子も多いのか?」
「ああ」
それは半数には満たないが、入学して三ヶ月の今はまだ何もなかった。大学にも行けばそのうち……とは受験勉強の合間にもちらついた願望だが、いざ通ってみれば何事もなく。当然ながら、自ら行動しない限り何も始まりそうになかった。今はその願望すら失ったわけだが……
「気になるヤツはいるんだ」
浮ついた口が零していた。明かさないことにはその相手もわからないことに、俄然開き直った木暮は更なる事情を明かした。
「同居してるんだ。正確にはルームシェアだけど」
同居…………? と持ち上がった顔にすっかり馴れ馴れしく続ける。
「でも、相手はとにかく忙しくてさ。毎日疲れて帰って来るんだ。それが最近、ふと寂しくなるんだから、そういうことだよな……って」
思い詰めた胸の内を、口が零れるように語っていた。
「まあ、そうだろうな」
そうコーヒーを置き、真剣に聞いてくれる彼にはつい不安まで漏らしてしまう。いや、あまり馴染みのない彼だからこそ都合が良かったのかもしれない。
「でも自信ないんだ」
俯き気に、まだ誰にも明かせない弱音を吐いていた。
「きっと、好きになっちゃいけないんだ」
木暮は遠目の視線を上げ、腕組みに入店してきたカップルを見つめながら、談笑の合間に小さくはにかむ、男女の清い交際を少しだけ恨んだ。
「まさか、親戚とか兄弟……?」
小難しく質す彼に、しかしながら尤もな答えに木暮は思わず笑う。
「はは、まさか。たぶん友達だ。すごく頑張り屋なんだ」
きっと今日も頑張る彼を思いながら、木暮はメロンソーダを……
「……じゃあ、男か?」
その緑の炭酸を、今鮮やかに噴き出した。
「わ、悪い……」
木暮は慌てて台を拭きつつ、唐突な大正解には透かさず訂正を入れる。
「おい、変な冗談はやめてくれよ」
「はは、つい……」





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