大人になれよ 3


土曜の翌日、木暮は家庭教師のバイトに出向いた。いくつかの駅を通り過ぎ、小脇に数冊を挟み、まだ慣れない日中の街並みを颯爽と歩く。住宅地に差し掛かったところで地図を取り出し、それを片手に目印を辿る。
「こんにちは、どうぞ」
玄関で母親に迎えられ、生徒のいる二階へ上がった。こんにちは、とそのドアを開け、生徒の隣に腰掛け、まずは「なんですかこれ?」とティーシャツの柄を指摘された。それをきっかけに話題を広げ、程なく中間テスト対策用の教材を広げる。教えるというより共に問題を解いていっては、何がどうわからないのかを図る。そこで親身に意見を交わせば、手渡されたマニュアルに沿うこともなかった。難題を解いた生徒の笑みにはやりがいこそ芽生え、予定の二時間が短く感じた。
お邪魔しました、と頭を下げた後は、適当な喫茶で少し時間を潰してから次の家庭へと向かった。まだまだ勉強不足な点もあるが、励ましながら指導するという立場は我ながら肌に合っている気がした。
そして、帰ると牧が待っている。ただいま、とドアを開けた瞬間から漂うソースの香り。キッチンの、彼の手にするフライパンからだ。
「お疲れ。すぐ出来る」
気付いた牧は下を向いたまま、真剣な顔で菜箸を握っていた。
後ろから覗き込んだフライパンには香ばしい焼きそばが乗り、更に昨日持ってきた野菜と、豚肉の小間切れが……
「あれ? 肉なんかあったっけ?」
「ああ、なかったから買ってきた。モヤシとピーマンもな」
「あ、そう……」
如何にも主婦の買い物を熟す姿が不似合いで、木暮は思わず肩を揺らす。なんだ……? と不機嫌な顔が振り返り、牧は眉を寄せたまま取り分けた二枚をテーブルに運んだ。
そして食卓についたところで、木暮は初めて彼を諌めた。
「なあ牧、あんまりコンビニ弁当ばっかりもよくないぞ」
……ふと昨夜を思い出して、斜め前に腰を下ろす彼の栄養面を案じた。
ああ、と箸を握る彼は余り聞いていないようだが、木暮は少しばかり反省している。昨夜受けた忠告を胸にしまい、以後黙って家を空けるは避けようと、その日の日記にも記した。

日曜の翌日は、バイトが終わると駅に牧が待っていて、約束の外食を共にした。心細さのないネオンの続く夜の歩道を並んで歩き、駅からすぐの手頃なレストランに入る。
牧の部活のこと、木暮のバイトのこと、談笑を交え互いの近況を語り合えば、極健全な友情を実感出来た。それはそれで、木暮の胸は穏やかだった。
しかしその夜…………寸前のキスは、「ああ、スマン……」と咄嗟に退いていった。
今日も就寝前の消灯後、ふと振り向いた彼と目が合うなり、その視線を躱すことは許されなかった。木暮は暗闇に意識を委ね、慣れないドキドキの中で昨夜の続きを思っていた。
しかし指先に頬を掠められ、静かに傾いたその顔は突如、何かに気付いたようにハッと身を引く。気まずそうに顔を背け、「いや……その、わかってるんだ」と一人呟き、ハァ、と沈む溜め息を吐いていた。
木暮は落胆にある彼を取り留めようと手を伸ばすが………………出来なかった。まるで木暮の心痛を投影した溜め息には、益々混乱が生じそうだったから。
もし彼が、同じ苦しみを抱えているとしたら……――――。
そう考えることすら拒みたかった。木暮は静かにその手を下ろし、布団に潜り背中を向けた。布団に就く音を後ろに聞いてもあまり眠れそうになかった。

――そうしてゴールデンウィークは終わった。月曜からはまた忙しい毎日の始まりだった。
今週から試合の始まる牧は、日々の練習に全ての精魂を捧げてくる。だから、帰ってきた彼は常に疲れた顔をしている。
その疲れを少しでも和らげようと、木暮は家事だけは手を抜かなかった。なるべく部屋を綺麗に、料理の腕も少しずつ磨きながら勉強も怠らない。空いた時間は自分とバイトの勉強に当てていた。
大学にも学部にもよるが、木暮は学校で一日が埋まることはほぼない。要は時間の使い方だと、あの牧に言われては頷く他なかった。
しかし気付くとまた、木暮はここに一人でいる。午後九時のドラマが流れるテレビのテーブル前に腰を下ろし、組んだ手に重い額を支えていた。ふと零した溜め息は、以前より重さを増していた。
今日はどれだけの練習をしているのか。湘北とは比べ物にならない程の量をこなしているのか。
冴えないヒロインが嫉妬に涙したところで木暮はテレビを消し、作った夕食がとっくに冷めているのを察しては、明日からはもう少し遅い時間にと考える。そこに漸く、「ただいま」
今日も疲れた声を聞く。
木暮はすぐ玄関に駆け寄った。少しやつれ気味の顔を前に、にこやかな二択を迫った。
「お疲れ。飯と風呂どっち?」
「じゃあ、飯」
「待ってろ」
そして今夜も、隣には疲れ切った背中が横たわる。疾うに響く深い寝息はすでに夢の中にいるようだ。
木暮はふと、その背中に以前と同じ視線を放った。今日の憔悴の顔を顧みては、その疲労を少しでも癒せないものかと、夜目に身体を案じている。それで彼がよりバスケに打ち込めるなら、大学でも以前のように活躍してくれるなら、もう何でもしてやれるのかもしれない……。
そんな気持ちを押し殺したくて、木暮は寝返りを打った。
甲斐甲斐しく見守るその目は、尊敬や応援の気持ち以上の何かを孕んでいた。そこにはまだまだ目を瞑りたくて、塞ぎ込むべく視界を閉ざした。
遠い夢の入り口を前に、ふと寂しさの波に追われながら。





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