家を出た今も、二階六畳の自室はそのままにしておいてくれる。木暮の物しかない木暮一人の部屋は住み着いた匂いもそのまま、簡素に片付いている。
しかし、落ち着くと思っていたそこは違和感しかなかった。まるで自分の帰るとこはここではないと肌が感じているようだ。
牧と居るようになり、明らかに不自然な自分を知った木暮は、何かが狂いそうになるのをひたすら恐れ、ゴールデンウィークのこの機会にここへ逃げ帰った。ルームシェアの本来の在り方とは異なる状況に恐れを為したが、異なる状況を思う木暮自身もその対象だった。それはルームシェアではなく、きっと男女においての同棲だと、ルームシェアにルームメイトとのキスは必要ないと。
木暮は何度も疑った。問い掛けた。否定した。全ては自分自身へ、他の誰に言えるわけもなく、キスの温もりを知った自身を正すべく、一人悩み倦んでいた。
木暮は窓際の机の前に腰掛け、棚から一冊の忘れ物を取り出した。ライトを灯した机に置き、木暮の筆跡で埋まる最後のページを開いた。
”――3月5日。
今日から牧とのルームシェアが始まる。牧は、試合では常に帝王のオーラを纏っていたが、バスケの関係ないコートの外では気さくに接してくれるし、何かと気も遣ってくれる。同居しても、きっとそれなりに上手くやっていけるだろう。だから牧とはもう、友達と思っていいのだろうか。……いいよな? これから四年間共に過ごすんだから。
今までは湘北の応援をしてきたが、これからはあの牧を、きっと一番近くで応援出来る。なんだかすごく誇らしい気分だ。”
その最後の日記は二ヶ月前、卒業式を終えた数日後、ルームシェアが始まる前の純粋な気持ちを綴ったものだ。中学から始めた日記は何冊めかわからないが、今まで二ヶ月も空けたことはなかった。何を書いてきたわけではないが、図書館で偶然牧と遭遇してからは主に彼に対する羨望、憧れの気持ちばかりを嬉々と書き連ねていた。
彼の行く大学のこと。対海南戦で、前半戦にもいた木暮を後半戦しか覚えてなかったこと。現国が苦手だと言っていたこと。部屋にサーフボードがあったこと。一年の時から怪物とされた彼を、どう足掻いても決して追い付くことのない彼のことを、それは尊敬の眼差しも込め、身近に慕いたかった。そんな思いばかりを延々綴っていた。
……それなのに、彼とは初めてのキスを交わしてしまった。
あの太い腕に抱かれ、唇に触れた確かな熱も、非ぬところにまで走った感触もずっと消えないでいる。恐怖と情欲を同時に煽られる中、ふと何かが芽生えた瞬間が今もありありと浮かぶ。浮かんではまた、言い知れぬ恐怖の中へ落ちて行く…………。
木暮は一つ息を落とし、着いた両肘の間に真っ白な五日以降を見つめた。
この二ヶ月に起きた出来事はあまりに刺激が強すぎて、急すぎて、空白を埋めることは難しい。とりあえずシャーペンを手に、そこに”5月1日”を書くが、あとはペンが続かなかった。
今日湘北に行ったこと。書くことは他にないのに、木暮の頭は依然アパートにいた。
”湘北に行った。みんな元気だった。”
それだけを記し、眼鏡を外し電気を消し、布団に潜った。じっと目を閉じ、ぐちゃぐちゃな思考を夢の中に捨てようとした。が、出来なかった。横になった木暮の隣には当然誰も居ない。シングルベッドに木暮一人だが、人一倍存在感のある彼が隣に居ないのは、二人の六畳に慣れた今は寂寞を感じる。努力の詰まる、エアーサ◯ンパスの香る疲労の背中がぼやけた視界にない。見た目の割に静かな寝息が聞こえない。枕に片頬を預け、ぼんやりと向いた暗闇に、木暮は裸の夜目に探す。……煩いを溢す、憂いの目で。
………………それが嫌だった。憧れの、友人と成り得た彼に切なさを抱くことが、そんな自分が恐かった。キスを仕掛けた彼の真意こそわからないが、それで容易くその気になる自分はおかしいと、それでも何故かときめいてしまう、癒しすら覚える自分はすでに異常だと、責めては酷く苛まれた。
一体自分は何がしたいのか。何を望むのか。そこに恋という答えは多少見えていたわけだが、全てが初めての木暮はまだ、目を瞑っていたかったのかもしれない。少なくとも、これが健全な恋か否かはわかっていたから――――。
それから結局友人一人と会っただけ。ゴールデンウイークなど、前もって予定を立てなければただの休日でしかなかった。家で本を読んでいるか、家で掃除を手伝わされるか、あとは金曜の近付く足音に専ら耳を塞ぐだけ。気付けばすでに木曜の日記を書いていた。
”明日、どんな顔で戻ろう……”――と。
翌日も特にすることはなく、木暮は夕方五時に家を出た。
「牧くんによろしくね」
玄関で見送る母親に野菜の入った袋を持たされ、忘れ物の入った鞄を肩に掛け、黄昏の駅へと向かった。頭には混乱を抱えたまま、四日間の無意味な帰省を終えた。
途中、駅前の書店へふらりと立ち寄る。棚から取った辞書を手に、簡単な意味を目で辿ってから木暮はそこに息を落とす。
きっと感情に左右されなくても、落ち着いていても何も変わらない気がした。役に立たない辞書を閉じ、重い足を進めた。
やがて二本を乗り継ぎ、連休も関係ない人々に紛れ改札を出る。まっすぐ南口を降り、都会の夜の香りに染まると、空に浮かぶ三日月がお帰りなさいを言っていた。そこから数分歩いた角のスーパーで、値引きシールの付いた食品ばかりをレジに持って行くと、すでに二、三度言葉を交わしたパートのおばさんもお帰りを言ってくれた。
「実家にでも帰ってたの?」
「ええ、少し」
都会の故郷も悪くないと、木暮はそう思った。そのままレジ袋を提げ、街灯を辿るよう暗がりを行き、平凡なアパートの階段を上る。小さな窓から明かりの漏れる、表札のないドアの前に立ち、木暮は鍵のかかってないそこを開けた。
「ただいま」
……その返事はなかった。ここに来て急速に緊張が走るが、すぐに浴室の方からバタバタと音がして、パンツ一枚の牧が慌てて顔を出す。
「あ、木暮か。早かったな」
濡れた上半身は湯気を纏い、それは風呂上がりであることを容易く窺わせた。
「牧、風邪ひくぞ」
木暮は思わず表情を崩し、目の前の滑稽な姿を笑った。
あ、ああ……と自身の下着姿を見下ろし、すぐ脱衣場へ戻る半裸の彼。その背中を微笑ましく見届けながら、木暮は漸く荷物を下ろし、狭い玄関に上がり込んだ。
「牧、ちゃんとご飯食べたか?」
着替えをする、戸の向こうの脱衣場へ問いかける。
「ああ、大丈夫だ」
いつもの声が返ってきて、木暮は安堵の息を吐いた。
つい素っ気なくしてしまうことを案じていたが、不意の半裸にはすっかり拍子抜け、憂鬱の気を削がれてしまった。
そして、突如唇を奪われたのは夜のこと。軽い雑談を経ての消灯後、布団に入ろうとした木暮の許へ、それは優しく迫ってきた。
据えた腰を跨ぐように、その手はいつの間にか忍び入り、ふと見上げた薄闇にはあやふやな輪郭がある。
覚束ない裸眼の前に「木暮……」と間近に呼びかける、少し掠れた渋い声。電話で聞いたあの声と似ていた。
胸は忽ち苦痛を患い、ドキッ……と一つ大きく打つなりぴたりと止まってしまった。同時に呼吸も止められた今、返すはずの声は未然に塞がれていた。
……いつか、夢の中で知った感触だった。
それが初めて交わしたキスで、後に現実であったことを明かされた。薄く瞼を開ければそこに居る、暗がりに浮かぶその人によって。
体温という優しい温もりに、木暮はただいいものだと素直に感じていた。相手が誰かは別として、十八歳の木暮にはひたすら新鮮で、それでいて健全な感情だった。しかしその初めてを教えてくれたのは彼で、受け入れた木暮も健全にない。
今シーツを握り締め、目を蕩めかす木暮は不健全なキスに溺れている。改めて実感している。中へ忍び込む体温以上の熱さに意識は益々薄弱として、それは来る前に調べたはずの”冷静”を優に消し去っていた。
解かれたキスの向こうで、おぼろ気な視界の中で牧が言った。
「なるべく、居なくなる時は事前に言ってくれないか? 少しは心配したんだ」
……そう、朦朧とする木暮の頭を枕に乗せながら。
木暮は暗がりの中に切実な顔を見る。視界も曖昧なら意識も不明瞭な中で、それは少しだけ、悲しく見えた。
あとは布団に就く音を隣に聞き、木暮はゆっくり瞳を閉じた。キスに感じた唇も、今は淡い夢の内に閉ざした。
……が、寝息のささめくその中でふと目を覚ます。上体を起こし眼鏡を掛けると、木暮は静かな寝室にそっと足を忍ばせた。寝室を出て、暗く狭い廊下のトイレへ、そしてドアの前で明かりを点けると、ふと漏れた光の射すキッチン側のゴミ箱を見た木暮は、その場で俯いた。静かにそのゴミを纏めた。先日、電話で心配するなと言った彼の、留守中の食生活を中に見つけてしまったのだ。
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