大人になれよ 1


木暮の足は自然とここへ出向いていた。あれから何も変わっていない、爽やかな五月晴れに輝く思い出溢る我が学び舎……といっても、まだ卒業から二ヶ月も経っていなかったりする。
私服で潜った校門から休日の校舎裏を少し歩けば、新緑のそよめく音と共に、ゴールデンウィークに入った今日もほら、早速聞こえてきた。床に擦り付くバッシュの音、弾むボールの音、そして、赤木と共に支え続けてきた部をしかと継いだ、後輩達の気合いいっぱいの掛け声。木暮は自然と小走りに、体育館の出入り口へと向かった。
すると足を踏み入れるよりも先に、懐かしい後輩が愛嬌いっぱいに出迎えてくれた。
「邪魔だどけーっ!!」
こちらに零れたボールへ、抜きん出て追い駆ける桜木が折しも飛びかかって来たのだ。
真正面から勢い良くぶつかって来た彼には呆気なく押し倒され、尻餅を着いた木暮は「痛たたた……」と上体を起こす。一方で、上に伸し掛かる彼は見事ボールを死守していた。何事もなかったようにすっくと立ち上がるなり、それは鋭い睨みを利かせた。
「ッてぇなぁ、邪魔だっつったろクソ! 誰だテメェ、って……あ――――!!」
そうこちらを指さし、彼は大袈裟の過ぎる一驚を上げた。尻の砂を叩き立ち上がる木暮に、「メ、メメメメメガネくん!!」と死守したボールを投りつつ駆け寄ってきた。
「よお桜木。相変わらずやってるな」
「メガネくんもう来るなんて、さてはこの俺がいなくて寂しかったんだな! ナハハハハ!」
踏ん反り返っての高笑いにはとても笑みを零さずにいられない。去年までは毎日見ていた笑顔が目の前に、初めて見た時は目の毒のようにも感じた赤が、今はこんなにも頼もしくて、恋しかった。
「ははは、ああ恋しかったよ桜木」
何も変わらない。まるで、去年の副キャプテンに戻ったような……。
「あ、木暮さんチュッス」
すぐに宮城が気付き、去年共に戦った仲間たちの聞き慣れた挨拶が飛ぶ。続く新入部員も腹の底から声を発す。全うする新キャプテンを垣間見た気がして、もうそれだけで目頭が熱くなってしまった。
急激に高まる感情を一度落ち着かせてから、館内をぐるりと見渡した。増えた部員を確認しながら、壁際に立つマネージャーにペットボトルを手渡した。
「これ、差し入れ。人数も結構増えたな。たぶん足りると思うけど」
「木暮さん、ありがとうございます」
すっかりハリセンを手にした晴子が親しみのある笑顔をくれる。
そしてもう一人気掛かりなのが……
「ウス」
休憩の声がかかった館内で、木暮の頭上からぬっと静かな影が射す。自ら挨拶に来たことには驚いたが、これまた変わらず無表情だ。
「流川、怪我は治ったか?」
上を見上げ、去年選抜前に負傷した手を案ずるが、「平気っす」と応える彼はすっかり額の汗を拭っていた。
「そっか。少しは気を付けろよ」
木暮は調子のいい先輩面で、流川の尻を軽く叩いた。
やはり湘北にはこの男が必要なのだ。今年もベストな状態でインターハイに行って欲しいから、そう、毎日願っている。
「決勝は見に行くからな」
そう言って、汗と熱気の飛び交う館内を出入り口から見守っていた。懐かしい香りのするここで、壁の画鋲の跡ですら去年の今頃へ誘うここで。ふと瞼を閉じ、耳を澄ませばありありと浮かぶ光景の中、木暮は赤の5番を纏っていた。余計なことは一切顧みず、共に発し続けた熱をそっと思い返していた。

――その日の夜のこと。
「あ、丁度よかった。電話」
通りかかったリビングの前の廊下で、今浴室から出てきたところを母親に呼び止められた。
「誰から?」
木暮は首にタオルをかけたまま、保留にある電話器の前に立つが……
「牧くんから」
その名を聞いた途端、俄然重く気が沈み、今日の新鮮な思い出が一瞬にして色褪せた。取った手も感覚が麻痺したように、耳に当てることを躊躇った。
「あ、牧……」
後ろでは両親が寛ぐリビングで、その片隅で小さく俯き、木暮は当てた受話器に呼びかける。
「ど、どうした?」
「木暮か。急にいなくなったから驚いた。忘れ物でもあったか?」
忘れ物……強ちハズレではなかった。
「ああ……まあ、そんなとこ」
「で、いつ戻るんだ?」
「んーと……そうだな。バイトには間に合うように、金曜の夜には戻るよ」
そう平然と応えたが、声を聞いただけでキリキリと締め上げる胸の痛みを、不自然に歪めた顔に封じている。しかし受話器から返ってきた声もどこか沈んでいるようで、「そっか……」と呟く声に、重い吐息が重なって聞こえた。
「ああ、それで聞きたいんだが、留守電の設定はどうやるんだ?」
一転して、いつもの渋い声で告げる些細な用件には少しホッとした。
「それは家のマークのボタン一つでいいんだよ。解除も同じ」
「そうか。あと、今日ゴミ出しを忘れたんだが、次のゴミはいつだ?」
何かと忘れっぽい彼には思わず頬が緩み、木暮は金曜日だと応えてすぐ、無性に彼が心配になる。一人残してしまったことに今更不安が込み上げる。
「牧、大丈夫? 夕飯食べたか?」
「大丈夫だ。心配するな」
「洗濯とか……」
「だから大丈夫だ」
「そっか、安心した」
締め付けられていたはずの胸がすっかり暖かいことに、まるで感情を転がされる感覚には未知の不安を抱いていた。
「まあゆっくりしてこい」
そう素っ気なく言った牧がすぐ……
「ああだが、少しは早く帰ってこい」
やや強気の声が聞こえ、木暮は漸く穏やかに笑える。
「はは、なるべくそうするよ。じゃあ、また何かあったら連絡して」
「わかった」
そして受話器を置くなり、今度は酷い溜息を吐いた。
「なんだかな……」
テレビを囲う両親に背に、木暮は屈託の顔を片手に押さえ、そこを後にした。




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