住 ま な い か 9

穏やかな同棲生活は、まだ学校の始まらない今は順調に続いていた。朝食の後は軽く二人でランニング、一度帰宅してから木暮が昼食の準備を、その間牧が浴槽洗い等の掃除をする。昼食後は公園でのバスケで共に汗を流し、夕食の準備は牧も手伝っている。二人の時間は増えるばかりだった。
そして入浴後、日課となった布団の上での柔軟は近頃半端に終わっていた。身体を近く重ねるわけだから、そこで抑制しろというのも難しい話だ。主に唇を求める牧の所為だが、無抵抗に徹する木暮にも非はあるのだ。

やがて入学式を一週間後に控えた夕暮れのこと――。帰宅した木暮が嬉しそうに、玄関で出迎えた牧に報告した。
「牧、バイト決まったよ」
「ほう、よかったな。時間は?」
「土日だけならって四件入ってさ。土曜が三時から八時で、日曜が一時から七時。とりあえずで決めちゃったけど、人に教えるなんて俺、出来るかな……。何か不安になってきた」
……と、木暮は指で頬を掻く。それは彼の不安を示す仕草であることをここ数週間で知った。
「木暮なら大丈夫だ。あまり無理するなよ」
「ああ、ありがと」
今週日曜から始まる家庭教師のアルバイトに、初めての経験に木暮は今から緊張を見せるが、牧は少し安心していた。同棲一ヵ月を手前に、毎日共にいることがすでに苦痛となっていたのだ。それは決して木暮を嫌いになったわけでも熱が冷めたわけでもない。寧ろ気持ちは大きく膨らみ、今は同時に膨らみ始めた欲を抑えることが困難になっていた。
木暮はまだ、きっと唇で受ける愛しか知らない。それをつい最近知ったばかりの彼にはまだ次を迫りたくなかった。残る理性が躊躇っていた。
この先二人でやっていく以上、間違いは犯したくない。お互い逃げ場はないのだから、今以上を望まないことに尽きるのだ。
週末は木暮が初めてのバイトに出た後、牧は大学に入る前に少しでもと、一人での特訓に明け暮れた。……いや、こうして無駄に疲れることで余計な元気が夜に回るのを阻止したかった。二人の夜は今日もやってくるからだ。
「ただいま。まだ少し冷えるな」
小脇に数冊を抱え、肩を窄めながら玄関のドアを閉めた木暮は、今初めてのバイトから帰ってきたところ。そこに丁度居合わせた。
「お疲れ。夕飯に弁当買っといた」
「悪い。助かるよ」
「それより明日だろ? 入学式」
確か冷蔵庫のカレンダーにチェックが付いていたのを思い出す。
「早く食って早く休め」
「はは、ありがとう」
午後九時台のテレビドラマは展開を見せ、激怒したヒロインが家を飛び出していったところだ。二人で小さく囲んだ弁当を突つきながら、他愛も無い内容を追う程度に目を向けていた。
「そうだ牧、俺ずっと聞きたかったことがあるんだが……」
牧が顔を上げると、木暮は箸を持ったまま尋ねた。
「海南の七番って……いないの?」
「ああ、それは……」
牧は箸を置いた。少しばかり頭を抱え、小さく口を開いた。
「居たことは居たんだが……」
一学年下にまあ優秀な部員がいた。しかしある出来事を機に部を辞め、以来顔を見ることはなかった。その出来事というのがまた厄介で、暫し牧の頭を痛めてくれた。
一息置いては無理に話題を変える。
「それより、バイトはどうだった?」
「ああ、思ったほど大変じゃなかったよ。二人とも今度受験の中学生なんだけど、最近の子は頭いいよな。言ったらすぐに克服出来るんだ」
「それは木暮の教え方が上手いんだろう」
「いやあ。牧は何してたんだ?」
「俺は一人で練習だ」
そっか……と発した木暮は遠くを見上げ、呟く。
「早く見たいな。試合……」
「待ってろ。俺がすぐスタメン勝ち取ってやる」
それらしく大口を叩けば、木暮は顔いっぱいに喜んだ。
「はは、待ってるよ。あ、牧今日も柔軟頼む」
「あ、ああ……」
今日もか……と、日中あれだけかいた汗が早くも無駄になろうとしている。
そして、二人の夜はやってきた。
後は寝るだけ、その前の柔軟。そもそもなぜ柔軟を手伝う羽目になったのか……考える牧だが、手伝うと言ったのは自分だ。仕方ない、と今日も二人で組み合っている。
「木暮、仰向けだ」
最近はここでたまらず唇に走ってしまう。その口付けにより次第に欲が湧き上がり、一人それと戦っていた。
何もしなければ済む話だが、膝を押し上げる際に顔を見やると、眼鏡のないあの瞳がまるで、唇を強請るように見えて仕方ない。今も……切な気な黒い瞳が、牧の目をじっと捉えては離さない。もうはっきり見るなと言ってしまいたい。もし同棲を必要としない関係であればすぐにでも言い放っているところだ。
深く息を吸い、大きく吐ききることで今日は何とか乗り切っているが、次、と寝そべる木暮の膝を体の外側へ上から押し広げれば……
「………………」
何かに似ていた。その何かを考えないようにしているがすでに浮かびっ放しだ。実際この体位では難しいだろうと具体的なことまで考えている。
今、正直な下半身は熱を帯び、木暮の身体を強く求め出していた。
……まずい、これは。まずい……と、手を離した牧は咄嗟に木暮の許を離れた。
「ん? どうした?」
浅く起き上がった木暮は不思議そうにこちらを見つめる。当然何もわかっていない。
「木暮悪い……。今日はもう、疲れた」
牧はなるべく視線を合わせないよう俯き加減に告げた。
木暮もそれとなく異変を察してくれたようだ。
「ああ、悪いないつも。もう寝るか」
程なく電気は消され、照明はカーテンから漏れる明かりだけとなる。牧は望み通りの静かな就寝を試みるが、そう上手くはいかなかった。
もっと真っ暗にはならないものか……
今日はいつもの薄明かりに加え、大きな満月が出ていた。その月明かりがいやに眩しくて仕方がない。隣の白肌がより艶めかしく見えてしまい、頭を過る先の柔軟が非ぬ姿で映し出される。目を閉じるならより鮮明に、スポーツには重要なイメージトレーニングが無駄に活溌となる。一人でコトを満たすとなれば充分なくらいだ。目を開けても閉じても彼ばかりで、まるで全てが敵だった。
すると、隣からは突然バサッと布団を退ける音が、木暮が上体を起こしたらしい。
「牧、起きてる……?」
起きてたのか……と牧は少し驚き、ああ、とだけ声を返すと、どこか悩ましい表情の木暮が、今切ない溜め息を一つ零して……
「なんか俺、眠れない……」
な………………。
牧は声を呑んだ。……完敗だった。最強の敵の放ったそのセリフは正に一撃必殺だった。
なぜ寂しそうに言ってくれるか。なぜ俯くか。咎めるべく起き上がり、隣の布団へ移動した。





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