住 ま な い か 8

木暮に抵抗はなかった。声も上げない、逃げも暴れもしない。じっと全身を強張らせたまま目だけを見開き、静かに唇を受け入れていた。
それをいいことに、牧は背中へ回した腕で大きく抱き竦め、それでも拒絶を見せない唇に深く滑り込む。首を傾けて無気力な歯列を割り、頭を押さえ、知ってしまった中の温もりを恣にした。瑞々しさが飢えた心にも染み渡り、もっと……と、更なる欲が芽生えたところでふと我に返る。
「木暮……?」
離した唇はまだそこに、薄く潤んだ瞳を真下に見下ろし、虚ろな意識を呼び起こしてやる。
「牧……俺………」
漸く反応を見せた木暮だが、茫然と呟いてはおぼろげな眼差しでこちらを透かし見ていた。
「何も抵抗しないんだな……」
そう、牧は怒るでも悲しむでもなく、木暮の肩に額を置き、そこに落胆の息を落とした。あとは何も言うことがなくなって、ゆっくり身体を起こしたら、すぐにも今日を終えたかった。
「今日はもう寝よう」
言って布団に潜れば、木暮も本来の位置に戻り大人しく布団を被る。このまま表面上のリセットを試みた。
それは至って可能で、明日からまた笑って過ごせる日々が容易に想像できてしまう。相手が木暮だからだ。彼もまた、なかったことにしてくれるから。
しかしこうなったのも彼が原因なわけで、これから共に過ごす限り全てをなかったことにするには至らない。だから、今も眠れない。
忘れたくないと、足掻く心根を押し殺すことで胸がいっぱいだった。事実は現実で夢じゃない。先程無抵抗に受け入れた彼もまた、現実にあったはずだ。
そんな隣からは、先程からごそごそと寝返りを打つ音が聞こえる。寝付けないのか、牧は暗闇に尋ねた。
「……起きてるか?」
「ああ」
「眠れない……か?」
「うん……」
重く沈んだ声が隣から返ってきた。
牧は上体を起こすと、そのまま立ち上がり部屋の電気を点ける。白の眩しい布団に腰を下ろし、ゆっくり起き上がった木暮の俯く顔色を窺う。
「木暮、今思ってることを正直に言ってくれ」
その返事次第で牧はこれからの感情をコントロールしたい。それは海南のキャプテン時代に培った一種の自己啓発だ。自身を描いた通りに操ることで、きっと昨年も常勝を持ち越すことが出来た。だから木暮の答え次第でいくらでも自分を抑えられると信じている。
向かい合った木暮は、腹の前に組んだ指を見下ろしながら考え込んでいた。
「えっと、まず……」
漸く開いたその口はすぐにも黙り込んでしまう。
そこを更に覗き込むことで牧は続きを促した。つい寄せてしまう眉間を柔らかく、穏やかに答えを待てば、それは再び声を発した。
「……キスは、別に。良かったよ」
牧は言った。
「俺の……要は男である俺のものであっても、構わないのか?」
「ああ……」
……と益々俯く木暮にはもう一つ。
「じゃあ、俺が木暮に好意を持ってしたとしても、それを受け入れるか?」
木暮はハッと顔を上げた。堅く眉を顰め、『こうい……?』と動いた唇はまずその意味を考えているようだ。
そして再び見上げた黒目はまだ微かな疑問を残し……
「受け入れる……。かな?」
少しばかり気の抜ける牧だが、じっと考え、不安そうに答えてくれたことには微かに緊張を解いた。苦しさから解放されたばかりのほろ苦い微笑で、木暮を黙って抱き締めた。
脇腹から腕を回し、シャツ越しに触れる体温をきつく封じる。うなじから受けた香りもまた清らかで、深まる欲にまるで底がなかった。
今漸く嬉しく思う感情を認めてやれる。もちろん本心で言ったとは思っていないが、「受け入れる。と言ったな」……それが事実だから。嘘でも気遣いでも嬉しかった。
牧は一旦身体を離し、向かい合った正面に困惑の顔色を見る。
「嫌なら言ってくれ」
言って透かさず唇を重ねれば、答える時間すら封じられた木暮は驚きながらも、徐々に瞳を虚ろにする。素直なその唇に、牧は余すことなく触れた。左手にその後頭部を支え、隙だらけの口内へゆっくり舌をねじ込んだ。無抵抗な舌を突つき起こし、果てない欲を少しでも満たそうと、少しでも多くの彼を知ろうと……徐々に後ろへ傾く背中をしっかり支え、唇から想いを注ぐことに没頭した。
このキスの味を覚えて欲しかった。初めてなら尚更、このまま全てを知って欲しかった。
木暮は熱に溶けたような目で遠くを見つめている。左手に凭れる頭は徐々に重くなり、牧はそのまま布団に寝かせた。枕に頭を乗せ、その表情を真下に窺えば、「あ……」とだけ発した木暮が潤む瞳を薄目に覗かせる。
「寝るか?」
「ん……ああ」
牧は起き上がり、電気を消して自分の布団に着いた。隣を見向くことなく背中を向け、クソ……と小さく吐き捨てた。高ぶる胸を掌に、もう後戻り出来ない事実に気付いてしまったから。
……木暮が悪い。何も抵抗しない木暮が悪い。
そう言い聞かせる事で自らの行為を肯定し、長い同棲二日目を終えた。

 

――翌朝。牧はガスの音で目覚め、隣に空の布団を確認しては直ちに起き上がる。今日も後に目覚めてしまった。
戸を開けてすぐのキッチンには朝の光を受ける背中があり、見つけた途端昨夜が蘇り、歩み寄っては昨日の今日を確かめた。腰からスッと腕を回し、咄嗟に竦むうなじに重い頭を預けた。
「すまん、また寝坊した」
昨夜の行為を一夜の夢と、一時の過ちとされれば明らかに迷惑な行為だ。牧は木暮の反応を待った。
すると、一旦手を止めた木暮は鍋をガス台に、そして笑った。
「寝坊って、まだ学校始まってないだろ?」
牧は心底ホッとする。いや若干気が抜ける。そしてガラガラと鳴る洗濯機に目をやり、「あ、洗濯物は俺が干すから、木暮はやるなよ」そう言って浴室に向かった。
程なく洗面前に立ち、牧は鏡に映った自分の顔に違和感を抱く。両手で両頬を軽く叩き付けるが、それは情けなくたるんだまま、吐いた溜め息も情けないもので益々やるせなくなる。
「どうしたものか……」
しかし呟いた鏡の中にも大した屈託は見当たらない。





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