住 ま な い か 7

その夜、食い縛った木暮の口元から小さく声が漏れる。
「痛たたた……」
悲痛に歪む表情が横向きに覗く彼は、早速布団の上で開脚していた。その湯上りの温い背中を牧がグッと押しているわけだが……
「これで痛むのか?」
額の着く十センチ手前で上体が留まっている。
「引退するまでは確かに着いたはずなんだけど……」
鈍っているにしても硬い気がするが、股関節を解せばもう少しいけそうだ。
「木暮、次は仰向けだ」
そう言って、牧は布団の上で仰向けに寝かせた木暮の片膝を持ち上げ、胸に着くよう、跨ったその上から押した。
「痛っっ!」
「木暮、力抜け」
と言っても身体はなかなか言うことを聞かないらしい。何かリラックスできるよう話でもと考え、牧は日中受けた質問を返してみる。
「そういえば、木暮は彼女いるのか?」
「え? ああ、いないよ。恥ずかしいけどまだ恋愛経験ないんだ。痛っ……」
……と、まだリラックスにない身体を、今度は体の外側に膝を開くようにして再度上から押した。
「ぃ痛っ……」
「まあ大学が始まれば出会いも増えるだろう」
「そうだな。痛っ……でも、自信ないなぁ。夢の中で初めてキスしてるくらいだ。けど、あれが本当のキスならやっぱり、いいもんなんだな。すごく暖かかった。理想が夢に現れたかな」
苦痛の中にありながらも、木暮はどこか恍然の眼差しで天井を眺めていた。
……自分の言ってる意味をわかっているのか。はにかむ彼は勿論わかっていそうにないが、今牧を襲い始めた胸騒ぎはとても尋常でない。久々のバスケで少しは振り切ったつもりが、木暮の余計な言葉が徐々に昨夜を引き戻していた。
あんなにいいものだと……?
「そんなによかったのか?」
堪らず訊いてみると、木暮は自分の唇に触れながら昨夜の感触を振り返る。
「なんて言うか人前で平気でキスするカップルの気持ちが少しわかったよ。いや、勿論やらないけどさ」
そんなに、自分のキスを………………
激しく動揺した牧は、押し広げていた膝をうっかり押し込んでしまった。
「あいっっっ…………!!」
悲痛の叫びが甲高く跳ね上がり、牧は瞬時にその手を離す。ギュッと目を瞑る痛々しい表情に詫びる。
「悪い、すまない。大丈夫か?」
「ああ、平気平気」
何でもなく起き上がった木暮だが、起き上がったことで今目の前に対座した牧には益々嫌な予感が走った。さっさともう片足の柔軟を済ませ、今日は早めに横になることにした。
が………………。淡く光射す暗闇の中、牧の目は今夜もギンギンに冴えている。隣からはすでに寝息が響くが、その柔らかなリズムが今はとても悩ましい。
というのも、きっと寝返りをうったのだろう。横を向けばすぐ近くに顔があり、その静かな寝息が肌を擽るように撫でつける。
……とても眠れたものじゃない。と思いつつもしっかり眺めてしまうわけだが。
間近に見ればよくわかる。彼の内面から滲み出る純粋さがその優しい顔によく表れている。更に眼鏡という装備を外した彼本来のアイラインは、どこか中性的な色気を放っていた。小さく開かれた唇までが無防備で、密やかに牧を誘っている。昨日の続きを欲している。……そう思えて仕方なかった。理性とか常識とか道徳とか、さてどんな漢字だったか。思い出そうとして浮かんだのは、いつか木暮の書いたその名だった。
牧は横に寝返り、軽く上体を起こすと、すぐ隣の寝顔を見下ろす。顔形呼吸までがしっかり見て取れる明るさが憎く、面と向かって不満をぶつける。
そして昨日と同様、その薄紅色の唇を静かに奪った。
そっと触れるだけ。しっとりした温もりに程なく時は止まり、目を閉じれば深い背徳の闇に落ちる。陥っては全てが夢に葬られ、今日の出来事を一切忘れる。今日公園で見た人物も、果たして誰だったか……
それは………………
「……ま、き………………!?」
突如揺れた唇に透かさず目を開けた。
すると今、木暮の黒目が真っ直ぐ中心に留まりしかとこちらを見つめていた。昨夜の寝ぼけ眼と違い、黒く艶めく鮮烈の意志を持っていた。
……マズイなんてものじゃない。
牧は咄嗟に後退り、自身の布団に腰を据える。
「あ……ああすまない。本当に……悪かった……」
額を支え俯いて、落胆を顕に謝罪する。
横たわったままの木暮は、皿にした裸眼をこちらに向け、ただただ驚いていた。
「え……? あ………………」
寝ていたところを突然キスで起こされ、それで真面目に謝られても当然困るだろう。
察する牧だが他に言葉が見つからず、もうどうしたらいいものかと、黙ったままの木暮にひたすら罪を感じていた。重い嘆息をシーツへ落とし、暫しの沈黙に酷く苛まれた。
やがて、先に口を切ってくれたのは木暮だった。仰向けのまま、じっと見つめた天井にやんわり問い掛けた。
「昨日のも、牧だった……?」
そう都合良く正夢など見るわけない。否定しても無様なだけに、牧は素直に頭を下げる他ないのな。
「ああ……。本当に申し訳ない」
言い訳も何も出来ない。牧は更に頭を垂れ、これから咎められることを存分に覚悟した。
が、続いて耳に飛び込んで来たのはいつもの抜けた笑い声だ。
「はは、そんな謝るなよ。牧の唇は暖かいんだなぁ。牧に恋人できたら、嫉妬するかもな」
……それは、寛大な優しさを以っての過ぎた気遣いだ。きっと彼は、このままなかったことにしてくれるつもりだろう。しかし下手に動揺を隠そうとしてとんでもないことを口走っていることに、本人は気付いているだろうか。恋人に嫉妬など軽々しく放つ言葉ではない。少なくとも今、この場面では……。
「木暮……」
牧は不機嫌に顔を上げ、そして低めの声に不満を込めた。
「その気がないなら、今すぐ先の言葉を撤回してくれ」
「え…………?」
「わからないか?」
……その気。撤回。気持ちなど知る由もない木暮に言っても、開いたままの口はとてもわかってくれそうにない。簡単にわかられても困るわけだが、散々その気にさせておいて、この苦しみを少しも汲み取ってくれない天性の無垢さには僅かな苛立ちを覚えてしまった。
「俺、なんか言ったっけ……?」
……素で忘れたか。困ったように呟く木暮に、牧の中で燻っていた感情が今大きく吹っ切れてしまった。それならいっそのこと……
牧は無言で木暮に寄ると、横たわったままの身体の上に速やかに覆い被さる。
そして陰りつつある怯える瞳へ。夢の中にない意志ある男へ。
「こういうことだ」
キスをした――――。





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