食器が空き始めた頃だった。茶碗を持ち画面に目線をやったままの木暮が、ふと思い出したように言った。
「そうだ牧、俺昨日変な夢見ちゃってさ。参ったよ」
まさか………。瞬時に凍りついた牧は思わず箸を止める。
「ど、どんな……?」
木暮はほんのり染まった顔を下に向け、下手な照れ隠しもそのままに言った。
「変態だと思われるかもしれないけど、それがさ、俺夢の中でキスしたんだ。夢にしてはすごくリアルで、暖かった」
とそこまで言ってから……
「……あ、引いちゃった?」
気まずそうに眉を寄せこちらを窺っていた。
牧は夢と思っていることに安堵し、そして夢なら……と芽生えた出来心で軽く鎌を掛けてみた。
「で、誰としたんだ?」
「それがよく覚えてないんだ。一瞬牧にも見えた気がしたんだけど……はは、気持ち悪いよな。やっぱり何でもない。気のせいだ」 ……夢なら、夢ならいいじゃないか。
牧は神妙に言った。
「実は俺もなんだ。昨日夢の中で木暮とした」
「へ…………?」
口をあんぐり開けた木暮は見事に固まっている。しかし彼は疑いもせず、事実として鵜呑みにしてしまった。
「キスを? 俺と? はは、偶然にしてはすごいな」
昨夜の事実を偶然としか受け取らない。少しばかり気に入らない牧は、一言付け足した。
「偶然じゃなかったら?」
「……?」
眼鏡の奥の目がぱっちり丸くなる。さっぱり意味がわかってない様子だ。放っておけば次第に腕を組み、首を傾げ益々顔を顰めた。
「偶然の反対は必然だから……」
難しく考える木暮は今にもショートしそうだ。こうしてすっかり信じ込ませたところで、牧は遊びを終えた。
「冗談だ木暮。少し外出るか。ボール持ってくぞ」
外はポカポカと、南風が爽やかに薄地のシャツを通り抜ける。春休みで人も多く賑わうそこに徒歩十五分で辿り着いた。
物件を当たる際、徒歩圏内にどこかリングがあればと希望を上げていた。大規模な公園内にあると聞いては1DKに妥協した次第だ。
緑を寄せ集めた公園で、唯一砂利を敷き詰めたコートにはラインもない、希望通りのリング二つが備わっているだけだった。が、一週間ぶりの懐かしさから牧の目には輝いて映った。
牧はボールを手に、まずはニ、三のドリブルで地の反発を捉える。そして確実なシュートを一本放った。
振り向けば、ネットを潜る瞬間を木暮が茫然と見守っていた。
「相手してくれ」
牧が申し出ると、元赤の5番が頼もしく微笑む。
「よし!」
シャツの袖を大きく捲り上げた。
やがて、少し休憩と並んで掛けたベンチで木暮が呟いた。
「やっぱり牧は本物だな……」
長い息を吐きながら、切ない目で雲の上を眺めていた。
「そうだな、木暮はもう少し腰を落とせ。あと動きが堅い。柔軟が足りないな」
牧はプレイに励みながらも冷静に木暮の動きを見ていた。相手になるかと言えば少し厳しいが、基礎がしっかり身に着いていればフォームも悪くない。赤木との三年間を窺わせる。だが必ずと言っていい程ディフェンスが遅れ、まんまとシュートチャンスを与えている。明らかに体の硬さあってのものだ。
木暮は指で頬を掻きながら照れくさそうに笑っていた。
「ああ、どうも体が硬くて。しばらく体動かしてなかったから余計だな。今日からまた柔軟始めるか」
「俺が手伝ってやる」
「はは、悪いなそれは」
そう笑い合っていたところで突如、遠くを見た木暮が「あれ……!?」と目を凝らす。
「どうした?」
「ほら、あれたぶん陵南の……」
指で示された遠くに視線を飛ばせば、テニスをする女子らの向こうで男女が寄り添って歩いている。その黒いオールバックに見覚えがないわけではないが……
「誰だったか……」
「きっと池上だよな?」
「ああ、池上……」
復唱するがやはり記憶は薄い。彼らは仲良く談笑しながら公園の奥へと去って行った。
「偶然だな。まさか池上もこっちにいるなんて。今度赤木に教えてやるか」
いつものセリフに続き、くるっと振り向いた眼鏡の彼がひょんなことを尋ねてきた。
「そういえば、牧って恋人いる?」
「俺にそんな暇あったと思うか?」
「ああ、そうだったな」
そう素直に納得する木暮にはとある秘密を明かした。
「何よりこの顔だ。桜木にまであの言われようなんだから、女から見れば尚更だろ」
……牧は、とても気にしていた。
「ああ、あれは俺からも謝るよ。あいつは先輩後輩関係ないからな。俺なんかメガネくんだ」
「はっ、まんまじゃないか。まあジイよりマシだ。木暮も俺の顔老けてると思うか?」
「いやあ、全然。俺みたいな間抜け面からしたら、牧みたいな彫りのある顔は憧れだよ。いっそのこと俺も日焼けしてみるかな」
羨望に近い眼差しで言ってくれることには純粋に嬉しい。木暮が天使に見えたほどだ。が、焦がれる日焼けの天使には少し抵抗があった。牧は真顔で隣に詰め寄った。
「木暮には似合わない。というより……いや、皮膚にもあまり良くないんだ」
真摯になり過ぎたことに慌てて言葉を改めた。
そんな牧の影にある木暮は目を見開き、上体を退けていたが、すぐにいつもの表情が戻る。
「いや、冗談」
それから日が暮れるまで、久々のボールの感触をしっかり体に叩き込んだ。
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