住 ま な い か 5

慣れない半端な明るさは牧の睡眠を妨げた。……いや、全く寝付けないことをその所為にしてみたわけだが、昨日も一昨日もこの布団で休んだ。部屋の暗さなど、牧一人の間は気にも留めなかった。となればその理由は明らかだ。今、隣の寝息が気になって気になって仕方ない。耳を撫で付けるような優しい呼吸が却って耳に障る。心地良く繰り返される度、あの涙を浮かべた微笑がまざまざと目に浮かんでいた。
牧はそれを掻き消すべく咄嗟に上体を起こす。バッと布団を退ける音が静寂を裂くが、寝息の止まない隣は深い夢の中だった。
フゥ………………と吐いた息を俯く先へ、そのまま頭を抱え込むが、ふと横目をやるものなら嫌でも視線を奪われる。曝された無垢な寝顔がじっと何かを呼び寄せている。
すっかり見蕩れたまま、牧は隣の布団へ近寄ってはその顔を覗き込んでみた。呼吸を繰り返すだけのあどけない寝顔を、青白い光に浮かぶ肌の白さを、今までで一番近い距離で見下ろした。途端、軋むように脈打つ胸の苦しさを知る。
日中は眼鏡で気付かなかったが、彼本来の黒い瞳は凛と意思ある輝きを放っていた。もしすでにその姿を知っていたらあっさりとルームシェアなど持ち掛けただろうか。そんな木暮と毎晩ここで過ごすなど、今は考えるだけで頭が痛い。
難しく考えるが故思わず顔を顰める。が、突如射し込んだ一筋の光により答えは導かれた。
雲が退いたか、カーテンの隙間から白い月光が溢れていた。その光に照らされ、安らかな頬の上には淡く透き通った輝きが乗っていた。先程拭い切れなかった涙がほんの少し残っていたのだ。ほんの三十分前、後輩との別れを思い出して零された涙……それは、どれだけ純粋なものなのか。
起こさないように、牧は静かにその涙を拭ってやる。サラサラとした水分が親指に触れ、生きた温もりにも触れることで彼の優しさを改めて感じる。同時に、胸の奥の何かが沸々と呼び起こされていた。
常識や道徳が嘲笑うように歪んで、今まで培ってきた全てが音を立てて崩れた。
こんな気持ちは………………後から後から湧き始める不思議な感情を打ち消せないまま、その涙に誘われるよう、今、手で跨いだ先の、寝息立つを唇を奪ってしまった。
……同居に当たり、牧は気遣いだなんだと御託を並べたが、要するに空気だった。都合の良いと言ったら言葉が悪いが、共に過ごし当たり障りのない相手となれば結果そうなる。
しかしそれは、今空気どころかバスケ程に大きな存在として牧の中に立ちはだかった。触れる唇に込み上げる確かな欲情を抑え切れないでいた。
そしてふと目を開けると、目の前にあの黒い瞳がこちらをじっと覗き込んでいる。
なに………………!?? と冷や汗をかき咄嗟に離れる牧だが……
「牧………………?」
と呟いた木暮は、牧を通り越し遠くを見ているようだ。それは程なく瞳を閉じ、また安らかに寝息を立て始めた。
なんだ………………。牧はほっと安心すると同時にフッと鼻で笑った。寝ぼけてたのかと力無く責めた。そんな木暮が愛しく思えてならず、つい頬が緩んでしまった。明らかに空気以上友人以上の感情を抱いてしまった。
……いや、これからどうしよう。同棲初日にしてここまで大きな悩みを抱えるとは考えてもみなかった。と言っても選択肢は一つしかない、何事もなかったように平穏に過ごすだけだ。これから契約した二年間は続く同棲生活。下手な真似をして関係を壊すことだけは避けなければならない。それは金銭面での問題もあり、どちらかが欠ければこのアパート暮らしは終わりを告げる。双方の親にも迷惑を掛けてしまう。
そう現実的なことを考えれば徐々に冷静を取り戻し、牧は漸く眠りに就くことが出来た。

 

「痛っっ!!!」
突如飛び込んできた素っ頓狂な声で牧は目を覚ました。
すぐに起き上がり声のした方へ、戸を開け、すでに日の射すキッチンに顔を出した。そこには不器用に包丁を構える木暮の背中があった。
「大丈夫か?」
声を掛けると、木暮は口に含んだ指を離しつつ振り返る。
「あ、悪い。起こしちゃったな」
「指でも切ったか?」
木暮は薄く血の滲む指を散らつかせながら笑っていた。
「はは、ちょっと。今簡単なの作っちゃうから、ゆっくりしてろよ」
「ああ……すまない」
これが二人で迎える初めての朝だ。窓一面に晴れ渡る青空が邪な昨夜を消し去ってくれる、実に平穏な朝だった。
牧がシャワーを出ると、小さなテーブルにはすでに豊かな色彩が並んでいた。ベーコンエッグにレタスとトマトのサラダ、ワカメと人参のスープ……
「今ご飯持ってくから」
すぐ背中から声がして、湯気立つ大盛りが二膳運ばれてきた。二人間もなくテーブルに着き、せせこましく朝食を囲った。
「木暮、もっと簡単なのでいいぞ。初日からこんなんじゃ疲れるだろ」
そう、漸く手を休めた木暮に言った。
今日は遅く起きてしまった牧だが、次こそは自分がと思うととても気後れしてしまう。朝からここまでは出来そうにない。
しかし、ここで素直に首を縦に振らないのが木暮公延だ。
「それなんだが、学校始まるまで食事は俺全部やるから。これでも少しは親に教わってきたんだけど、まだまだだからさ。練習も兼ねて」
「いや……そこまで頼めない。せめて一緒にいる時は俺にもやらせてくれ」
牧はここぞと申し出るが……
「やってみたら案外料理好きかもしれないんだ。下手なりにさ」
「何を言う。充分だ」
言ってすぐ、牧は手にしたカップを口許へ寄せた。不安な顔から視線を逸らし、やや硬めの人参を時間をかけて頬張った。これ以上の気遣いを拒否したつもりだ。





戻4 | 5 | 次6