部屋も決まった。急な上に予算内での部屋探しはかなりの困難を要したが、2DKから1DKに妥協することで駅から徒歩圏内の物件が見つかった。
キッチンは勿論、風呂トイレは別、ダイニングは四畳のフローリングで一室が六畳。ガス水道電気の契約も済み、家具や電化製品等も一通り揃った。
窓からはしっかり日射しも入り込むそこで、今は六畳の寝室にそれぞれの私物を持ち込んでいた。新しく慣れない香りを確実に二人のものにしていた。
「こりゃもう住めるな」
中央に立ち上がった牧が完成に近い二人の城を見回して呟く。
対する突っ込みは押入れ内を整理する四つん這いの木暮からだ。
「まだ電気と水道通ってないけど。でも結構な額いったな、折半で助かった」
「そうだな。で、木暮はいつから来る?」
「俺はー、まだ決めてないや。牧は?」
と、漸く押入れから出て来た頭は少し乱れている。やや滑稽に映る眼鏡の彼に笑みを押し殺す。
「俺はいつでもいいんだが、荷物ほとんど持ってきたから……そうだな、今週中か。卒業式終えたら来る」
「俺も週末には来るよ。米もあるから大丈夫だな。そういえば、牧料理は?」
唐突ながら重要な話題に一瞬言葉を呑んだ。
「まあ、なんとかなるだろう」
とは言ったものの、バスケ三昧の牧に包丁を握る時間もそのつもりもなかった。
「はは、俺も大して出来ないけど、学校始まったらどうする?」
料理……それがルームシェアに当たり最初に決める二人のルールとなった。
「俺は朝練あるから、各自にしよう」
神奈川を制した牧にはすでに大学レベルの挑戦が待っている。そこは木暮も素早く察してくれた。
「そっか、大変だもんな。じゃあ夕食は俺が作るから」
そうあまりにあっさり申し出てくれるのも後ろめたく、牧は遠慮に徹した。
「いやそれは悪い。俺は食えれば何でもいいんだ」
「いやぁ、ついでだから。それに、牧はちゃんと栄養つけなきゃまずいだろ? 俺の方が暇なんだから、そこは任せてくれよ」
「ああじゃあ、すまない」
参考書の時と同様、そのお人好しを隠せない笑顔には見事に遠慮を封じられてしまう。自分からルームシェアを持ち掛けておいて夕食まで頼むとは、なんて図々しい。牧は自身を疑った。しかしその甲斐甲斐しさが嬉しくもあるのは、それが木暮という人間なのだと容易に理解出来たからだ。あの五人五色に富んだ湘北の団結を支えたはこの元副キャプテンかもしれない。
そうして買い出しと掃除が済んだ夕方には二人とも実家に帰宅した。
本来なら、他人同士が同棲するとなればきっちり決まり事をしておくのが理想だという。しかし今の二人にそれは当て嵌まるだろうか。ただ漠然とだが、今の間柄を保つうちは必要ないと牧は思う。仮にこれ以上話し合ったところで木暮が全て引き受けてしまうのではないか……そんな憶測の上で、帰りの電車でもあまり今後のアパート生活には触れなかった。
卒業式を終え、次に二人が顔を合わせたのはその四日後のことだ。混み合いを増した夕刻の最寄り駅で、待ち合わせた改札付近で「お疲れ」と牧の背中に声がかかった。
「早かったな」
言って振り返ると、牧は今初めて目の当たりにした。何ら変わりない木暮の羽織ったパーカーの中……全開のその中央に、『珍』の文字と微妙なキリンのプリントが覗いていたのだ。
「………………」
そのシュールなセンスにはすっかり言葉を失った。
「ん? どうかした?」
「いや」
駅を出ればすでに日は落ち、アパート周辺の街並みを覚えながら適当な外食に出向く。そう事前に約束していた。帰りには揃えきれなかった洗剤等を買い、夜の街を並んで歩き、アパートへと戻った。牧はそのまま、同棲初日を極平穏に迎えようとしていた。
やがて風呂を済ませ、マットを敷くことでリビングに仕立てたダイニングに二人で落ち着く。楽な部屋着で、二人初めて部屋で過ごす時間だが、テーブルにテレビを置いた四畳はさすがに狭かった。
「やはり狭いな」
「急だったし仕方ないよ。あ、牧の布団も敷いとくぞ」
言って立ち上がった木暮は後ろの戸へ手を掛ける。牧もその背中に続き、「そのくらいはやる」と電気を消すと、結局二人で寝室へ、歩幅程の距離を離し並んで布団を敷いた。
しかし物もあっての六畳もまた……
「やはり、狭いな……」
牧は布団の隙間を半分程詰める。
「いやぁ、牧が上手く収納したおかげで寧ろ広くなったよ」
木暮のいない間整頓しておいたことにさり気ない礼を受けながら、牧は十時を指す時計に目をやった。いつもなら筋トレに励む時間にあるが、うつ伏せで読書をし始めた隣を見ては大人しく横になる。仰向けに、いつかの参考書を捲り始めた。
そのまま静かな時が過ぎ、やがて文章にも飽きた頃、参考書を置いた牧は無言の隣に首を向けた。
「木暮、バスケ部はどうだった?」
え? と向けられた顔に、牧もつい先日の卒業式を振り返った。
「ウチは清田が泣いてた」
すると読んでいた本を閉じた木暮は、外した眼鏡を傍へ置く。そして、初めての素の眼差しを笑って見せてくれた。
「はは、うちも桜木が泣いてたな。卑怯だよなぁ、問題児のくせに。あいつには泣かされっ放しだよ本当……」
……と、徐々に消え入りそうな声で、確かに笑っていた顔は今、静かに俯いていた。
「そうか。流川は?」
「流川も流川なりに礼を言ってくれたよ。あいつ、国体出てから少し変わったかな」
そう後輩を偲んだきり、枕に淡い影を落とす顔は暫く上がりそうにない。そして、その陰りに伏せられた瞳から、今ポロッと一滴が零れ落ちる瞬間を牧は確かに見届けた。見逃さなかった。
牧が驚きを発する前に木暮は涙を拭い、僅かに顔を持ち上げて言った。
「はは、思い出したらまただ」
細く湿った声で、瞳を潤ませ力無く微笑んでいた。程なく俯きにある目元を拭い、暫し黙りこくってしまった。
「…………」
牧は茫然と口を開いたまま、身動きすら奪われた。泣く……のか……と、初めて目にした先の姿がすっかり頭を独占していた。
眼鏡を外し、そこに涙を加えた木暮からは、昼間の清らさか以上に澄んだ色気が溢れていたのだ。日中には微塵も見えなかった夜の彼にすっかり魅せられ、詰め込んだばかりの参考書の内容は全て消し去られた。
「悪いな。俺、涙もろいのかもしれない」
涙を流してすっきりしたか、木暮はすぐ布団に潜った。
「もう寝るよ。電気点けといて平気だから」
今更見せてしまったことを恥じるようにそそくさと瞳を閉じる。
「ああ、じゃあ俺も寝る」
弱さを垣間見せた木暮を気遣い、牧は電気を消した。同時に辺りは一瞬にして闇に飲まれる……はずだったが、頭上から射し込む外の人工的な明るさでここは真っ暗闇には至らなかった。
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