見えない鎖を断つ方法 8 |
翌日午後二時。廃屋と化した空き倉庫前で五人一列に立ち構える。隣の足下に鳴る砂利音、直後、吹きつけた北風に転がる角缶に逐一背中をビクつかせ、鋭い眼光をレーザービームのように張り巡らせ、群を成した敵が掛かるのを固唾を呑んで待ち伏せていた。 あえて遅れて来るのだろう。終わりのない緊張感はじわじわと精神を蝕む。近くを車が過ぎ去る間、久々に固めた髪を風が撫で付ける間、それでも目を凝らしているだけの数秒が長い。首を捻って鳴らしてみたり、呆れて溜息を零したり、やがて誰かが屁をこいたことで結局いつもの馬鹿騒ぎに発展。最早慣習に近いものがあった。 …………懐かしかった。底に埋れた勘が浮上し、それは遂に、遠く不揃いな足音に触れた。隈無く仕掛けたレーザービームに、今汚い土足が踏み込まれた。 煽る風息。舞う砂塵。視界を掠めるほどのそれはやけに黄色い……黄砂だろうか。世界は順調に汚れているようだ。 廃れた門の前で、一触即発の間合いに対峙した八人の第一声は花道に対するものだった。 「おいテメェ、そこの一番でけぇヤツぁ、ナメてんのか?」 ボスらしい中央の男がその装いを尚からかった。 「今時ほっかむりにひょっとこたぁ、いいセンスだ。ダハハハハハ!」 人を食ったような高笑いに取り巻きの奴らも続く中、特にデカいそのひょっとこは外見通り、口を小さく尖らせてぼやいた。 「だから俺はヤダっつったんだ! こんなひょっとこなんて……」 「しゃーねーだろ? 花道の顔も頭も割れてんだから。ったく、誰某構わず頭突きかましやがって。もしバレたら推薦だって取り消しだぜ?」 「文句言うくれぇなら大人しくヘルメットにしときゃぁよかったんだ」 「誂え向きにひょっとこがあっただけでも感謝しろよ。普通ねぇぜ? こんな骨董品なんてよ、ダハハハハハ!」 奴らとは別の和やかな笑いに沸く、すっかり解かれた緊張感に、待機を余儀無くされた相手は今にもブチ切れそうなほどの青筋を立てていた。無邪気な挑発というやつだ。 血相を変えた八人はそれより少ない相手に照準を合わせ、遂に本番を吹っかけてきた。 「わーったよ。テメェらこないだのクソ生意気な野郎と同じ目に遭いてぇわけだな」 握った拳をボキボキと鳴らすなり、くんずほぐれつの取っ組み合いは始まった。 さて覚えているだろうか――――先ずは間合いに入り込み、鳩尾に肘打ちを喰らわした後、透かさずそいつの人中目掛けて裏拳を放つ。その瞬間、拳に付着した生暖かい温度……痛みを庇う相手の顔面に次なる拳を繰り出し、頬骨と関節がぶつかり合うこの鈍い感触に尚胸が踊り出す…………。 何も忘れていなかった。蹴りを放った相手は後のスピードが劣り、上半身ががら空きになる。だから躱してすぐに顎を目掛け突き上げれば、ほら、鮮やかなクリーンヒット。しかし不覚にも背後に気付かず、別の相手から脇腹に蹴りを食らったのは失態。身体は相当鈍っていたわけだが、そう痛感する間も胸の高鳴りは止まなかった。 次のストレートを振るいながら、洋平は欄欄と滾る目のままのその気持ちをぶつけていた。 「一人をリンチすっとかさぁ、そういうの嫌いなんだわ。そういう卑怯ってかっこよくねーの……! つったって、わかんねんだろあんたら。だからこうして教えてやってんのに。そうすりゃ俺らも気晴らしになるし、あんたらも多少馬鹿が治るし、ちっとした世直しにも……」 繋っちまうじゃねぇか! と引きを知らない突きすぎた拳を慌てて躱す。それをしっかり捕まえれば相手はまたバランスを崩し、隙が生じる。目には目を、脇腹には脇腹へ、回し蹴りを返してくれる。 ……蘇れば蘇るほど無我夢中で暴れていた。暫く忘れていた自分が今確かにここにある。自分にしかない何か、それが大暴れする瞬間が最高に心地良い。痛いくらいの強風がこんなにも気持ちいい。 もう高校を卒業するというのに、折角登り出した大人への道がまた遠退いていったようだ。情けない、それでも容赦ない拳は止まず、なんとかくたばった二人を隅に蹴って転がした。 そして振り返れば、ボスとやり合う花道を除いてはほぼ打ちのめしたところ。あえて手出しすることなく、殴り合いを貫く二人のマンツーマンを見守るが、花道が苦戦していたのは紛れもなく覆面の所為だった。 「おい忠! これ全然前見えねぇんだよ! クソッ!」 ……とは言え、それなりにダメージのある相手を見れば多少掠ってはいるようだ。そうなると後は揶揄に徹するのが残された者の愉しみである。 「おい花道、まるでスイカ割りみてぇで楽しいじゃねぇか。ほらもっと右だぜぇ」 「大楠テメェふざけんな、これ本当に見づれぇんだよ、だぁクソ!」 ……と言いつつ顔面ヒット。ボスはすぐくたばり、真冬の覆面スイカ割りは呆気なく終わってしまった。 「なんだ、意外と手応えなかったな」 「そんなに服汚したヤツがよく言うぜ」 純平の怪我には及ばないが、復讐は存分に果たしたつもりだ。暫く起き上がれないぐらいで充分、汗をかいた爽快感のうちに憎しみも失せ、花道も漸くその覆面を外した。 「ぷっはぁ、息苦しさで死ぬかと思った」 こうして仇打ちは終了。踵を返した五人の背中に、敗者による捨て台詞が投げ付けられたのだった。 「おい貴様、やけに聞き覚えのある声だと思ったら、あの赤い髪だったか。湘北の桜木……だったな。テメェ、バスケで相当有名らしいな」 「なにぃ……!」 逆襲とも言える脅迫に透かさず酬いる花道を、目の色変えてそれに続こうとする三人を洋平は止めた。 花道はここまでだと、一人そいつの許へ歩み寄り、そこに心からの哀れみを映し、酷く腫れ上がった顔を見つめる。 洋平は自身にも問う。ねえ、なんでわかんねぇの――――? 握り締めた最後の拳をその鳩尾に深く沈めた。 「ぐぉッ…………かハッ……………」 呼吸が出来ず苦しい、辛い、体も相当痛いはず……それでも復讐に拘る馬鹿の瞳に、掴んだ胸ぐらを引き寄せた洋平は言い放った。それは以前、拳を封じると同時に放った台詞と逆のことを言っていた。 「今日の復讐すんななんて言わねぇよ。まだまだ気が済まねぇんだろ? しゃーねぇんだそれは、馬鹿だからよ。でもさ、花道はバスケで忙しいの。あんたとは比になんねーくらい恋にスポーツに忙しいの。わかる? つまり俺らとは別の世界の人間なんだわ。だから、そういうのはあんたらとおんなじ暇人同士でやれってこと。次やっ時は俺んとこきな。なんつったって暇だから、いつでも相手してやるわ」 くだらない、復讐なんて馬鹿げたことはもう勘弁だと、洋平は以前そう言った。自分自身に言っていた。しかし体が忘れられないと気付いた今は、気が済むまでやり合うことで心底呆れることを願う。いつか、足の先まで駆け巡る血が穏やかな波音を知った時、その時にはどうか、他にやることが見つかっていますように……。誰のためでもない、自分のためだ。 洋平は、ここへ来る前に街頭で貰ったポケットティッシュを男の腹に放り投げた。 その後アパートに帰ると、鼻にギプス、頬に湿布を貼った弟が早くもテレビゲームに暮れていた。 「ん、おかえり」 「惺は帰ったのか?」 「やっと帰った。お袋カンカンだっつーのに、アイツ手術終わるまで帰んねーって聞かなくてよ」 そっか……と上がり込んだ洋平はまず汚れた衣服を脱ぎ、軽く砂利を叩き落とし、洗濯機に放り込む。さっと顔を洗い、日中からゲーム音の流れる部屋で服を着替え、冷えた喉越しを求めて冷蔵庫へ向かおうとしたところ、背中を向けた純平の呟きが洋平の足を止めた。 「気付いたんだな、あれ」 「ああ……よく覚えてたな。俺もお前も」 「さすがに八人は無謀だって自覚したとこで手遅れ。どうすっか考えて、思いついたのが何故かそれだった」 「小銭もよく足りたな」 「癖になってんだよ、なんか……。入れとかねぇと落ち着かねぇの」 滑稽なゲーム音の絶えない中、一切目を合わせることなく淡々と会話する兄弟。後ろから見ても未だ腫れの引かない弟の頬は痛々しく、せめて手術を受けたばかりは大人しく寝てろと言いたい。 しかしそんな弟からも痛いところを衝かれ、洋平はその背中を前に苦笑を零すしかなかった。 「そんでさ、洋平は進路どうすんの?」 特に遠慮も要らない弟にすら返す言葉が見つからない。受け流すほかないのだ。 「まあな。純平は?」 すると純平は漸くタイムボタンを押す。それまで無関心だった背中がくるっと向き返り、テープやらギプスやらで抑えられた表情の内で嬉々と語った。 「俺ゲーム好きだから、ゲームの専門行くんだ。まあ実際出来っかわかんねぇけど。もしダメでも親父の店一軒もらえるし。惺も最近シルバーアクセ作んの嵌っててよ、そっちの専門行きたいって調べたら同じ学校にデザイン科あって、もう申し込みは済んだぜ。あいつのお袋説得すんの大変だったってよ。今は、一緒にアパート住むかって計画立ててんだ」 果たしてゲームをするのと造るのは別だとわかっているかは謎だ。それでも開かれた道が目の前にあるなら安心する、羨ましい。 「そっか。頑張んな」 冷蔵庫から取った一缶を飲み干そうとして、ほぼ余したそれを置くと、洋平はアパートを後にした。 白けた空、乾いた空気、枯れた心……もう少し触れていたい冬はいつか曙を迎え、春を呼び起こしてしまう。無情にも過ぎ去る日々の末に訪れるそれは、洋平が触れても暖く感じるか。まだ僅かな猶予があるといえ、諦めたら終わりだといえ、雲間から覗く陽射しが今も決断を迫るから、視線を上げることもできない。 本当は、あの人に電話しようとアパートに帰ったはずだった。散々心配をかけてくれた人達に安心を届けるため、そして、暫しの別れを告げるためだ。 結局好き勝手なことばかりして進路も決められない、向かい合うことすらしない男が、どんな努力も惜しまない優等生とヘラヘラ顔を合わせていいものか。あの人から見た今の洋平は、男のツラをしただけのただのマセガキだ。まして夢も持たないガキになど魅力を感じることもないだろう。思ったら声を聞くことすら拒んでいた。 「情けねぇよなー……」 道端で一人をいいことにぼやけるほど惨めだ。普段から特に拘りも無く、心が広いフリをして、妙に頑固で一本気なところがあると自分の中に見出してきた。それが膨れたプライドと闘っては折衝を繰り返し、散々不貞腐れては悪足掻き、それがうまくいかないことにまた不貞腐れ、不良としての自分に逃げる……。ずっとそうしてきた。馬鹿でもどうにか大人になろうと背伸びして、大人と子供の間に生じる摩擦を誤魔化し、そうしてやっと導き出した答えがこうして孤独に縋る自分だ。 逃避への道を歩むことしかできない甘ったれがここにいた。いつまでも健在するそれを誰にも見せたくないというプライドが唯一指し示した道だった。だから、もう東京へ戻っているだろうあの人に電話はしない。受け取った合鍵も自ら使うことはない。……決めた。見合わない、余りある幸せは自分をダメにするとわかったから、それが甘えだと知ったからにはまた暫くバイトで資金を貯め、卒業と同時にここを出ようと思う。お袋も弟も帰らないここに何の未練もない。原付と財布と高卒を手にどこかでバイトにありついて、そして、いつか見つけた自分に堂々と胸を張れた時、もう一度、あの人に出逢えたら――――その時初めて伝えたい言葉がある。 …………なんて。あまりに都合のいい考えを鼻で笑い飛ばし、足の赴くままに歩を進めた。 向こうから、小気味よいバッシュの音が聞こえてきた。 |
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