数枚の五円玉、それは水のある所を指す。当時は公園の噴水等を指したが、ここにそんなものはない。他に土地勘の薄い弟も知るオアシスとなれば、そう、一つしかない。北風に時化る夜の海へ四人は急いで向かった。
…………が、漸く潮風を感じた頃、水平線もまだ見えない、住宅街を抜け出た辺りで純平は姿を現したのだ。
無気力にぐったりとしたそれは大楠の背中におぶられ、正面の歩道から無言でこちらに近付いてきた。通りすがりのヘッドライトにうっすら覗いたその顔は、見事に腫れ上がったそれは双子の顔と思えない、今も流れ続ける鼻血は拭い切れぬまま顎を伝い、穢れた衣服を屈辱に染め、暴行の激しさを語っていた。
街灯の下で大楠が足を止め、そこへ直ちに駆け寄れば痛々しさは手に取れるように伝わった。夜目にも浮かぶ無数の青あざ、乾かない血の上からも砂に塗れた切り傷は、一人で八人を相手した証か。靴のない片足、大楠の肩からだらりと垂れ落ちた腕に、誰一人言葉が出ない。
背負ったままの大楠が言った。
「偶々よ、最近派手にやらかしてるっつーO高のヤツら見かけて、如何にも喧嘩した後の形しながら海辺がどうとか言ってたから、行ってみたら案の定、このザマだ。とりあえず生きちゃぁいるが、鼻はさすがに病院だな。かなりヤベェぞ」
すぐに惺が駆け寄り、伸びた前髪の奥に覗く汚い顔を掴んで揺すった。
「おい純平……! なんなんだよこれ!」
そんな純平の首には珍しくシルバーアクセが掛けられ、そこに一滴、二滴三滴と友の涙が零れ落ちる。肩の上の純平は僅かに顔を上げると、そこに力無くゆっくりと微笑みかけた。
そして、風より乾いた掠れ声で、兄に無念を訴えてきたのだ。
「俺も三人はやったんだけどよぉ、あいつら、更に応援呼んで十人に増えやがって……ふざけてんだろ? 奴らO高だとよ。明日、裏の製鋼所に一時に桜木連れて来いとか抜かしてたぜ」
重く腫れ上がった瞼を持ち上げきれない目で、声の限りを尽くし復讐を託されては、それでは何も解決しないという正論が愚かに思えた。
やはり、優等生にはなれないのだろう。洋平の中を巡る血は早くも憎しみに沸き、戦雲を呼び起こす。久々に滾る闘争心からすでに明日が待ちきれず、今すぐにもブッ倒したくて体の芯からウズウズしている。拳が震える。この黒い感覚を、未だ忘れられないでいる。
病院行きを手配する仲間を前に、今洋平の眼は本気のものに変わった。それは決して血走ることなく、いつも決まって静かになり、僅かな光も放たない、漆黒の色のみが冷酷に渦巻く。
「洋平、久々だからって無茶すんなよ。ま、こんな怪我見せられちゃぁ俺もちったぁ本気出すがな」
「当然だ。腹が踊るぜぃ」
同じ血に沸く仲間の声が更なる感覚を呼び戻す…………そう、結局暴力にしか染まれない自分がこうしてここに立っているのだ。理屈では理解できても、それが何の解決も生まない愚かな行いだと知っても、目の前に暴力を受けた人間がいて、それに涙する人間がいてはただの理想としか思えない。洋平はあの人と違う。晴らさずにいていいわけがない。自分の何か……そんなことは今どうでもいい。明日、二度目の約束を破ろうと思う。
それから一先ず病院へ向かった。何かと世話になるいつかの病院へタクシーで運び込み、診察は惺にまかせて洋平は一階ロビーの公衆電話へ、親父の店に連絡を取る。しかし親父に事情を伝え、返ってきた第一声には心底失望した。心配よりまず先に、「ハァ、あいつまたか……」と億劫に呟く酒焼けの声に語る気力さえ失った。なぜ、心配の一言もないのだろう。
別に尊敬できる親がほしいわけではない。ただ、親を軽蔑してしまうことが辛い。
洋平は受話器を置くなり、スッと胸が冷めていく経過を感じ取っていた。虚しさや腹立たしさより寧ろ清々しさを覚える、淡白な心。
なんだかなぁ…………。
こっちへ帰る前に折角温めてもらったというのに、ここにはもう温度がない。明日に燃える復讐心も軽く挫かれてしまう。落胆に身を任せ隣のベンチに腰を下ろし、少し頭を冷やそうとした。何を期待したわけでもないのに、裏切られたと思う気持ちはきっと、家族として過ごした時間が僅かでもあったからだ。そしてつい昨日まで、その家族の暖かさに再び触れてしまったから。
今でも家族でありたいと甘える気持ちはさらさらない。他人としてでも金を出してくれるだけ有難く思うべきだ。そう言い聞かせて落ち着いた。
すると今、両手で抱え込んだ頭の中に聞き慣れた足音が響いてくる。それは遠く西の方から、夜間面会用の入り口から長いロビーを渡り、大きな歩幅でだんだんとこちらへ近づいて来る……………
「……って、花道!」
頭を上げればそこにいる、久々に見る友人の姿。
「花道お前、どうしたんだ? なんでここに……」
この寒い日に上着も着ず、靴も踵を踏んだままでハァハァと息を切らしながら、玉の汗を拭いながら、花道は言った。
「さっき、忠から電話があったんだ。洋平は病院にいるってよ」
「は? なんで忠が……」
言った矢先に後ろから忠がやってきた。
「花道がよぉ、先月から洋平はー洋平はー言ってたんだ。さっきタクシー呼んだついでに、花道にも電話くれてやったのさ」
振り返った先の花道は視線を逸らし、はにかんでいる。久しく会う友人に対する照れ臭さ、少しわかる気がする。
「なんだ花道、寂しかったのか?」
「そんなんじゃねぇけどよ。夏休みも急に消えちまったから、その……心配してたんだよ、洋平のこと。今日の電話もよくわかんねぇまま切れちまったし、なんつーか、俺の知らねぇとこでコソコソされんのが気に入らねぇ」
いくらバスケットマンを応援するためといえ、仲間の信頼を失うことは仲間という概念そのものを根幹から揺るがす。
「悪かったな花道。実はお前を追ってるっつー奴らに今日純平がやられたんだ。で、明日リベンジだ」
さらりと事実を述べる洋平の傍で「おいいいのか?」と本人をここへ呼んだ忠が困惑していた。
花道は混乱に沸いていた。
「な……なにぃ? おいどういうことだ洋平! 相手は誰だ! それに…………じゅ、純平は、純平は大丈夫なのか?」
「ああ…………。ああ、大丈夫だ」
――――仲間って、人間って、そういうものだと思う。
しかしながら、花道が早速乗り気なのはいただけない。
「で、明日どこでやんだ?」
「いやダメだ。花道は部活だろ?」
あくまでそれはそれとして、その悔しい気持ちだけをこの腕に託してもらったつもり。
しかし次に暗黙のルールを破ったのは忠だった。
「別に来るなとは言わねぇよ。ここまで聞いといて部活に集中できるほど、花道は器用じゃねぇだろ」
「忠テメェそれどういう意味だ!」
直様食ってかかる花道を見れば忠の言うことは確かだ。気になって集中できないほど、仲間を思いやってくれるだろう。自分のために犠牲に遭ったなら尚更、打ち返さずにどうしてくれる。
安西監督の下した喧嘩禁止は今も有効だ。しかしそれは怪我をせず、バレなければ済む話である。何も難しいことはない。
「午後一時、裏の製鋼所だ。しかしその前にだな……」
明日の段取りを終え、三人で純平の許へ戻ろうとしたところ、「あ、あと洋平……」花道にはもう一つ用件があったようだ。
「なんだ花道」
「あいつだよ、神から伝言だ。惺から家に電話させろ、洋平から神に電話しろだと」
「は? ちっと待て、なんで神さんが花道に連絡取れるんだよ」
「なんでって、電話きたからに決まってんだろ!」
「だからなんで連絡先を知ってんだよ」
「知ったことかよ、ビックリしたのは俺だっつーの!」
「まあ……わかった」
おそらく花形が惺の動向を心配していて、神はそれを伝えたいのだろう。しかしなぜ花道の連絡先を?
「なあ忠、惺に、家に連絡するよう伝えてくれ」
洋平はそれだけ告げると、早速神に連絡を取った。
「あ、神さ……」
「それで、純平くんは? どうなの? 見つかったの? 怪我は?」
思わず微笑んだ。同時に蘇る右の頬の感触、ゆっくりと今、生きた体温が胸にトクトクと戻っていく…………もう、大丈夫。
「ああ、鼻潰された」
「え………………」
「大丈夫だ。そう簡単にくたばんねぇよ。惺にも伝えたし、そのうち連絡いくから、心配ねぇ。それより、なんで花道の連絡先知ってたの?」
「ああ、だって今日……」
洋平が今日こっちに帰る前、体育館のロビーで花道に連絡を取る際、後ろから見ていたらしい。
「1031−1031なんて、こんな番号忘れる方が難しいよ」
「はは、そりゃそうだ」
「それと、洋平が帰ったから妹がいじけてる」
「ああごめん、謝っといて。またそのうち遊ぼって」
「わかった。 ……で、復讐はいつなの?」
「………………!」
――――また、見透かされている。洋平が約束を破ることを知っていてこの人は見送ったというのか。……まあ、事実約束を破るわけで、バレなきゃ破ったことにならないからと嘘を吐くつもりだった。しかしすでにバレていることには嘘も吐けず、つい言葉を失くしてしまう。
神は妙な理解を示してくれた。
「別に怒ってないよ。ここで立ち上がらない洋平は洋平じゃないから」
「ああ……ゴメン神さん」
「ただし、負けたら許さない」
一体何が言いたいのかと考え、冗談を含まない声を知って漸くそれを理解した。
洋平の身体は今、洋平だけのものじゃない。その人が洋平の帰りを待っている。鎖は今も、こうしてちゃんと繋がっている。
「好きだよ神さん」
つい口走ってしまったわけだが、折しもテレカの度数が切れ、当然電話も切れていた。
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