見えない鎖を断つ方法 5

試合翌日。実家で過ごす四日目は神の練習の時間まで暇を持て余していた。明日アパートへ帰る神に合わせ、洋平も明日、自分のアパートへ帰る予定だ。だから冬休みは今日で終わり。身も心も弛みきったまま平穏のうちに終わるのだろうと、そう思っていた。
今日は両親と妹が出かけているため、作り置きの昼食を済ませてから神の部屋に入り浸る。特に何を語るでもなく二人それぞれの時間を過ごし、やがて夕刻が迫った頃、神がジャージに着替え始めた。
「洋平はどうする? 練習の間家に居てもいいけど、帰りにラーメン食べに行こうか?」
「お、いいね。じゃあ俺も見学行くわ」
洋平は神の練習に同行することにした。また暫しの別れを惜しむというより、昨日聞いた花形の様子が少し気になったから。そこにはきっと花形の弟、純平の友の姿もあるだろう。偶には顔を合わせておこうと、連日の同じ服装、借りた部屋着にスカジャンを羽織り、ダウンジャケットの彼と出足を共にした。
片手にスポーツバッグをひっかけた彼に付き、電車に乗り翔陽高校の最寄り駅へ、降りた頃にはすっかり空は真っ暗で、今年一番の雪がほんのり散らついている。
「確か駅を降りてから……こっち、バス乗るようなんだよね。翔陽よりちょっと遠くなっちゃった」
メモを手にした神が広々としたロータリーを前にぐるりと見回し、バス停へと向かう。今年から借りられるという市の体育館を目指すが、電車にバス、徒歩での交通手段におよそ一時間を要するのだ。
「こんなに時間持て余しちゃぁ、練習向かうまでにかったるくなるっしょ」
疲れた通勤客と空間を共有するバスの中、隣の席の彼に言った。ただしそれは洋平と違い、賢く隙なく抜かりない、いつもひた向きな男であることをつい忘れていた。
「時間を持て余すなんてないよ。一応参考書は持ち歩いてるし、花形さんから借りたCDもある。洋楽だと英語の上達にも繋がるんだ。今日返しちゃうけど、花形さんの頭の良さを垣間見た気がするよ」
「へー、そんなもんなのね」
さっぱり理解する気のない洋平だが、流川が以前、一度だけ学年三位の英語の成績を納めたことを思い出した。それはアメリカに行くという流川の夢……。 未だ見えない自分の何かが更に遠退いた気がして、今日も心に曇り空が広がった。陽射しのない上の空で神のラーメン話を聞き流し、やがて目的地に停車。二人席を立ち、そうしてバスを降りた途端だった。
暖房で火照った身体が一瞬にして凍りつく痛み――――キリリと吹く木枯らしの刃に洋平は忽ち身を竦めた。
弛んだ頬を切り付けられるような、鋭い痛みが背筋を走り何故か嫌な予感がして、透かさず五感を研ぎ澄ます。悲痛に唸る風の音、並木道に続く外灯の下、ぼんやり照らされた僅かな人通りにどうにか気を落ち着かせ、「どうしたの?」と振り向く神の後を追う。
「別に、なんも」
いつもの愛想で応じたものの、妙な胸騒ぎは止むことなくポケットの中の拳を握る。全て洋平の勘でしかないが、それでもこれまで培ってきた何かが血の騒擾を嗾け、細雪も叩き切る空っ風に吹かれ夜の体育館へ向かった。
…………そして、それは的中した。
第二体育館の入り口から神に次いで顔を出すなり、洋平に気付いた花形惺が青い顔で駆け寄ってくる。異変を察した洋平もまたすっと目を細めると、練習に励むメンバーを背中に惺は滴る汗をそのまま、上体を屈め、阻む呼吸の合間に言葉を繋ぎ洋平に尋ねた。
「ああ、洋平か……。じゅ、純平は……?」
「純平が、どうしたんだ?」
「ああ、じゃあわかんねぇか……。実は俺、年末からずっと純平のアパートいたんだ。んで今日……」
――惺の話はこうだ。今日惺の実家へ帰ろうと、アパートから駅までの道を二人で歩いていたところ、すれ違いざま、学ランを着崩した男らがある人物を尋ねてきた。
「桜木ってバスケやってる赤頭を知ってるか」
知らねぇなと受け流す純平だが、真っ昼間の住宅街をガニ股で闊歩するその行き先を案じ、八人の足を止めた。
「桜木はそっちじゃねぇ」
そっちには、また今日から部活の始まる体育館がある……。だからこっちだと、寧ろ誘い出した純平は惺に一人で帰るよう促し、連中とどこかへ向かった。
「おい純平、正気か? お前は関係ねーだろ?」
「なあに、ちっと遊んでくるだけだ。惺は練習があんだろ? 早く帰んねぇと遅れるぜ」
八対一に勝ち目はないと呼び止めた惺だが、ニッコリ振り向いたその無邪気な笑顔に何故か言葉を返せない。追いかけるにも足が動かず、奴らの背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。その後も釈然としないまま、一人大きな不安を抱え、純平の不可解な笑みを胸にすごすごと実家に帰ったものの、すぐアパートに電話をかけるも一向に出る気配がない。誰に頼ることも出来ず専ら頭を抱えていた。
まるで友人を裏切ったようで、自責の念に潰されていたことだろう。一連の事情を聞いた洋平はそこに同情を投げかけるより、まず機転を働かせた。
「惺、公衆電話どこだ?」
そこに、どうしたの? と二人の様子を尋ねてきたは神だった。
「ちっとね」
そう、ニッコリ振り向いた洋平の笑みはきっと純平と同じものだろう。気にするな、なんでもない、の意味をぱっと顔に貼り付けるが、それが如何なる意味を含むか、神はきっと知っている。惺に奥の廊下へと導かれる洋平の後を神は着いてきた。洋平はそれを気にかけることなく、今は項垂れる隣の背中をそれとなく慰めてやったつもりだ。
「あいつなら大丈夫だ惺。お前はバスケに集中して、あとは任せな。純平も練習あるから先帰れっつったんだろ」
……と言っても、まずは何も情報がなくては動こうにも動けない。
照明を落とした薄暗いロビーの壁際で、洋平は受話器を手にした。
「……あ、花道か?」
「ぬ……その声は洋平か?」
「ああ。そんで花道さ、最近、なんか恨み買うようなことしたんじゃねーの?」
「恨み? さあな」
「はは、無意識ながら買ってるはずだぜ? また悪そうな奴殴ったんじゃねぇ?」
「……ああ! そういや頭突きくらいなら喰らわしたか。確か…………」
それは年末のこと。花道が更に擦り減ったバッシュを交換してもらおうと晴子とチエコスポーツへ出掛けた際、先に店を出ていた晴子にナンパを仕掛けてきた四人がいて、花道は頭突きした……とまあ、発端はごく些細なこと。
きっとその仕返しに、人伝に花道の情報を得て湘北へと向かったが、先に現れた小生意気そうな純平が鼻についたといったところだ。
「じゃ、またな花道」
受話器を置いた洋平は、傍らで聞き耳を立てていた二人に経緯を語った。
「……っつーわけだから、神さんごめん。ラーメンまた連れてってよ」
洋平の話した仕返しという言葉に惺は益々落ち込んでいた。
一方、眉間にしわを寄せた神は疑問でいっぱいだったようだ。
「なんで、桜木に仕返しのはずが純平くんなの?」
いつか聞いたことのあるような台詞。それは暴力と無縁である人間にしか湧かない疑問だったりする。
「理由なんてのはなんでもいんだ。ただの託けに過ぎねぇ。奴らは喧嘩してぇだけなんだ。じゃなかったら純平なんか無視してさっさと湘北向かうから」
これでも噛み砕いて答えたものの、やはり優等生には馬鹿が理解できないらしく、眉間のしわが消えることはなかった。
惺が聞いた。
「で、これからどうすんだ?」
「ああ……ちっと急ぐか」
相手は八人、純平もそれなりに腕が立つとはいえ、やはり八対一では負傷している可能性が高い。もし動けず放置されていれば怪我は悪化、最悪な結果も考えられる。
洋平は今一度アパートに電話をかけ、確信の無言で受話器を置いた。時は一刻を争うようだ。
「惺、悪りぃがやっぱり付き合ってくれ」
「わかった」
陰る惺の顔には精悍さが宿り、これからいざ純平の許へ、二人一歩を踏み出した。
しかし、背後から洋平の手首が掴まれたことで次の一歩を阻まれる………………。
戒める鎖の音がした。振り向かずとも明らかだった。また復讐、更なる復讐、その結果、互いに怪我をする。馬鹿の馬鹿による不毛な連鎖は止まらない。止まることを知らないから馬鹿なんだと、この人は口酸っぱく教えてくれた。
「じーんさん?」
それでも今は救出が先だと、許しを請う声は廊下に軽く甘く弾む。今もひしひしと背中に感じる、また怒った顔に怯えていたりする。
その気まずい空気に触れてか、「あ、俺キャプテンに言ってこねぇと」惺もまた練習の途中退場を請うため、藤真の許へ走って行ってしまった。
薄闇に非常口灯の緑が照らす中、二人きりになったそこは切なる静寂に包まれていた。
「また……だね」
胸に刺さる重い一言が今も洋平の足を留める。また、約束を破ってしまうかもしれない。恐る恐る見上げた先、緑の照らす影半分には苦笑が滲んでいた。それでもどこか穏やかなのは、手首を捕らえる握力が徐々に鎖を放したからだ。
胸の詰まりが少し解け、やっと口を聞くことができた。
「なんつーか、あんな馬鹿でも弟なんだ」
「うん、そうだね」
返事とは裏腹の煮え切らない態度。状況が状況でも、気持ちよく見送ってくれるわけではないらしい。
「神さんひでぇなぁ。俺までやられっと思ってんの?」
そう言って馬鹿面を晒せば、そうじゃない、勝ち負けを言っているんじゃない、と呆れた声が廊下に響き渡ると思っていた。少し空気が変わることを期待したが、いや正にその通りだと、現実を見据える冷静な目が寧ろ馬鹿を蔑んでいる。
神の声は据わっていた。
「思ってるよ。事実純平くんが帰ってないってことは、つまり八対一を卑怯とも思わないヤツらだ。洋平は最低限の信条を持ってるけど、それが全く通らない相手だっていっぱいいる。あの電車の時みたいにさ……」
あの時のことを言われると洋平は何も言えない。否が応にも彼の傷跡がその傷以上に胸を抉り、弟のためと勇む心に冷や水が浴びせられる。
それに神の言うとおり、純平を餌に更なる喧嘩相手を待っている可能性は高いだろう。相手が八人なら怪我は免れず、下手すればまた病院行き。純平をやるだけで気が済んでくれればいいものの、依然花道を追っているとすればこれまた洋平の仕事が増える。結果、不毛な連鎖は止まらない。また約束を破ったことで遂には愛想を尽かされ、その時はきっともう、この鎖は永遠に断たれてしまうだろう。
一度破った約束を二度破る男にはなりたくない。洋平の持つ信条の一つだった。
「わかった神さん。俺今回は純平みっけて助けるだけ。誰もやんない。誰にもやられないよう上手くやる。そんでいい?」
これが正解だったようだ。神は漸く笑顔を見せ、「うん、そういうこと」だと褒めてくれた。
救出で済むかは知らないが、それでも飼い主の躾を守る忠犬に、生唾滴る褒美をくれるから思わず鳴いてしまうところだった。
やおら上体を屈めた神の顔が近寄り、ふんわりと柔らかい唇が弾むように二回、左の頬に触れた。
「え……? ああ…………」
やってくれることがいつも突飛で足が浮いた感覚に陥る。頭の中が糖分で詰まったように甘く、立っているのがやっと。闇に緑の光が佇むだけの薄気味悪い視界の中、洋平はふんわり清らかなタオルの舞う柔軟剤の宣伝を連想していた。出会った時のあの匂いが鮮烈に蘇る瞬間――――真っ白な恋心が胸の奥で弾けた。
「神さん、もう一回」
「また今度ね」
「それってもう……まぁいいわ。ちゃんと無傷だったら倍ね」
「ボロボロだったら?」
「もっとボロボロにしてよ」
冗談の後で踵を返すなり、洋平は闇にすっと笑みを溶かした。スリッパのない足裏に冷たい足音を閉じ込めながら、今更神のピアスの意味をどことなく察していた。
人は大きな決意を抱いた時、消えない何かを刻むことで決意をより深く刻み付けるのかもしれない。いつか、小田と陽子が結んだ鍵を当時は小っ恥ずかしく見ていたが、そんな愛の形とやらも今は理解できなくもない。他人がどうこうじゃない、自分にしかない自分の気持ち…………そこに今、どうしても留めたいものがギュウギュウに詰まっている。だから、今も背中に当たる視線がはにかむほどくすぐったくて、こうして自ら遠退いていくことがこんなにも切ない。
そんな口にはできない気持ち、少し汲んでくれたらな…………。




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