見えない鎖を断つ方法 4 |
一月一日、元旦――。先日の電話で決まった今日の帰省を洋平は心待ちにしていた。 およそ十ヶ月ぶりだろうか。彼の母親、そして電話で声を聞いたばかりの妹が待つ家へこれから向かう。暖房そよめく車両の中、洋平の座るその隣にはチェックのマフラーを巻いた彼がいる。身を捩り、だんだんと潮風の蘇る景色を眺めながらガタンゴトン揺られていた。 それからおよそ一時間で、昼前にはいつかよく行き来したあの海南近くの駅に着き、晴れ空の下に降りては二人ぐぅっと背伸びをした。潮気を帯びた冷たい風が鼻をくすぐり、思わずクシャミを飛ばした。 するとその手前で一台のワゴンが停車。運転席の男が助手席を跨ぎ、窓からよっ、と顔を出しては馴れ馴れしく声をかけてきた。 「おう、待ったか?」 それは隣の神に対して、「いや」と受け答えする神とのやり取りに洋平も漸く納得だ。 「親父さん?」 「そ。これから洋平にも働いてもらうから」 今日初めて聞く予定に「へ……?」と怪訝を浮かべながら、初めて顔を合わせたその父親に「あ、どうも」洋平は透かさず愛想を貼り付ける。 「息子が世話になってるみたいだね、よろしく」 同じく会釈を返すその人の笑い皺には優しさが滲み出ていて、よく通る声といいピンと伸びた背筋といい、やけにはつらつとして見えるのはきっと商売をしているからだ。一つだけ、右の頬に切り傷のような痕が気になるが…………いやそれよりもこの耳の形だ。乗り込んだ後部座席から見ればよくわかる。隣によく似た形を見てはつい漏らした失笑を窓の反射に覆った。 そうして三人ワゴンに揺られ、向かった先は家ではなく、小さなビルの前だった。Jin Travel Planning、略してJTP――横付けされた自動ドアの上に看板が掲げられていた。 「自営業。旅行会社やってるって、前に言ったよね」 神はそう言うなり車を降り、先を行く父に続いて店の奥へ行ってしまった。 「ったく、神さん待って」 洋平も後を追い自動ドアを潜る。各国のパンフレットが商品のように飾られた店舗のその奥へ、数台のパソコン周りに段ボール箱の積まれた小さな倉庫へ行き着くと、神から一つの段ボール箱が洋平に手渡される。 「これどうすんの?」 「二階に運んで」 こっち……と同じく段ボールを抱えた神に階段へと導かれ、大量の書類が詰まっているだろう重い荷を運ぶ。 よっ、と声を張りながら久しく使う背筋に、階下から父親の声が飛んできた。 「悪いね、えっと……」 「水戸っす」 「今日から泊まってくんだってね。ゆっくりしてくといいよ」 「へへ、すいません」 三人で狭い階段を上り下り。一階の段ボール箱を専ら二階へ運ぶ作業。僅かな窓から日光が差し込む中で気付けば上着を脱ぎ捨てるほど、久々に汗を流す日中を過ごした。元旦早々、およそ二時間に及ぶタダ働きだ。 お礼は親父さんの差し入れで缶ジュース一本、これから家で世話になることを思えば十分過ぎるくらいで、再び乗り込んだワゴンで二人それを飲み干した。間もなく親父さんも乗り込み、年を明けての仕事納めはこれで終わり。無人のビルを後にワゴンは漸く実家へと走る。 車内には程よい疲れが漂うものの、乗るだけの段ボール箱が積まれた後部座席は狭く、支えていないと揺られる度に荷が崩れ落ちそうだ。早くも傾き出した今年初の太陽が、閉じ損ねた蓋の中を射しては中のパンフレットを照らしていた。 『いざ! 魅惑のアラビアン……!』 宣伝文句が踊る表紙はピラミッドにスフィンクス、そして見渡す限りの広大な砂漠がピンナップされ、ほんの僅かな隙間からもこうして人の夢を誘う。神もいつか旅をと望むそこは正に男の浪漫溢れ、冬とは無縁の灼熱の地がどこまでも広がっていた。 そりゃぁ、行けるものなら一度くらい……洋平がぼんやり夢を見ていると、神がその一枚を手にした。それは開いた先の灼熱の地に目を落とし、片頬を憂うオレンジ色に染めながらぼそり、呟いた。 「このツアー、もう外すんだって」 「え、なんで?」 「この辺りは年々治安が悪くなる一方なんだ。ここには一切写されないけど、最近はテロや宗教間の対立やらで何かと事件が起きて、以前、父さんもさ……」 父親がハンドルを右にきりながらそれに続く。 「それ以外にも、裕福な日本人は色々と狙われやすいんだよ。置き引きにひったくり、最悪誘拐。客を安全に旅させることが一番だからね。もしもがあってからでは遅いんだ。知識だけではカバーできないこともあるってところかな」 親父さんの頬の傷にそっと納得する。それは浪漫溢れる職の影の部分、常に背中合わせということだ。父の後継ぎを望む隣の彼も当然それをわかっていながら今は勉学に励んでいる。不安を理由に引き止めたところで聞き入れる男ではないだろう。 ……ふと、洋平は以前テレビで流れていた日ユ同祖論とやらを思い出した。確かユダヤから日本に渡ったとされる神様がいつか祖国ユダヤに帰るというもの。伝説や迷信など信じる柄ではないが、苗字といい顔立ちといい、その神様とはまさか……………… 「……いや、まさかな」 「ん? 何?」 あり得ないと思いながらも、どこか日本人離れした横顔には否定できないでいる。遺伝子の奥深くに残された何かが彼を中東へと引き寄せているような、そんな気がしていた。 それから正月らしい正月を迎えたのは神の実家に帰ってから。すっかり夜も同然の暗がりに庭の外灯が明る中、玄関で迎えてくれた母親はまた少し太ったような、妹はまた髪が伸びて大人っぽくなったような。 そんな彼女から真っ先に「洋平ちゃんもお帰り」を言われ、洋平はただいまを言って手土産を渡した。玄関に飾られたしめ縄の下、新年を祝う言葉もないまま早くもダイニングに通され、早速夕食をご馳走になった。 洋平の席も用意されたアンティーク調のテーブルに、鮮やかなおせちと雑煮が並び心も綻ぶ。 酒も煙草も雀卓もない正月。せめてと思った一升瓶は親父さんの手前でその香りを漂わせ、すっかり赤く染まった笑顔が尚食卓を盛り上げた。雑音を垂れ流すテレビに誰も見向きしないほど、仲の良い家族の話題が尽きることはなかったのだ。 まずは神のピアスについて、先に気付いたのは母親だった。 「宗、ピアス開けたんだね」 「うん。とりあえず片方だけ」 「いいじゃない、似合ってる」 それは神の言った通り、母親の両耳にもアメジストがぶら下がっていることから特にお咎めはないらしい。洋平もすっかり見慣れた今は両親の賛辞に頷く。穴を開けてやったのは俺だと、得意げに顧みたあの夜が脳裏を過り、ついニヤニヤとしたところを妹に指摘された。 そんな親しげな様子を不思議に思ったのか、父親からも話を振られ、自然と洋平の背筋が伸びる。 「水戸くんは、宗とどこで知り合ったんだい?」 「以前バイトでこっち来てて、あと、友達もバスケしてるんで」 そこから話題はバスケへ転び、神がバスケを志した中学時代へ。更には洋平の原付へ、単車の話題に行き着くと親父さんとも会話が弾む。ついには洋平にも日本酒が振舞われ、あまりの辛口に歪んだ顔が一家の笑いを誘った。 親父さんに勧められるまま釈を受け、主に神宗一郎のひた向きの過ぎる性格について、同じ保護者のような視点で会話を交わせば、当の息子が横で呆れていた。気付けばたいらげたはずの餅が新たに器に浮かんでいたり、妹の嫌いな銀杏が洋平の皿にあったり、本来の正月の在り方に洋平はどこか、幸せを噛み締めていたのかもしれない。仄かな酔いと絶えず賑やかな談笑、暖房の心地よい風、満腹感と、今日の多少の疲れもあり、頭がぼーっとしていたのだろう。雑煮の湯気が今も目の前に立ち昇るの中、ふと過去の正月が蘇り、柄になく感傷に耽った。 ――まだ小学生だった頃。雑煮も作れない母親に代わり祖母の用意したそれが死ぬほど美味かった。最後の餅を弟と取り合いながら食べたのが丁度離婚する一月前だったこと、今の今まで忘れていた。そんな祖母がまだ元気でいることを祈りつつ、ダメな両親にも電話の一本もくれてやるかと、正月に軽く他人を受け入れる、少し暖か過ぎる家庭に囲まれながら、気の抜けた頬杖を着きながら。 やがて後片付けも済み、お茶を飲みながらまったりテレビを見るという大人の時間に差し掛かったが、そうゆっくりしていられないのが今日の洋平の立場だ。 「洋平ちゃん、次はあたしと遊んで」 家族同然とまではいかないが、神の妹からすれば親戚のお兄さん程度の存在を為していることだろう。冬休みが終わるまでの数日をここで世話になる身分として、それは洋平の主な役割となる。あとは神の部屋か近所のパチンコ店で空いた時間を過ごすだけ。開店前の行列でうっかり親父さんと出くわした時は「ゲッ」と声に出てしまったものの、すでに酒を酌み交わしたことからその寛容さは知れていた。 そんな周囲の気遣いから大した気負いなく過ごせてしまう、正月休みといえ自堕落な生活が許されては、とうとう外見にまで影響が及んでいたとは………… 映り込んだ先の窓に自らの姿を見て思う。 俺ってこんな顔だったか…………。 顔そのものが丸くなった上、顔つきまで丸くなったのは気の所為か。女児を相手に毎日甘い笑みを浮かべていれば仕方ないのかもしれないが、これまで少なからず孕んでいた反社会的な色がその瞳から消え失せていた。 視界を阻む垂れた前髪を掻き上げ、輪郭を撫でていたその後ろから、唐突にとどめを刺された。 「顔だけじゃなくて腹も出てたよ。なんなら一緒に走り込み行く?」 正月休みもそれを欠かさない彼の外見は見事変わりなく、帰ってきた翌日には早朝から走り込み、そしてその翌日には練習試合へと向かう姿に感服だ。 「俺が試合行ってる間、洋平はゆめ子の宿題見ててよ」 「了解。がんばってね」 言われた通り書き初めを手伝い、やがて帰ってきた神が風呂で話す試合の感想はこうだった。 「花形さんがさ……」 神の口から聞く花形の不調は夏に続く二度目だ。それでも試合は勝利に終わり、着実に実績を重ねているらしい。今日もまた地元の強豪大学から練習試合を申し込まれ、チームの人気はバスケ関係者に留まることなく、試合の度にファンの動員数も増えていった。 それにファンというスポンサーが着いた実益は大きく、正式にユニフォームも揃えた今は入団志願者まで現れる始末。これには藤真も驚いていたが、今年から市の体育館を借りることでまた規模が膨らんだ。こういった環境の変化は当然メンバーの励みとなり、皆がそれぞれの生活を送りつつ練習に精を出していた。 今日、藤真が豪語したという。 「俺たちは誰にやらされてるんじゃない。俺たちはバスケがしたくて、自らの意思でこうして時間を合わせ、神に関しちゃわざわざ東京からここに集ってんだ。誰より意思が強いからこそとうとうここまで来たんだろ? それが俺たちの強味だ。いいか、大学生ごときに負けるな」 皆の顔つきが変わった。 藤真は人の上に立つまとめ役、正にキャプテン兼監督に向いている、神はそう思ったらしい。 そうしていざ試合が始まってからも暫くペースを保っていたが、後半、神には思うところがあった。 「花形さん、ポジションにいてくれないことが多くて。気持ちが同じ方を向いてないっていうか、呼吸もテンポも合わない。やりにくいなって感じたんだ」 そうフォローを交えて語った神は、新年早々チームの未来に不安を抱えたようだ。 |
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