見えない鎖を断つ方法 2


冬休みに入る前から、洋平の周りはたちどころに慌ただしくなっていた。高校三年生、卒業を前にしたこの時期なら当然のことだ。一言目には皆が就職だ進学だと騒ぎ立て、それまで金髪でいた野郎も途端に髪を染め直し、ぬくぬく育った学び舎を巣立つ準備に暮れていた。自分の何かと嫌でも向かい合う時期だった。
それをすでに見つけていた、今年全国二位に輝いた花道には数校からスポーツ推薦が舞い込み、オヤジさんも徐々に回復を見せる今、寮に入ることでどうにか大学に通えるらしい。その学校が、実は今洋平のいるこのアパートからそう遠くないという話だ。確か元海南の老師とやらも所属すると花道から聞いていたわけだが…………
「あ、神さん」
折しも浴室を出てきた元海南のその人に訊く。
「S大ってこの辺?」
すでに洋平の荷が置かれた四畳半の居間で、タオルで髪を拭う神が傍らに腰を下ろしつつ、その真相を教えてくれる。
「そうだよ。牧さんが行ってるんだ」
「牧さんって……あれ? 牧さん? じゃあ老師って……」
「牧さんは、一昨年のうちのキャプテンだよ。老け顔のね」
「ああ! あの監督か。花道のやつ老師……ったく、ハァ」
納得すると同時に呆れて溜め息が出てしまう。ジイだったはずのあだ名は二年のうちに老師へと変換されていたのだ。まったく、どれだけ老けさせたいのやら。
「なに? 老師って」
「花道だ。あいつ、そこの寮に入んだと」
「そうなんだ、さすがだね。……で、洋平はどうするの?」
――そう、問題は洋平だった。
「俺は……」
まだ何も考えていない。どうにかなるだろうと思っていたらもうその時だった。
「とりあえずまあ、暫くはフリーターかな」
それが一番気楽でいいと思っている。出逢いゆく人との縁を大切に、目的が見つかり次第動ける状況を備えておけば、いつか何かしらの職には就けているだろう。自分の何かは、結局見つからなかったから。
すると神が確信めいた笑みで尋ねてきた。
「フリーターって、どこで?」
「はは、ここ」
「へえ」
また、水戸洋平をそっと見下す罪な笑顔が隣にあった。しかし先ほどから漂う湯上りの匂いはうっかり酔いそうなほど、加えて水滴の残るこめかみはもう誘惑でしかなった。
期間にして四ヶ月ぶり、芳しさに引き寄せられるまま奪ったキスは口から肺へ、染み渡る甘さ清らかさに咎められる感覚でいっぱいになる…………確信はあった。途端に唇が離れ、ぷはっと酸素を欲した彼が透かさず次の口付けをくれる。しっとりとした柔らかさにガサガサの唇が覆われ、年上の優しさに包まれては今日もまた、その人の虜。気持ちいい……そう告げた唇を、気持ちいい? と舐める唇に痴れる。いつの間にか後頭部を押さえられ、洋平の後追いで蠢いていた唇が徐々に調子を取り戻していた。主導権を神に託した。
進路と向き合うこともしない、向き合うべき進路もない今の洋平には見合わない幸せだ。それがこうして与えられてしまうのだから、あとは堕ちてゆくだけ。見えない明日に不安がなくては焦る気持ちも湧き立たず、その証拠に、洋平の服に身体に染み付いたこの悪しき臭いがある。
「洋平ってば、まだ辞められないの?」
「だって四ヶ月だ。辞めれるわきゃね」
口付けを解いてすぐの言い訳は実に幼稚。その人がいないと肺はいじけてしまい、へそを曲げてはしっかり一本を手にしていた。
「俺じゃなくて誰かさんが悪りぃの」
ニヤリと見上げる洋平を見て神はまた薄笑う。今日からきっと、この顔を毎日見ることになるのだろう。
「神さん、セックスしましょ」
ストレートに誘い申し上げると、神はまた呆れて笑った。……とは言え、五分後には六畳の部屋で仲良く布団に包まっていたわけだ。
下ろした尻に触れるひんやりとしたシーツがまた一段とゾクゾクさせ、抱擁を求む言い訳には十分だった。湯冷めするからとあえて神の服も脱がし、裸で密着。幾度の戯れ合いを経て熱く膨れたソレを入り口へ誘い、奥までずっぷり咥え込む。
久々の息詰まる感覚に今一度声を上げる。
「……ン、ンゥ」
上に跨る洋平の引き攣った顔を神が恍惚とした目で見上げ、洋平の腰に手を添えた。
それは三度目の挿入にして、今更体を気遣ってくれた。
「ねえ、やっぱり痛い?」
「そりゃあ。でも色々麻痺しちまって……まあ、平気」
ホント? ……と急に甲斐甲斐しく眉間を寄せる彼には一つだけ、ちゃんと言い聞かせておきたい。
「でもね神さん、相手が女じゃこうはいかねーよ。機嫌損わねーように身も心も労わって、愛の囁きの一つや二つ。下手すりゃ拗ねて中断だ」
「えー面倒くさい」
そう、それが男の本音。だからね神さん……
「……だから、俺で満足しときな」
「満足させてくれるの?」
「そりゃ神さん次第だ」
「あはは。まあでも、無理はしないでよ」
その一言を気遣いと取れば優しさ。しかし実際はやんわり突き放されていると深読みして、自らどつぼにはまる。
せっかくの甘いやり取りに不満が差し、機嫌を損ねた洋平は神の胸ぐらを掴んだ。
「ねえ神さん、俺も男なんだから、俺だって好きでしてるわけ」
わかんねぇの? ……と言ったところで、洋平はまだその気持ちを打ち明けていない。それもせずイヤイヤ首を振るのは女のすること。甘え以外のなんでもない。惨めで哀れで泣けてくる。それならこの機会に言ってしまえばいいものの、未だ口に出せないのは自分に自信がないからだ。魔法が溶けてしまう、なんてただの言い訳。振られるのが怖いだけだった。
しかしこうして思い詰める間も下から突き上げる肉欲は絶えず、限界を催す苦悶の吐息に今は堪らず腰を振る。
翌日も、三日後も五日後も仲良く身を重ねる日々。あとはその人の帰りを待つ間、黙々と家事をこなす毎日はまるで主婦といったところか。またタダで居候をする代わりに昼も夜も尽くすつもりだ。
「あ、神さんおかえり」
すっかり冷え込む夕食時、フライパンを振りながら帰宅したその人を迎えた。持参した貯金で賄った肉、野菜で作る炒飯に餃子入り中華スープ、これでその人の胃も掴めると自負するが……
「ねえそのスウェット、何日目?」
「っと……今日で一週間か」
それは洋平の着るグレーの上下を指していた。安物の薄地だが、神の大きな半纏を居ない間に勝手に羽織れば、何より心が暖かい。それをここに来てから一週間、他に部屋着がないことには洗濯に出すこともしなかった。
「明日休みだし、買い物行こうか」
思い付きで予定を立てる神は先に居間で腰を下ろし、笑いに沸くテレビを前にコタツで暖を取っている。そこにお茶と夕食を運ぶと、腹を空かせた神が真っ先に手を付けのはスープ。少し味付けしただけの鶏ガラだが、「あ、うまい」と満足の声。つい小鼻が蠢いてしまう。
「俺先週、初めて口内炎できたんだ。でも洋平が来たら治ったよ」
つまり栄養が偏っていた。出来和えとインスタントに頼っていただろう食生活を正してやりたい。
神は続いて炒飯も口に運ぶと、こんなことを尋ねてきた。
「夏も色々作ってくれたけど、全部お母さんに教わったの?」
「いやあ、お袋そんな家いなかったし、料理もそんなやんなかったから。だから味付けは婆ちゃんだな」
親が外に出ている間よく預けられた祖母の家で、育まれた確かな味覚は今も健在だったりする。
「もしかして、洋平はお婆ちゃん子?」
「まあね。婆ちゃんちで寝る時は、どっちが婆ちゃんと寝るかでいつも弟と喧嘩してたなぁ。結局婆ちゃんを間にして三人で寝るんだけど、次の日は次の日で婆ちゃんちから帰りたくないって、散々親困らして。本当、どうしようもないガキだったな……」
昔から……と嘆き恥じらう顔を頬杖で支える。自虐を込めた思い出話でしかなかったが、隣の彼は神妙に唇を結んでいた。きっと、親の所為で洋平が不良になったとでも思っているのだろう。意外と当たっているのかもしれない。
「それより神さん、もっと食いなよ。ちゃんとあったまんなきゃ」
「おかわりある?」
「待ってな」
神の空の皿を持ってキッチンへ出る。その瞬間、別世界へ旅立った如く足先から急な冷たさが走り、フライパンの残りを掻き入れるとすぐ部屋へ戻った。
すると、頬杖を着く神の向こうから飛び込んできた女性の声。やけに高揚した解説はテレビの実況によるものだ。
「ご覧の通り、クリスマスイブのお台場はカップルで満ち溢れています」
白銀の六花が舞うデパートに、寄り添って歩く男女の群れが画面を益々彩っていた。
「……あれ? 今日クリスマスイブ?」
「洋平知らなかったの?」
それなら尚更のこと、そこは洋平にとって至って無縁の場所だったが……
「明日ここ行こうよ。セールやってるし、ちょっと買いたい物あるんだ」
「行こうって、神さんここはカップルのためのデートスポットなんだから、男二人で歩ってたら憐れな目で見られるだけっしょ」
「うん、でもセールやってるし」
「……へいへい」
神が言うなら仕方ないといえ全く気乗りしないわけだが、二人の時間が続くことに悪い気はしない。その日はキスして眠った。





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