カーテンの締め切られた館内は広い密室といったところか。世代交代はもうすぐで、長らく通い慣れたここともお別れだと思うと感慨深いものがある。背中に貼られたままの目標、元マネージャーの筆魂燃ゆる『全国制覇』が来年もここにあることを願いつつ、二人の座談会は始まった。
先ずは先程の質問から。この人は洋平の何なのか。ふう、と息吐く隣からその答えは返ってきた。
「ここに来て居なかったら、桜木にでも場所訊いて洋平のアパート行くつもりだった。でも練習見てたらどうしても混ざりたくなって、ちょっと長居し過ぎたかな?」
「だから、何しにこっち来たの?」
「迎えにだよ。洋平はちょっと何かあっただけですぐ不貞腐れて逃げるだろ?」
「――――!」
「喧嘩した時も、約束破った時もいっつも同じ。ちょっと連絡しなかった時もそう。まったく、寂しがりなんだよ洋平は。つまるところ俺は洋平のお守役で、今回は早目に迎えに行ってやんないとなーって思って来たわけ。…………どう? 当たってた?」
……胸の鼓動が早まる。乱れる。洋平の行動はそこまでわかりやすいものか。これでも考え抜いた末の行動で、いくら同じ結果に至ったとしても別の理由と経緯があり、寂しかったからでもない。偶然だ。でも結局、結果は全て…………
「大当たり」
「やっぱりね。で、今回はなんで逃げようと思ったの?」
立場は逆転し、今度は問い詰められる側になった。すでに今度の件も見破られていることから洋平はすっかり開き直り、淡々と本音を吐露。
「俺やっぱり、あんたと釣り合わねぇんだなって」
「何を踏まえて?」
「……わかんねんだよ、未だに。神さんみてぇな優等生が、なんでこんなバカタレ構うのかって」
――結局そこだ。進路だのプライドだの散々御託を並べたが、つまるところ自信がない。男を受け入れられるなら、セックスを教えてくれる相手であればそれこそ誰でもよかったのでは? 偶々洋平がちょっかいを出しただけで、もしそのきっかけすらなければ今頃、キャンパスライフを楽しんでいたに違いないから。劣等感ではない、歴とした敗北感だ。その敗者に何故ここまで手を差し伸べるのか。
「神さんさ、前に愛着だ可愛いだほっとけないって俺のこと言ったけど、今一つ理解できねんだ。馬鹿にもわかるように、ちゃんと教えて」
卑屈だと思われても構わない。ただただ納得させてほしい。そう願った傍から、清掃を終えた一年生部員が声を掛けてきた。
「すみません、もう鍵閉めますけど」
「ああ、いいよ。俺やっとくから。電気も消しとく」
じゃあすみません、と洋平に鍵を手渡し、立ち去ろうとした部員を何故か神が呼び止めた。
「ねえ君、昔フライングレンジャーに出てた、ウィンガー遣いのサディクスって覚えてる?」
「えっと…………フライングレンジャーは見てましたけど、ウィンガーも覚えてますけど、サディ? なんとかはちょっと……」
「そ、ありがと」
なぜここでフライングレンジャーか。洋平と同じ疑問を浮かべる部員だったが、彼は去り際に今日の礼を述べた。
「あと神さん、今日はありがとうございました。神さんと同じチームでプレーできて、すごく嬉しかったです」
「うん、頑張ってね」
プレーだけじゃない、人柄でも早速人を惹きつけるその人に感心しつつ、さてどうしてフライングレンジャーか。尋ねればまた、疑問は増すだけだった。
「やっぱりみんな覚えてないんだ。俺、あいつが一番好きだったんだよ。好きっていうか憧れかな? あいつにみたいにスゴイ魔獣を従えたいって思った。俺が犬を飼いたいっていうのはきっとそこから来てるのかな」
で…………? という洋平の顔に対する答えはサディクスについての説明で、最早呆れていた。
では説明しよう――――それは古い戦隊シリーズの中でもとりわけ人気があり、そこに妖しいマントを翻すサディクスは敵として登場。彼自身は手を下さず、全てそいつに従えるウィンガー、空飛ぶ虎を模した魔獣がヒーローを苦しめていたのだ。そんなサディクスの戦法はどんな敵より知性に富み、そこにウィンガーの強力な刃が加われば正に最強。当時の子供たちが時には目を覆うほど、窮したヒーローの悪戦苦闘ぶりが長らく展開された。
しかし、ある日それは逆転する。サディクスとウィンガーの主従関係は強力な鎖の下に成り立っており、関係を貫くために鞭としても振るわれたそれが、時にウィンガーを哀しませていたのだ。涙を誘う展開は続き、遂に主に歯向かおうとしたウィンガーは毒を盛られてしまった。そして用済みだと捨てられたところをレンジャーに救われ、ウィンガーはレンジャーの味方として復活したのだ。
ウィンガーは後にサディクス討伐にも応戦するが、そこでレンジャーはウィンガーにトドメを刺すことをさせなかった。
当時のレンジャーの台詞はこうだ。
「ウィンガーのサディクスに対する憎しみは計りきれないほど大きいだろう。自分を殺そうとした相手だ、それを忘れるはずがない。しかしついこの間まではずっと二人で協力し合い、共に闘うことに心血を注いできた仲だ。それがどんな理不尽な関係であれ、俺たちの知らない時間がそこにはあった。もしも今日、ウィンガーがトドメを刺していたら、暫くは晴れた心で過ごせるかもしれない。でも時が経ってふと昔を振り返った時、少しは楽しかったことも思い出すだろう。今までウィンガーに飯をやっていたのは誰だ? こんなに大きく成長させたのは誰だ? ずっと二人きりだったんだ。だから、ウィンガーに復讐させてはいけない。サディクスは誰かに殺された、それで充分なんだ」
神はそこまで語り尽くすと、続けてサディクスに対する思いを語った。
「俺、子供ながらに思ってたんだ。ウィンガーをもっと可愛がってちゃんと躾けていれば、サディクスはウィンガーと世界を制服できたのにって。愛情がなかったんだ。…………でも、それって思ってるほど簡単じゃないよね。相手が人間なら尚更、愛情を持ったところでどうしたらいいか、結局逆のことしてたりする」
……なるほど。答えは特撮にずれたものの、神の言いたいことは理解した。知と力が伴えば足りない部分が補える、即ち最強ということだ。レンジャーの台詞には洋平の家族に対する気持ちもどこか重なり、今更ながら吹っ切れた気がした。これまで楽しい時間を過ごし、無事高校を卒業できる。弟とも再会できた今、昔父親だった人がいる。それで充分なのだ。しかしそれで……?
「仮にそんな獣連れて歩けたとして、一体何がしたいの?」
「ヒーロー」
「ヒーロー?」
悪に憧れたと言えば今度はヒーローになりたいという、更なる真相はこうだった。
「今日洋平が倒したような悪いヤツが、今世界にどれだけいるか。考えただけで胸糞悪いだろ?」
「そりゃあ」
「そういう奴らみんなぶちのめしたい」
「は?」
ここに来て言うことが更に幼稚というか、グシャッと潰す手振りすら妙な痛々しさを覚える。洋平が帰ってから一体何があったのか。その頭を案ずるが、他人の目にいくら奇異に映ろうと、この人の歩む道がいつも正しいことに変わりない。その道行きがこれまで以上に険しいというだけだった。
「昨日、洋平からの電話待ってる間、父さんと話し込んだんだ。偶々テレビで戦争映画やってた所為か、それまで俺の知らなかった事件や犯罪のこと教えてくれて、それでもこの仕事をやれるかって問われて、正直自信なくしたよ。勿論、そういうのは付き物だって頭ではわかってたつもりだけど、銃声とか悲鳴とか、子供の泣き声とか、生々しい話聞いたらすぐに返事できなかった。復讐しても……なんて偉そうなこと言ったけど、殺しでもしなきゃ廃れない悪もある。勧善懲悪は必要で、力でしか解決できないこともあるんだって、本気でそう思った時、洋平の顔が浮かんだんだ。別に洋平を連れて今すぐ戦争に行こうとかじゃないよ。ただ洋平みたいなヤツもこの世には必要なんだなって、そう思った」
そう、洋平を見つめる目と視線がぶつかる。いつもならその瞳に容易く屈してしまうところだが、今日の洋平は食い下がった。まだ納得できないからだ。
それでそんなに俺が欲しいの? とまだまだ底を探る目に、神は次の理由を添えた。
「それにさ、俺が洋平を救うことだって出来る。これからも付き合っていくなら寧ろそうすべきだって、父さんに言われたんだ」
それは先程の話に次ぐ昨晩の会話らしい。年始からの僅かな期間、水戸洋平と接した父は早くも洋平の本質を見抜き、息子と談義したという。
まず父が言った。
「それにしても、あの水戸くんは宗の友達にしてはなかなか悪い子じゃないのかな?」
「うん、でも最初はそこが魅力的だった。自分にない匂いっていうかさ。それに、もしあの身形で実は真面目な優等生だったらちょっとムカつくと思う」
「ははは、そういうことだね。宗はもうわかってるね」
「うん……いつもだらしがないようでいて怖いくらいに考えてるよ。でもそれを見せないから、時に憎らしくもあるかな」
「そう。それにね……」
……この父子は何かと深読みする節があるようだが、それが必ず当たっているのもまた父子だったりするのだろう。
父は続けた。
「あの子はあまり家庭環境がよくない。昼間から一人でパチンコは感心しないよ。たとえパチンコが許されたとして、高校生が一人で来るところじゃない。あれは歴としたギャンブルだ。……しかしかと言って、強欲な守銭奴でもない。礼儀も弁え、何より優しい。決して宗をパチンコに誘ったりしないだろ?」
「しないよ。俺に不利になることは絶対にしないしさせない。それでいて飯も作ってくれるし掃除もしてくれる。本当の馬鹿っていうのは、何もしないヤツのことだから」
「そう、ちゃんと人のためになるように動いてくれる。ゆめ子の面倒だって、自らのレベルを落として子供と接するんだ。馬鹿じゃなくて、馬鹿も出来るんだ。この違いは大きい、大人でも出来るやつと出来ないやつではまるで人間が違う。きっと決めたことに犠牲を厭わない、人より大きな強さと優しさ持ってる。……けどそれは、少し可哀想なことだね」
「なんで?」
「本人は気付いているか知らないが、やはり捻くれた面もあるよ。自分のことはどうでもいいと、余りある強さと優しさから周囲の人を大事にし過ぎて、自分のことはおざなりに、人のお守り役に徹してしまう。少し損な性格だ。気付けば他人に依存して、自我を見失ってしまうかもしれない。十代のうちはまだワガママでいいのに、でも彼はそれが出来ない。あまり自分を大事にすることを知らないんだ。だから、宗はそれをちょっとでも助けてやればいい」
どうやって? という息子の疑問に父はある人物を紹介した。それは仕事で繋がったトルコの知人で、昔事故で家族を全て失ったという。一人生き残ってしまったことに深い悲しみに暮れた彼は、人としての自身を失うと同時に表情も失ってしまった。いくら胸の内で感情に沸くことがあっても、それは全て溜息に留まり、涙することも、青筋が立つこともない。嬉しくても悲しくても、便宜上貼り付けた表情は乾いたお面でしかなく、常に嘆きの霧を浮かべるだけの腐った人間になってしまった。しかしそんな彼が救われたのは、微かに零れかけた感情を誰かが汲み取ってくれた時、気付いてくれた時、認めてくれた時だ。色味の消えた喜怒哀楽が少しでも人に伝わり、それに声が返ってきた時、男に表情が戻ったという。「心配だね」「今のは怒るべきだ」という……同情だった。そして誰より気付いてくれるという、派手好きなフランス人と近々結婚するそうだ。
神は洋平に言った。
「俺、その言葉で気付いたんだ。俺は洋平の考えを否定する気もないし、考え方も違うんだから好きにすればいいと思う。どうしても喧嘩したいならすればいい。俺は怪我されるのが嫌なだけで、約束だなんだ言ったって、破ったとこでそれまでだ。嘘吐かれたってわからないしね。……でも、俺にも非があった。それは洋平の感情に触れなかったこと。気付いたふりして実は触れようともしなかった。俺の、ダメなところだよ」
「いやぁ、充分だ」
共に楽しく過ごせればそれでいい。無理に同情をくれたところでお節介だと思うわけだが、昨日、洋平は確かにそれで救われた。大丈夫? の心配を友達もその人もかけてくれて、初めて安らぐ心があった。そんな心があると知った。だから尚更充分なのに、神にとっては自分を省みる大きな機会となったらしい。
「今回も、俺が最初に触れるべきは洋平の気持ちだった。純平くんへの心配と殴ったヤツへの憎しみ。……俺あの時なんて言ったっけ? きっと前に喧嘩した時みたいに、一方的に自分の言い分押し付けたかな?」
「いや……まただねって、気ぃ落としてくれた。電話で心配してくれたし、負けんなって言ってくれた」
それがどれだけ洋平の気を立て直したか、今になって実感する。神の言うとおりそれはすごく大事なことで、しかし忘れがちなことで、相手がどんな人間であれ誰にでも当てはまるのではないか。
確かに過去を振り返れば、神の言動に冷たさを感じることがあった。それはきっとこの所為で、正しい教え説く前に先ずは感情に触れてほしかったから。それを認めてほしかったからだ。勿論、洋平にも非はある。人の意見を聞くことも大事だが、自ら伝える努力も必要だった。それをこれまで怠ったことが今日の逃避に繋がったのだ。
それに神の父親の言うとおり、洋平には捻くれた面があるらしい。だからここまで深く語らせておいて、また野暮なことを訊いてしまった。
「ねぇ神さん、これまで以上にそんな優しくなっちまって、それでどうすんの?」
「どうすんのって、だから俺が洋平のお守り役になるんだよ」
神は洋平のお守り役……話は一巡して振り出しに戻る。
今度は如何にお守り役が必要か、神がまたも舌を振るった。
「俺は洋平と違ってそれなりに甘やかされて育ったから、結構ワガママなんだよ。口にすれば、あとは努力次第でなんでも手に入ると思ってる。だから、前に言ったことも本当、洋平はもう俺のもの。でもすぐに逃げ出す癖があるから、そこんとこよくわかってる俺が優しく見守ってやんなきゃいけない」
「やめてよ神さん」
小っ恥ずかしい、くすぐったい、と顔を背けようとしたが、口より語るこの瞳から逃れることは難しい。
「だって、他に洋平の全部知ってるヤツいるの? 別にこんなこと言うのも、洋平の前なら全然恥ずかしくないよ。だって洋平はもっと……」
先程の神よりもっと、洋平は恥ずかしい身体をしている。今、こうして唇を奪われれば当然言い返す言葉がない。わかってそれをしてくるこの人は疾うに水戸洋平を掌握済みだ。優にサディクスを超えている。しっかり飴と鞭を携えた彼は、洋平のお守り役に最も相応しい。
「ねぇ、まだ気が済まない……?」
散々弁を振るわせておいて、それでも落ちない洋平に次の戯れ合いを迫ってくるのはこの白い手、いつか突き指させたその指……目に見えて、頬に触れて、このバカタレを欲してくる。
だがそれはただの馬鹿でなく、神にはない別の強さと優しさを持った男で、そんな男が好きだから手元に保護しておきたい……もう逃がさない自信がある、その術を知ったと、今日その人ははっきりと言った。
……信じられない。人としてこんな幸せなことがあるだろうか。自分が慕う人間からこんなにも必要とされる。そう力説される。一つ一つ噛み締めた言葉は尊く、その全てに重みを感じる。いつからだろう、洋平の願った想いが気付けば溢れるほど注がれていた。しかし今は、まだ大人になれない今はその幸せが洋平をダメにしている。甘やかされれば甘えてしまい、いつになっても大人になれない。ああ言えばこう、あれではダメこれでもダメと、人の所為にしているのは百も承知。それでも原因は全てこの人にあり、やはり並べた御託も一理あり、きっぱり元を断とうとした今日の決断は、今思えば逃避とも言い難い。自分のための前向きな決断だと思う。
気付けば寄り添うその身を離れ、しかとその顔を見上げ、洋平は進むべき自分の道をここではっきりと告げた。
「神さんゴメン。神さんの気持ちすげぇ嬉しいんだけど、今は受け取れない」
「今はって、どういうこと?」
「悪りぃ。俺が言った釣り合わないってそれだけじゃないんだわ。俺まだまだガキだから。暫く一人になって、ちゃんと自分を確立してやっとあんたと同等になったら、そしたらまた……」
「ダメだよ」
折角の決意が遮られ、逆に厳しく咎められてしまう。
「洋平は、俺のアパートでフリーターするって言っただろ?」
「でもこれ以上甘やかされっとダメなんだ。いつまでも甘ったれから卒業できねぇ」
「そんなの躾次第だろ?」
「躾……?」
「まったく、そんなにわがまま言うとこのまま連れて帰るよ」
ああもう……胸が痛い。折角自分を見出そうと努力したのに、怠けた心に鞭打ったのに、甘ったれがもう顔を出してはこのまま連れ帰ってと請う。
果たしてこれが本当に躾次第でどうにかなるのか、なってしまうものなのか…………。本当に、なってしまいそうだから、怖くて声が震えていた。
「ったく、神さんはさ……」
すっかり肩も視線も落とし、へたり込みそうになったところをその人に抱えられた。
前開きのパーカーの奥、真っ白なTシャツ、一枚越しの締まった胸に額と鼻先を擦り付ければ、また肺が浄化された。……ここに、ずっとずっと恋してた。ここはいつもいい匂いがして、離れることを決めた心が早くも駄々をこねている。可哀想に、折角強くなろうとしたのにもう逃げ場がないなんて。
いっそのこと殴ってみようか。彼だってジム通いで益々鍛えたこの腹筋だ。一発ぶち込んだくらいでへこたれるたまじゃない。男なら何も一発くらい、どうせやるならもう一発、ついでに蹴りでもかませば気は晴れるのかもしれない。……でも無理なんだ。これでは間合いが近過ぎる。拳も握れれば腕も上がるが、ここまで密着されると然程拳を振るえず、ダメージはほんの僅か。離れられればいいものの、ここからどう離れていいかが今の洋平にはわからなかった。
知らぬ間に重くなっていたこの鎖をどう断つべきか。
洋平が自ら首に繋いだそれをこの夏彼が握ってくれた。願った想いが叶ったのに、今の洋平には重過ぎる。何故かぼんやりと見えてきたそれは悩む傍から全身に巻き付き、キツくて身動きもとれなければ、もう一生、二度とここを離れられないのだろうか…………。
こうして鎖に繋がれることが永遠に抱く夢だったはず。仮に自立できたとして、釣り合いが取れたにしても、その夢は何も変わらず、今ここで遠ざけることに意味はあるのだろうか……。
ああもう、わからなくなってきた。どうしてここで素直に尻尾を振ることが出来ないか。彼の父親の言った通り、洋平は捻くれている。まだワガママが許されるなら今すぐ言ってしまいたい。暫く一人になってからではなく、こうして胸の中にいる間に、大好きな年上の彼にワガママをしておきたい。してみたい。
一度くらい、甘えてみたかった――――。
「……ダメなんだ。好きなの。神さんのこと大好き。離れらんねぇもんこんな」
胸に直接白状すれば、積年の想いをそこにぶつければ、少し胸の痞えが取れた。些か楽に呼吸できる。
すると背中に回っていた手が片方、洋平の頭をゆっくり一撫で。
「よく出来たね、偉いよ」
そっと褒めてくれた後に彼の片頬がぴっとりくっつき、額に頬ずりが触れた。
素直になることを知った獣に、永遠の誓いを捧げてくれた。
「俺、責任感だけは人一倍あるつもりだから、それが男だと思ってるから、だから、もしこの先何があろうと洋平を俺の手元に置くよ。動物愛護法を守らなきゃね」
現にひしと抱き締められ、言葉が直接胸に響いては二度と逃げるという選択肢を取れなくなる。いや、逃げ道はもう閉ざされていた。しっかり鎖の見える今は何に臆することなく、「うん、好き……」こうして尻尾を振ることができるから。
いつもは冷やかしに近い神の悪ふざけも、慣れない愛情表現だと知った今は笑って応えられるだろう。今日は他にも、色々な誤解が解けた気がする。早くこうなればよかったとは思わない。一歩でゴールを迎えられるような関係ではなかったのだから、ふざけていじけて喧嘩して、人より冷静な二人がこんなにも頭を捻り、幾度とぶつかり合った日々はどれも愛しく、かけがえのない思い出でいっぱいだ。何より、まだゴールではない気がする。
まるで神の想いが託されたように、館内を灯す照明に耳のピアスが反射していた。
「神さん、いっこ忘れてる」
約束の褒美の頬にもらうと、二人で体育館を後にした。
「神さん俺もピアスしていい?」
「じゃあ、今度は俺がやってやるよ」
「神さん左っしょ? あれ左右がどうとかあんだっけ?」
「あったような気はするけど、俺は耳にしてやるとは言ってないよ」
「え……………?」
まだ寒いからと並んで寄り添う学校からの帰り道。闇に溶け込む通学路は決して逃げ道などではなく、暖かな春へ誘う道だった。心なしか風は和らぎ、雲間から覗いた大きな月に照らされる道行きは明るい。
洋平はふと見上げた空のオリオンにそっと春の訪れを願うと、今二人の隙間から、小さな鎖の音を聞いた。その人の瞳に似た、星空に透き通るような凛と澄んだ音色――――
今宵、その人を初めて洋平のアパートに泊めた。厳しい躾に呻く日々が今夜から始まった。
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