鳴かぬなら…… 9 |
スタンドの奥の控え室より、昼夜問わずバイト仲間の声を聞く。簡易ベッドでの寝起きも三日で慣れ、店長から昼食の差し入れもあれば最早立派な住まいだった。あの後アパートに帰れない理由として適当な事情を告げた洋平を、店長がここに置いてくれたのだ。 落ちこぼれにも手を差し伸べてくれる優しい人間がいるから、あのまま地元へ帰ろうと身勝手にバイトを辞めることはしなかった。シフトも増えたことで金銭的には喜ばしいくらい、僅かに時給もアップしては就職すら考えたほどだ。 そんな環境に甘えながら、勿論気になるのはあの人のこと。部屋に置いてきた着替えは捨ててくれればいいとして、三日前の傷は治ったか、飯はちゃんと食っているか、考える度に腕の切り傷がピリピリ言う。きっと、リハビリがまだ済んでいない。だから今日も休憩に入るや否や買い溜めたワンカートンに手を伸ばした。鞄に忍ばせたそれを取ろうとして、そこでうっかり、どうしても忘れたい思い出を奥に見つけてしまった。 一つはここに来てすぐ受け取ったアパートの鍵だ。使い道を失ったそれはもうただのガラクタだが、一応のこと、アパートの郵便受けにでもあとで返しておこうと思う。 それともう一つ、現像の済んだこの写真を誰より待っている男がいる。 「……お、花道か?」 手前の事務室から電話をかければ、懐かしい友人の声が受話器越しに耳を貫いた。 「洋平テメェ、どこ行ってんだよ! なんで毎日留守なんだ!」 「それより花道、写真出来たぞ。晴子ちゃんしっかり写ってるから、あとでやるよ」 「おお、マジかー!!」 一変して色変わりした声を聞きながら手にした写真を眺める。主に花道依頼の晴子が枚数を占めるわけだが、残り三枚となったところで洋平の手は止まった。インターハイ後の集合写真を捲れば、あとはズキンと大きく打つ鼓動で暫く胸が痛い。 似合わない煙草も様になる長身の男。畳の覗く背景に雰囲気も何もないのに、それでも彼がモデルならまるで違和感がない。はにかむ顔も笑い過ぎた顔もそれぞれに魅力が溢れ、僅かな記憶の断片に胸が小躍りする。洋平はまだ、恋してる――――。 久しく見ないその笑顔がまだこの手にあるから、刻まれた傷はいつまでも癒えない。幸せな思い出を抱くことがどれだけ辛いか、あの人にはきっと、わからないだろう……。 「なあ洋平、晴子さん、やっぱ可愛いだろ?」 「ああ、可愛い」 「目がキラキラして優しくて可憐で優しくて……」 「色白で笑顔が最高に可愛くてな」 「洋平、テメェは晴子さんに手ぇ出すなよ!」 「ああ、花道もな」 「ん? それどういう意味だ?」 「そういう意味だ」 「ん? なんだ洋平? どういう意味だ!」 「だからそういう意味だって」 「ンだトォ…………!!」 控室に戻るとすぐ数本を消化した。そこに店長がやってきて、今日も夜勤を告げられた。 「水戸くんお疲れ。悪いけど、俺今晩家に帰るから、また夜も頼んでいいかな? えっと倉田くんも夜勤だから、二人でお願いね」 「了解っす」 そして夜も、本日十四本目を口にしていた。五時にやってきた新入りの倉田くんは、スタンドのバイトに応募しながら内向的で接客ができない。だから洋平は先輩としてあくまで指導してやったつもりだ。 「俺奥にいるから、仕事慣れるために少し一人でやってみなよ。なんかあったら呼んでね」 「は、はははははい、わかりました」 洋平の人相に怯えてか、根は悪いヤツではないようで人の言うことは聞く。実に仕事の出来る一つ年上の後輩だと、洋平は控え室へ戻り寝タバコに暮れた。 一時間、二時間、三時間、目が沁みるほどの紫煙に包まれながらぼんやり目を淀ませる。 着替えが出来るスペースがあるだけのここはベッドの上以外居場所はない。隣の売店と違いテレビも雑誌もなく、灰皿の上は積もるばかりだ。十五本、十六本、まだまだ苦辛いから十七本、もう誰も止めてくれないから十八本、十九本ときて、やがて扉がノックされた。十時を回った今、洋平はさあやっと仕事だと扉の向こうに返事をした。 「はいよ、待って今行くから」 吸いさしを皿に潰しながらよっと上体を起こすが、ドアの向こうから倉田くんの声は返ってこなかった。いくら根暗でも返事くらい出来るだろうと、「どしたの……?」そうドアを開けるなり、洋平は一歩後退した。 倉田くんの顔のある位置には細身の腰。上下ジャージの…………って、なんで、ねぇなんで来んの? ねえ、なんで来ちゃうわけ――――? 「神さん……なんで?」 「なんでじゃないよ、帰るよ」 同じ一つ年上でも倉田くんと違い、洋平はその人に逆らえない。何故なら見上げた先の彼はまだ怒っていて、洋平が泣きたくなるほど怖い顔をしている。 しかしながら、今は仮にも勤務中だ。 「ああでも、俺今日夜勤だから。ほら、倉田さんにも悪いし」 神の後ろにいる倉田くんは、「スミマセン、居場所言ったら勝手に……」と小声で弁明していた。どうやら神は今の形相のまま、流れる汗もそのままにここへやってきたようだ。首にタオルを巻いたジャージ姿で、きっと日曜の今日は翔陽での練習を終え真っ直ぐここに、暫くは安静の医者の忠告を破ってまでバスケをして、そして帰ってこない居候の許へ……。 三日ぶりの対面だった。そんな二人の間に再会の感動などなかった。 「夜勤って、煙草吸ってるだけなの?」 「いやぁ、吸ったのはちょっとだから」 「これのどこがちょっとだよ」 目敏く灰皿の上を指す彼には降参だ。このまま殴ってほしいとすら願う。 「ほら、どうせずっとこの調子なんだから、行くよ」 すでに洋平のサボリを見抜いた神は、すっかり洋平の自室と化したここへ立ち入るなりその腕を強引に引いていった。 「ちょっと神さん……ああ倉田さん、ゴメン、ちっと出てくるわ」 出かけがてら詫びを入れ、洋平は腕を引かれるがまま大人しく着いていった。 スタンドを抜け商店街を抜け、黙々と足早に夜の街を行く。当然彼の足が長いことには着いてゆくのも精一杯で、洋平は走らざるを得ない。いつか湘北で腕を引かれた時とは違い、これから口酸っぱく怒られるために。きっとそのために馬鹿みたく吸っていたのだろうか。自らも知らぬ間にそれを望み、あえて肺を汚していた気さえする。 …………いや、もう小さな頃からずっとずっと望んでいたのだ。どこかで自分を止めてくれる存在。このままじゃダメだと言ってくれる人。頬を引っ叩いてくれる人。水戸洋平を見透かした上でちゃんと言うことを聞かせてくれる人。 甘えだった。同じ馬鹿でしかないのに、皆が洋平なら大丈夫だと、洋平ならやっていけると根拠もなく言ってくれることに疑問ばかり抱いてきた。本当は何もないから馬鹿をしているのに、一人じゃ生きていけないから仲間と連んでいるのに、誰一人として気付いてくれないことにいつもいつも苛立っていた。父親にすら母親にすら、まともに叱られた記憶がない。料理も掃除も洗濯も一人で出来たから、殴る相手も馬鹿に限定していたから。 「神さん、腕痛い」 「…………」 無視に徹し、より強く腕を引いて行く、そんな容赦のない彼を心から愛している。だから聞き入れてくれないのを知ってもう一回…… 「神さん、お願いだから離して」 それでも振り返ることをしない彼に引かれ、まだまだ馴染みの浅い大通りで人々を擦り抜けてゆく。ジャージの男が作業着の男を連れ出す姿に皆が振り返る、この煌びやかな夜。その目にいっぱいのネオンを映し、息急き駆けゆくその人に今も、胸のときめきが止められない。 やがて着いたのは住宅街のおよそ中央にある公園だった。日中聞こえていた子供の声はここからだったのか、今は当然人気もなく薄気味悪いくらいで、外灯はぼんやりとして暗がりに溶けそうだ。 |
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