鳴かぬなら…… 8

「洋平ダメだよ」
後ろに振り翳した洋平の拳を、静かに震えるその手首を、白い素手に止められていた。それは優しく触れられた途端に力を失い、言葉も失う。脈打つ鼓動も熱も落ち込み、同時に緩んだ洋平の左手から男の腕がスルリと抜けた。
男は漸く血が通い出した手首を庇いながら、クソッ……と形の崩れた顔で洋平を睨んでいた。そして決して手放すことをしなかったナイフで、洋平に最後の反撃を仕掛けてきたのだ。
「……ンノヤロォ!」
迫り来る先端を透かさず避ける洋平だが、身を庇う腕に刃が滑る。洋平の握力による鬱血で全く力はないが、それでも切先は鋭い。そこに反撃を繰り出そうと再び右の拳を握るものの、それは優しい掌にしっかりと包まれたまま、振り切って繰り出すことが出来なかった。
床を彩る綺麗な深紅とヤニだらけの赤錆色。床に落ちたナイフには二人の血が塗られ、僅かな血痕を描く。
男はナイフを拾うことなく逃げて行き、向かう車両の先々で悲鳴が響き、それも少しずつ遠退いていった。
「あ、切られてら」
腕から滴る自らの血で漸く痛みを感じたところ、今ゆっくりと停車した。
「扉が開きましても乗り降りはお控え下さい」
初めて聞く非常事態のアナウンスが流れ、痴漢に始まったこの事件は終息に向かった。開いたドアの向こうに見たのは、最寄り駅のホームだった。
すでに通報があったのだろう。二人呆然と立ち尽くしていたところを待っていた駅員に慌ただしく連れ出される。簡単な止血を施され、忽ち警察もやって来て、病院に連れ出され、処置の間事情聴取なんぞを受け、被害届を書かされたりした。
そうして釈放された頃にはもう就寝時刻を過ぎていた。洋平は急いで公衆電話からバイト先に電話、事情を話すとまずは治療を受けるように言われる。幸い怪我の程度は大したことなかったが、あまりに急な出来事で二人共疲れていた。だから、何を話すこともせず、送られた駅の階段で暫く腰を降ろしていた。
「………………」
やけに空気の澄んだ夜。ぼんやりと外灯の照らす地面を並んで見つめる。車の音も野良猫の鳴き声も何も耳に入らない中で、フゥ、と吐いた隣の溜め息だけが胸に重く響いた。
首に手当てを受けた彼の、外灯に陰る物悲しそうな横顔。それは両手に深く額を支え、酷く落胆していた。
「……なんで、手ー出したの?」
支える腕の隙間からそっと覗くように尋ねてくる。
「そりゃ……」
言いかけて、洋平は唇を噛んだ。許せなかったから、なんて言ったら今更ながら大人気ない気がした。暴力を嫌うその人にはどんな理由も通じないと知って。
すると案の定、彼はこんな目に遭ってでも、止血が要るほどの傷を負ってでも約束を破ったことの方が重罪だと言った。改めて復讐の無意味さを淡々と質してくれた。
「洋平が手ー出さなかったら、傷を受けるのは俺だけで済んだよね? 洋平まで傷付く必要なかったよね」
言っていることは尤もだが、それはただの結果論であり感情論の一切が省かれる。そういうことじゃない……と言っても、きっとわかってくれないのだろう。
「いやあ、俺の傷はどうでもいんだ」
「どうでもよくないだろ?」
感情的に語気を凄ませ、顔を上げた彼はとうとう怒っていた。今日折角仲直りできたばかりのに、今度は許してくれそうになかった。
飼い主は以前も、どんな理由があれ他人に噛み付いてはいけないと親身に諭してくれたのだ。例え飼い主に何かあっても報復はいけない、不毛な連鎖を生むだけだからと、それは怪我した洋平を思って言ってくれた。
「俺との約束は、守ってくれないの……?」
そう寂しく続く神の問いかけに洋平も多少、反省する。どんな事情があれ、神の制止があったにも関わらず目の前で裏切ったのは洋平だ。そこは謝るべきなのだ。しかし、今落ち込んでいるのは洋平も同じこと。目の前で傷付けられるその人を守ることが出来なかった、あってはならぬ失態だったとずっと自責の念に苛まれている。そんな洋平の今日の行いをここまで咎められるとは……。
これが罪だと言うのなら、謝罪を求める神にとっては余計なお世話だったと、そういうことになる。…………そう、つまりそういうことだ。暴力を我慢出来ないほどの今日の怒りは、暑苦しい程のこの感情はありがた迷惑だと、感情の押し付けだと、一つ屋根の下にありながら助け合うほどの仲じゃないと、そんな立場にはないと、洋平の望む関係を今きっぱり拒まれてしまった。
遂にあの日の答えを聞いた気がして、今一気に込み上げた悔しさを洋平はグッと堪えた。溜め込んだ感情に堪えに堪え貧乏ゆすりを押し殺し、黙って歯を食い縛った。握る拳を隠そうとして、それをポケットに突っ込んだ、その時だ…………。
「じゃあ神さんも、約束破ってよ」
うっかり右手に触れたが最後、つい口に出してしまった。
言い切ってしまったことには一気に血が上り、鼓動が止まず、三つ階段を降りたらあとは逃げ出すようにそこを立ち去る。この暗い夜に溶け込むよう、蒸し暑い闇に溶かされ、このまま消えてしまいたいと願いながら。あの陽炎の懐に戻りたくて早速ポケットの一本を取り、路地裏のビルの谷間でやっと、大人気ない言動を恥じた。
「だっせぇよな……」
振り返るだけで鼻で笑いたくなるが、ここまでする気持ちも少しはわかってほしかったから。一番傷付けられたくないものを傷付けられたこの痛みを、約束を破ったことは別として、この悔しさを知ってほしかった。本気で許せなかったから。なまじ目の前で傷付けられるなどもうとてもやり切れなくて、ひたすら愛でたいあの首筋に血を這わせるなど問答無用、思い出すだけで殺意に満ちる。
あのまま止められることがなければ本当に殺っていたのかもしれない。ここまで自分が抑えらないのは全てあの人の所為だと、そう思う自身が怖くなる。
……だが、それも今日で終わったこと。優等生と不良はやはり相入れない関係だと証明されたわけだ。恋愛など以ての外、同性なら尚更のこと。最後にものを言うのは相性と人間性だから、勉強の出来る出来ないも日頃の行いも外見も関係ないと思っていた。そう信じ始めていたが、やはりわかりあえない部分は生じ、それを頑なに否定し、互いに埋め合う努力すらなければあとは決別しかない。おかげで今度の禁煙も三週間ともたなかった。
「ああ、最っ高な気分だ……」
スパスパと肺に潜らせればほら、胸がスカッとして心地良い。久々に口にする一本ほど美味いものはないはずだが、いつもより苦く感じるのはきっとまだ、癒えない傷の所為かもしれない。暫くリハビリが要る。





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