それから気まずい合宿生活が続いた。あれ以来口数の減った神は、部屋に洋平の居る間も顔を合わせようとしない。
「神さん、飯作っといたから」
「うん」
実に無愛想な返事をくれるが、バイトから帰ってもそれはテーブルに残ったまま、ゴミ箱に弁当の殻が積もる日々。
無理もない、彼は男に童貞を捧げてしまったのだ。そんな男の作った飯を食べてしまえばそれこそ洋平との仲を認めたようなもの。身体に触れることと身体を貫くことは違う。その一線を越えた関係をまだ認めたくない、つまりそういうことだ。
しかしそれでも依然として洋平を追い出そうとはしないのは、出て行けの一言がないのは、それも優しさなのだろうか。あの日も無理を犯したといえ、洋平を押し返すくらいの筋力はジム通いの彼にあって当然だ。なのに逃げることも追い出すこともしないのは、何か迷いがあるのでは…………。
そう思案に暮れる日々を凌げば、あれから五日も過ぎた頃には徐々に口を聞いてくれるようになった。
「神さん俺今日夜勤だから、帰ったらゴミ出しとくね」
「うん、悪いね」
まだまだ以前の親しみはなくとも、徐々に緊張は薄らいでいった。
大人だな、と関心、一安心する一方で、現状は委ねた答えを曖昧にされたままだ。このままなかったことにされるのかと不安を抱くが、それなら事を繰り返し、あったことにすればいい。しかし今はまだ、初めての心の傷はあの常勝崩壊に近いほど深いだろうから、もう少し癒えるのを待ってやる。急がずゆっくり確実に、せめてこの合宿が終わるまでに決着をつけられれば。洋平は年下の気さくな男として、あとは無難に振る舞った。
そうして一週間も過ぎると、なんと外出の誘いは神からだった。大学近くの美味いラーメン屋を教えてもらったからという、きっと彼なりの仲直りだ。洋平は前もってシフトを夜勤にずらしてもらった。
昼頃に起きては軽く部屋の掃除、神がサークルを終える少し前、午後四時に部屋を出た洋平は一度現像された写真の受け取りへ。そのまま一人電車に乗り、指定された駅へと向かった。
そこは大学の最寄駅ということもあり、車内から駅構内にかけて周囲は薄着の学生ばかりだ。女子はキャピキャピ、カップルはイチャイチャ、そこら中で青春を謳歌している。それは改札を抜けても同様だが、一人だけテレビの言った流行を纏わない、ジャージ姿のその人が洋平に気付き、歩み寄ってきた。いくらサークル帰りといえ、今日は洋平とデート……という認識は全くないようだ。
「……って、当たり前か」
夏休みも残り僅かとなった今日、やっと二人で出掛けるというイベントを迎えることに浮かれていた。
「洋平お疲れ」
「神さんも」
すると、そんな神の後方からこちらに向かってくる一人の男……。
「あれ? 水戸くん」
「あ、メガネくんだ」
そのメガネくんは、あのメガネくんはなんと、女を連れて歩いていた。そしてその後ろからはもう一人……。
「あれ? ミッチーまで」
「ん? おう」
じゃあまた、と笑顔で見送る神はすでに顔を合わせているのか、女一人に男二人の組み合わせを訝しむ様子はない。
「ミッチーか、まさかのメガネくんか……」
真相は三人が改札を抜けてから、ニヤニヤとした神の口から明かされた。
「三井さん、今日いきなり来たんだ。あの女の人はこの前もサークル見に来てて、怪しいと思ったけど木暮さんは彼女じゃないって言うんだよね。でもどう見たって……」
「へー、やるなメガネくん」
そして、先日より大きな事件が起きたのはその後、ラーメン屋から帰る途中のことだった。
こってりとした豚骨味で共に腹を満たしたことで、今では何事もなかったようにすっかり打ち解けてしまった。寧ろ以前より仲良くなったような、お互い自然と饒舌に、日の沈んだ駅までの道を語らいながら歩いていた。
「神さん、最近はどんな勉強してんの?」
「そんなの洋平に言ってもわからないだろ? それとも、意外と出来たりするの?」
「全然。でも中坊んとき歴史だけ、戦国時代ね。九十四点だったかな。呼んでたら意外と面白くなって、先に教科書捲ってたくらいだから。鳴かぬなら……」
「鳴くまで放っとこホトトギス、ってね」
あえて別の手法を唱える彼に、なるほどな……とどこか納得したのはこれまでのことを顧みて。
「待ってもくんないって、冷めてんな神さんは」
「待ってもダメならもう放っておくよ。それでも鳴いてくれないなら……そうだね。いっそ鳴かせてみせるべきかな」
何やら意味深長に呟く彼は後頭部に手を組みながら、胡乱な夕月夜を見上げていた。
程なくして、混雑し始めた先程の駅に到着する。すると並んで改札を潜ろうとしたそこに、手前のホームからすごい速さで改札へ駆け込んで来たのは何やら見覚えのある男だ。周囲の若者に比べやや老け顔のその男とは……。
「ま、牧さん……?」
忽ち目を瞠る神に気付くこともなく、牧は慌てて駅を出て行ってしまった。メガネくんに三井、牧とも遭遇する今日は実に不思議な一日だ。
「牧さん、あんなに急いでどうしたのかな?」
案ずる神に行きましょ、と促し、ホームへやって来た電車に乗り込んだ。
帰宅時間に差し掛かったこの時間はまあまあ混んでいて、ぎゅうぎゅう詰めという程でもないが、容易に移動できるスペースはない。辛うじて吊革には掴まったが、ふと見上げた隣の彼は上の荷物置きに手を置いている。顔に不似合いな長身を数人が見やる中で、特に会話もなく、淡々と流れゆく窓の景色を彼は下に眺めていた。
それにしても…………この妙な静けさ。あまり夏休みも関係ない人達の疲労の表れだろうか、蒸し蒸しとした車内には線路を踏み続ける音のみ、急に耳鳴りがする。頭上からは冷房が吹き付けるものの、それは髪をくすぐる程度であまり涼しさを感じない。静けさと生温さの間で変な汗が零れ落ち、入り混じるたくさんの人の臭いで気が遠くなった。
海の見えないこの街で送る毎日の通勤、通学はこんな息苦しいものか。洋平はそっと隣に身を寄せ、再度その人の顔を見上げた。
「神さん……?」
……いつになく研ぎ澄まされた目でそれは車両の奥の方を見つめていた。覇気余る試合中とはまた違う、不穏な翳りの差す黒眼は今、何を映しているのか、蛍光灯が反射してよく見えない。ただじっと口を結んだまま遠く一点を睨めつける。それは他の乗客より頭一つ浮いている彼だからこそ見える死角にあるのか、洋平の視界は犇く人の顔、肩、腰で精一杯だ。……そしてもう一つ。すぐ隣に、強く握られた震える拳……
「神さん、どうしたの?」
「うん……」
振り向くこともしない、あまり元気のない声が返ってくる。
そして間もなく一駅を過ぎた頃、遂に彼は動き出した。スッと荷物置きから手を離し、無言で人を掻き分けてゆく。
「ちっと神さん……?」
何も知らない洋平を置いて、迷惑そうな人の壁を黙々と掻い潜る。浮き出た頭が徐々に遠く、小さくなり、やがて犇く人の向こうに聞いた柄の悪い男の声。異変を察した洋平はすぐに後を追った。
「なんだいあんちゃん?」
まるで何かを邪魔されたような不機嫌な声のする方へ、すいません、と人を押し退けながら洋平もそこに辿り着く。
「神さんなにを……」
そのまま、すっかり二の句を失ったのは車両の後方で、人の背と背の間で、人相の悪い中年男の腕を掴み上げる神がいた。そしてもう一人、車両を仕切るドアを前に半べそをかく女の子。それはちょうど彼の妹と同じ年頃だろうか、体付きもまだ幼く私立らしいランドセルを背負っている。痴漢……そう悟るまで時間はかからなかった。
後ろから腕を掴まれた被疑者は振り向くなり、そして上にある顔を見上げるなり、神の長身に多少怯んだようだ。
「わ……わ悪かったよあんちゃん。だからその、手ー離してくんねーかな?」
大事にされぬよう小声で釈放を訴えるが、神はその腕を放すことなく、鋭い視線を突き付ける。
『きっと怖くて声も出ないんだわ……』
いつか、痴漢のニュースを見た彼の母親の言葉が頭を過った。妹を持つ兄にとって、とても見過ごすことなどできなかったのだろう。怒りという大きな感情を持ったその強い眼差しは今も突き刺すほどに、どんな不良より凄まじく、洋平すら身震いするほど。しかし、その所為で洋平はしくじってしまった。
たった今、背後でまた別の男が動き出す気配にワンテンポ気付くのが遅れた。
「かっこいいよあんちゃん。でも好い加減、離してくんねーかな」
低く囁くその声は、鋭く光る先端と共に透かさず神の背後に迫る……。
「神さん……!」
張り上げた洋平の声で周囲は忽ちざわめきたつ。途端に退く人々の中で今、それはポタリと白い首筋を伝い、床に零れ落ちていった。
「じ………………」
いつか夕陽を吸った赤よりも鮮やかな深紅が刃を伝い、また一滴、一滴と床に薔薇の花を描いた。仲間が、見張り役の男がもう一人、神の顎に鋭い刃を翳していた。神はただただ茫然としながら、右手に掴んでいたはずの被疑者を静かに釈放していた。
目に余る急な展開だった。受けたショックは想像以上に大きく、一瞬頭が真っ白になった洋平は、透かさず飛びかかるという本来の行動に移ることも叶わなかった。情けない……と落胆する間もなく、唖然と立ち尽くす洋平からも乗客が離れてゆく。ぽっかり空いたこの空間には、被疑者と被害者と傍観者と、奇妙な沈黙が取り残される。……いや、釈放された被疑者は直ちに後ろの車両へ逃げ出していた。ナイフを手にした男もすぐに後を追おうとするが、今洋平の頭から、神との約束が消え去った。
「おい、逃げんのかよ」
「…………!?」
低く据わった洋平の声で咄嗟に振り向くナイフの男。それはすでに、殺気に満ちた視線の前から逃れられずにいた。
凶器を手にしたその腕は今、洋平の掴む右手によりみるみる青く変色する。千切れるほどにぎっちりと握るが、それでも離さない凶器から、刃から伝った鮮やかな赤が自らの手にも滑り落ちてきて、怒りは益々込み上げてしまった。
「ただじゃぁ済まねぇよな……?」
後ろから囁いて、静かに刺し返した洋平の鋭利な眼差し。自分より背も年も上の大人が目に見えて怯えている。洋平は、これからそいつを殴り殺そうと思う。
「洋平ダメ!」
次の行動を察したその人の、ひたすら首を押さえる彼の声を後ろに聞くが、目の前が彼の血の色に染まっては今にも鼻血が吹き出そうなほど頭に血が上り、拳が軋み、もう何も聞こえなかった。依然啜り泣く女児の声も、恐怖に慄く乗客の声も己の心臓の音に掻き消され、今は目の前の仇しか見えない。
「洋平、約束だろ?」
今一度、背後に立つ彼が言う。手を出してはいけないという約束を忘れたわけではない。守るつもりもなかったが、それでも無用な暴力は避けてきた。しかし今度ばかりは相手が悪い。今目の前にいる男が傷つけたのは紛れもなくその人なのだ。
「神さんゴメンね。俺まだまだガキなんだ」
こんなことを呟いてはまた嫌われてしまうから、目を合わせず、洋平はソイツの鼻骨を目掛け一気に拳を振るった。そこからすぐ噴き出した汚い血を見てはまだ足りない、折ってやりたいと再度拳を振るう。目に見えて変形してゆく顔をもっともっと、粉々に、血も涙も流せない程に。
もしこの行為が悪だというなら、この世に正義などあったものか。あの人の首から零れた赤はあまりに痛々しく、そして怖いくらいに美しかった。理由はそれで十分なのだ。約束なんてどうでもいい。痴漢を働いた上に人を刺してしまうほどの悪人をただで逃がすことなど出来ない。もう憎くて仕方ない、自分が殺さずにどうしてくれる、誰がコイツを殺してくれる……。
「おい、まだだぞう……」
すでにぐったりとした男は白眼を剥き、降参を告げていた。それならいっそのこと、もう何も言えなくなればいい。
|