鳴かぬなら…… 6 |
一向に沈まない夕陽を背に、鍵を差してすぐ開いたドアに驚き、中から「お帰り」の声を聞いた。襖の向こうからはテレビの音、食事の匂い、足下には大きめの脱ぎ捨てたスニーカーがあった。 「神さん、今日サークルじゃないの?」 「今日は休んじゃった」 覗き込んだ四畳半の部屋で先に弁当を広げた彼は、電気も点けずカーテンも閉めず、バラエティ番組を見ながら寛いでいた。 「お疲れ。これ洋平のぶん」 そう視線で示されたテーブルの上にもう一つの弁当がある。すいません、と洋平は食卓に就こうとしたが、ガソリンの臭いを気にして先ずは浴室へ、シャワーでさっと汗を流し、ここではお決まりのティーシャツとパンツ一枚に着替えた。 全開の窓に乞う風は微々たるもので早くも汗が染み出るが、日中に比べれば幾分ましだ。彼の斜め向かいに腰を下ろし、久々に二人の食卓を囲めばそれも気にならなかった。 「どう? スタンドのバイト」 「まあまあかな。神さんは? ジムのバイト楽しい?」 「それがさ……」 と、テレビの談笑に雑談を乗せていたところで突如部屋の電話が鳴った。立ち上がった神が受話器を取るとそれは忽ちデレデレになり、洋平はそれとなく相手を察する。兄妹仲良くやってることに安心するが、次の瞬間……それは疑心の塊へと変わってしまった。 ふと視線を落とした先、彼の座っていた長座布団の上にとうとう見つけてしまったのだ。淡い水色の便箋に書かれた丸みがかった文字、「神くんへ」が女性の声で再現され、思わず割り箸を握り潰しそうになる。どういうことかと顔を上げるが、折しも手渡されたのは通話中の受話器だ。 「はい、洋平と喋りたいんだって」 いつになく弛緩した顔を見せられ、不満のやり場を失う。受け取ったそれには洋平もまた、つい顔が緩んでしまった。 「もしもーし」 「ゆめ子ちゃん、元気?」 「元気! 洋平ちゃんは?」 可愛いな……と心から感じるのはその人と同じ顔がありありと浮かぶからだ。しかし脳裏に焼き付いて離れないのは先の便箋で、将来もし、神がその便箋の相手とどうかなることがあれば、妹は彼女にも懐いてしまう。「お姉ちゃん」と呼ぶ人が出来るのだから、洋平より近い存在になるのだから、当然のことだ。 まるで妹にまでフられた気分になり、受話器を置いた洋平はスッと表情を落とした。 「ねえ神さん……」 「ん?」 「煙草吸いたいんだけど」 「まだやめられないんだ。いいよ、窓開いてるし」 軽く窘めてくれることを期待したが、それはどうぞ肺を汚せとばかりに喫煙を促す。所詮他人事というわけだ。 「神さんさ、約束守ってる?」 言って振り向いた先に、長座布団に腰を下ろしテレビを見入る彼の姿。にじり寄り、問い詰めた先には「約束?」と素知らぬ顔。そして無防備に伸びた脚の間に容疑の掛かる萎えた性器……。 「ここ、使ってないかってこと」 ジーンズの上からそっと握ってみたソレは、急な触診にピクリともしない。怪訝に眉を顰めた顔を下からじっと見上げるが、それは洋平の挑発にニヤリ、しっかり挑発を返してくるから調子が狂ってしまう。 「使ってないし、溜まってる……って言ったら、どうする?」 不意な誘いにも悠然としながらの挑戦的な目付き。……つまり、してほしいとでも言っているのか。 他に意味はない、あってたまるかと膨れ上がる欲望のあまり、洋平は神の膝の上に跨った。対面座位というやつだ。彼とテーブルの隙間に割り込み、呼吸も触れるほど顔を近付けてしまえばもう、顔色を窺うことなどどうでもいい。お望み通り首筋に吸い付きうなじの汗まで愛でてやる。色付くほどの口付けを見えないそこに残してみる。しかし跨った尻の下からはまだ突き上げる熱を感じない。 「もしかして、これ見たの?」 よそよそしい口振りに顔を上げれば、神は便箋を手にしていた。取り出した中の手紙を、その内容を洋平の後ろに眺め、溜息を吐いていた。 身体は密着させたまま、洋平も先ずはその辺の事情を窺った。 「ラブレター、何枚目?」 「こっちに来て三枚目かな? 俺って結構モテるんだね。知らなかったよ」 「で、今度の相手は?」 「ジムによく来るOLさん。最近よく話しかけられて、もしかして……って思ったらこれだよ」 「その前は?」 「同じ学科の女の子。ちょっと地味な感じだけど、話す時は顔真っ赤にしてて、まあまあ可愛かったかな」 へー……と呆れた洋平の視線の先に、襖の向こう、シングルのマットレス。半日前まで仲良く被った薄掛けがまるで事後のように乱れたまま、まだまだ夜を拒む夕陽に薄赤く染まっていた。それをこうして眺めている間にも、嫉妬の苛々から汗が滲み出ていた。密着する彼の首筋にも玉の汗が滑り落ち、それは夕陽の色も吸いながら突き出た喉仏を避け、白く浮き出た鎖骨の窪みに音もなく零れ落ちていく。 僅かな沈黙の間、合わせた胸にも速まる鼓動を感じていた。所帯染みた部屋で見る、どんな芸術より妖艶な瞬間だった。 洋平の下半身は早くも膨らみ、無意識のうちに自身の先端を手前の下腹部に押し付けていた。気付けば昼間の陽炎に辺りを囲われていて、あの焦燥が蘇る。目の前の男に恍惚として、軽く触れた唇から甘えた声を発した。 「神さん俺ね、今日バイト中、暑さでぶっ倒れちまった」 「洋平が? 意外と体弱いんだね。少し鍛えなよ」 「それがさ、相手はずっと強靭なやつで、全く歯が立たなくて。でも、ちゃんとぶっ倒してきたから」 そう言って、彼の首に抱きついたまますっと身体を離れた洋平は、目の前の瞳の奥へ芽生えたばかりの覚悟を告げた。 「神さん、ゴメンね」 もうお預けは勘弁だと、日中の間血に肉に蓄えた熱でまだまだ火照る身体が言う。自ずと浮き上がった腰は嫉妬に疼き、より昂ぶる熱を欲し、その人の中心へ執拗に擦り寄ってしまう。 それは欲望のあまり気が逸るのとは少し違い、身悶えるほどの切なさから逃れようとした故の行動だった。 いつか誰かのものになるならその前に……という思考は愚か。合意も得ず無理矢理奪うというのはそもそも洋平の性に合わず、特にこの神という男には一番してはいけないことなのだ。追いかければ逃げることは百も承知だというのに、それでもここまで許された経緯があれば、すでに初犯を無罪とされたなら再なる重罪も許される気がした。だから、今もこうして一緒にいる。身勝手極まりないこじつけだが、それでも暗黙の合意を盾に、憎きラブレターをアリバイに、洋平は手前のベルトに手を掛けた。 「またしてくれるの?」 「うん」 しおらしく頷いた自らの声に泣きたくなる。ボクサーパンツの向こうに触れたその人の欲望は今誰に向けられているか……考えても無駄なことはすでに学習したから、今すべきは無理にでもそれを自分の身体へ向けること。 「神さん今日は特別ね」 小慣れた営業スマイルを浮かべ、チャックの奥のボクサーパンツから取り出したソレを左手に握る。またも怪訝に染まる顔を至近距離に見上げながら、右手は己の尻にこっそり滑らせた。 これまでこれといった運動はしていないため、スポーツマンと違い肉は程よく柔らかい。すでに何かを期待していたソコは恥ずべきことに熱を帯びていて、自らの指先にすら収縮を繰り返していた。 「ン、ンッ……」 息を漏らした奇妙な声音は片頬をひくひくと引き攣らせながら、跳ね上がる腰を戒め、左手は膨れ出したソレを扱き、右手で小さな入り口を解す。これまでと違い、明らかな準備に取り掛かる姿を益々訝しむ瞳に睨まれた。 「何してるの?」 じっと様子を窺っていた神が遂に口を切った。 「何って、もう他にないでしょ」 十分に察した上で確認を迫る彼を早く黙らせたい。男色に冷め逃げられる前にと、間もなく腰を上げパンツをずらした洋平は、天を仰いだ彼の先端を自らのソコにあてがった。 「ちょっと洋平……」 身体を離そうと彼の両手が洋平の腕を掴む。それでも洋平は、今更拒む彼の上で黙って腰を落としていった。 「ンンンァ……クッ……」 歪み切った表情筋でこじ開けられる苦痛に堪える。ズブズブと沈み入り、声が押し出される程の圧迫はすでに中を支配して、ゆっくりと内壁を広げながら奥へ奥へと貫いていった。 「あ痛っ、い……いぃ……」 悲痛な声を押し殺し、これより先を躊躇う腰を更に落としてゆく。限界を越えた入り口からは妙な生暖かさが伝い零れ、裂けんばかりの鋭い痛みに足先まで痺れ出す。快楽とは程遠いセックスにふと目的を見失いそうになるが、その目的とはつまり…… 「ハァ、ァ……」 それはつまり、この苦痛に堪えること……。その人の全てを自身の心と身体をもって受け入れること。それがずっと望んできたことだと、身をもって知った今は生きた心地さえ感じている。傷付いてでも手に入れたいものを傷付くことで手に入れる、自身の生き方として認めてやりたい。 しかし、合意なく一線を越えられた彼は当然のように怒っていた。 「洋平、約束が違うだろ?」 「約束って?」 「これセックスだろ?」 「俺とセックスしないなんて約束、してませんよ。それに、最初に破ったの神さんだ。やっちゃったんでしょもう」 白状しろとばかりに便箋を一瞥、薄く窄めた目で被疑者を見据えるが、本当はわかっている。 「やってないよ」 そう言い返された通り、彼はまだ童貞だ。でなければここに居候を招くはずがない。ラブレターを貰ったことに浮かれているだけ、洋平が不要になったわけでもない。洋平との夜を忘れたわけでもない。何故ならそう…… 「もういいっしょ? 観念しなよ。こんなおっ勃てて、いいのすぐ抜いちまって?」 彼は一瞬目を剥くが、そのまま口を閉ざした今も洋平の中で発熱している。締まりに締まった洋平の奥でまた一回り膨張し、大きく脈を弾ませるのだ。 「ハァ……神さん、気持ちい?」 そう吐息混じりの声で尋ねた洋平は、先の見えない至福の時に視界を湿らせていた。開けたままのカーテンの向こう、浮かれたカップルの声でふと我に返り、鋭い痛みと寂寞でいっぱいになる。今更蘇った理性に厳しく咎められ、大罪を犯している現実が急に怖くなる。決して見られてはいけない姿を決して見せてはいけない人の、その涼しい黒目に見て思わず目を背けてしまう。 それでも後戻りできないことには無理に腰を揺らし、後ろに手を着き腹筋を絞り、意地でも射精を促す。上下に動けば傷が増すから前後にだけ腰を振り、彼の視線を逃がさない。今はひたすら力むことで、締め付けたソコに更なる反応を強請るのみ、覚める隙を与えなかった。 「我慢しないで神さん、俺妊娠しないんだから」 優しく優しく、慈愛に満ちた洋平の声に、やがて彼は何も言わなくなった。次に感じた余波で洋平は今一度腰を揺らし、奥に浴びた激しい射精で身も心も熱く満たす。綻びの笑みを浮かべ、ちゅっと口付けたその先に彼の暗い顔を見る。 すっかり日の暮れた室内で黙って怒る端正な顔。あまりの怖さに背筋が凍る。辺りを映すのは消し忘れたテレビで、それは無言の彼に代わり、全く無関係なことを洋平に語りかけていた。 「えー所謂、日ユ同祖論とは……」 古来日本に渡ったとされるユダヤ人の面影を、今目の前に見た気がする。初めて見た時から思っていたが、彼には異国の血も流れているのでは……。 腰を上げ、下半身を離れた後もそれは何も言ってくれず、痛みを気遣ってくれるはずもなく、拭ってやっても礼の一つもないわけだが。ムスッと膨れたままの目で暫し洋平を睨み、いそいそとベルトを閉め、そして、ここを去っていってしまった…………。 「神さん待って……!」 暗闇の中でバタンと閉じたドアに寂寞は募るばかり。出て行くべきは居候なのに、本来残るべきその人は夜の都会へと消えてしまった。 とうとう嫌われてしまった、取り返しのつかないことをしてしまったと洋平は嘆くべきだが、ここでついほくそ笑むのは嬉しさと、胸に灯した決意の狭間で。 今日彼にしたことは、いつか対陵南戦で魚住の見せた、反則の線引きといったものだろうか。これで退去を命じられるならそれまでのこと、きっぱり捨ててくれればいい。結果がダメならダメで、ここまで最低な仕打ちをしなければ踏ん切りが付かなかったことには申し訳ない。しかし散々洋平の心を弄んだその人もこれで傷を負ったなら、痛み分け。このまま都合良くあしらわれ、彼だけが幸せになる未来が許せなかった。そこに自分がいないならいっそのこと……という投げやり感の否めない行動で彼に判断を託したのだ。 だから、あとは帰りを待つばかり。 一時間、二時間、三時間……就寝時刻の十時を回ってもまだ寝ない。やがてポツポツ雨が降ってくると少し心配になり、俄然後悔が襲う。閉めずにいたカーテンの向こうでは徐々に雨脚が強まり、洋平は慌ててアパートを飛び出した。 抜け出た大通りで傘をさして歩く人々を擦り抜け、雨でも視野の明るい歩道を当てもなく彷徨う。よく似た身長すら見当たらないことにはまた裏道へ戻り、真っ暗な角の向こうを虱潰しに覗き、気付けばバイト先の近くまで来ていた。 手ぶらで出ていったその人と同様、ずぶ濡れの薄着で、歩調にすら響く尻の痛みを気遣いながら、どしゃ降りの雨の隙間まで目を凝らして探す。同じ身体の冷えを重ねれば尻より胸が痛み出し、後悔の念に苛まれていた。風邪をひいたらどうしよう……とは、勿論彼に対する心配。しかしどこへ行っても見つからないことに一度踵を返し、アパートへ戻ることにした。 近づいてきた雷鳴に酷く共鳴する胸を押さえながら、アパートの階段を上り、外灯の明かりを頼りにドアの前で顔を上げる。垂れ落ちた前髪の向こう、ポタポタと水滴の落ちる向こうに数時間前と変わらぬ表情を見た。 「神さん、こんな濡れて……」 怒ったままのずぶ濡れの顔に伸ばした指先を取られ、真っ暗な部屋の中へ連れ込まれた。 神は先に浴室へ、部屋へ戻ると洋平にタオルを投げ渡し、素っ気なく一言。 「今日はこっちで寝て」 洋平の今日の寝床は四畳半の部屋。狭い長座布団の上。添い寝の却下のみを告げ、ピシャッと襖を閉めた彼は隣の六畳間へ。すぐに物音は消え、当然ながら許しの言葉を聞くことはなかった。 外の雷雨は益々激しく、洋平が途方に暮れるそこにカーテンがふわり、サァッと風が吹き込んできて背中に悪寒が走る。窓を閉めカーテンを閉めるがそれでも鳥肌が止まず、薄がけもないことには横になっても寝付けない。 気になるのは襖の向こうだが、雨の所為で寝返りの音も寝息も聞こえず、踞っても寒いばかりで身体の色々なところが痛んだ。特に胸が痛むのは、こうしてまたここで一緒に居られるからだ。それに、こんなことになっても彼は優しくしてくれるからだ。 今、突如開いた襖から、無言でいつもの薄がけがこちらに放り込まれた。 「神さんこれ、神さんのでしょ? 俺はいいから神さん使ってよ」 すぐに閉まった襖へ呼びかけると、「もう一枚あるから」とだけ無愛想な返事。最低な男にも思いやりを捨てられない、彼の芯にある優しさに触れ、ついほろりときてしまった。早速身を包んだ薄がけに、その香しさにゴメンね……の言葉を封じ、匂いを抱き締め横になった。 なんだかとても長い一日が、お互い傷を癒やせずに終わった。 |
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