鳴かぬなら…… 5

二回ほど乗り換え、漸く着いた駅の改札前でその人は待っていてくれた。今日も走り込みをしたのか、うなじに汗を浮かべたまま腕の時計を見やり、流れる人の往来を前にぼんやり腕を拱く。待ち合わせに最適なその長身は今日も頭一つ分浮いているが、一つだけ、KAINANのロゴがないジャージにはまだ違和感があった。
「待ちました?」
声をかけると、振り返ったその人は早くも大切な物をくれる。
「疲れただろ。あとコレ」
ポケットから取り出し、差し出してきた一つの鍵。合鍵ね、と本来他人に渡すべきでないそれをあまりにも気軽に手渡されては、今日も都合のいい友人でしかないことを実感した。右手に握り締めたそれはこんなにも重いというのに、それでも浮かれる自身の胸に嫌気が差した。
それからファストフード店で適当な昼食をとった後、駅から徒歩十五分で着いたそこは六室二階建てのアパートだ。敷地内には同じ外観の四棟が連なり、グレーの外壁は一見真新しくも新築ではなさそうだ。駅前の大通りから抜けたここは住宅に囲まれ、スーパーもコンビニもあり、街を駆け巡る生活音も地元となんら変わりない。あの海のさざめきだけは耳を澄ましても聞こえないが、いかがわしさも陰気臭さもない街並みに勝手な親心をもって安心した。
「ここは元々全て社宅だったところを一棟だけ改装して、民間用のアパートになったんだ。丁度ここの地主さんと叔母さんが知り合いで、俺の部屋探しは一日で終わり。それに四畳半と六畳の2Kでなんと、お家賃六万円!」
差し掛かった階段前で神が小鼻を蠢かせる。そりゃすげぇ、とその背中に続き、階段を上り終えると早速D−2○2号室のドアが開けられた。
掃除はしといたけど……と中へ通されてすぐ、洋平は無意識の内に他人の臭いを探っていた。この蒸し暑さと籠った夏の部屋の臭い、少しだけ彼の寝起きの匂いと、真新しい畳の匂い……。狭い玄関で肩掛けを下ろしつつやっとの一息を吐いた。その肩掛けは神に持ち去られ、向かって左の部屋へと運ばれた。
「洋平、こっちの部屋好きに使って」
そう言って、神が鞄を置いた一室は襖の奥に四畳半の覗く六畳間。たった今開けたばかりの窓と、その光をいっぱいに受けた新しい畳。衣装箪笥に透明のボックス、布団の敷かれたマットレスが壁に沿って配置されるだけで物は少ない。隅にはまだ段ボール箱が置いてあり、今ひとつ生活が確立されていない。拘りの見える装飾もなく、寝起きと着替え以外の見えない、極めて簡易的な空間だった。
「ここ元々収納なくて。家から余計にボックス持ってきたから、それ一個使って。それと……」
トイレは玄関から向かって右手、浴室はその手前と、何かと気を遣ってくれる彼に対し、居候は申し出た。
「神さんそんな構わないで。それより、俺も家賃半分出すから」
「それはいいよ。そしたらこっち来た意味ないだろ?」
ここに来た意味……家賃を払うとなれば確かに時給千円は意味を無くすが、タダの居候ほど邪魔であることは弟との同居で知っている。
神は言ってくれた。
「いいよ。空いてる時間に家事でもしてくれれば」
ふと覗いた先のキッチンには洗い物の残り、収納の間に合わない食器の数々、洗濯機の蓋の上に重ねられた洗濯物。
「つまり、パシリってわけか」
「俺はそんな嫌な先輩じゃないよ」
「へぇ」
「まあいいから、少し休みなよ」
そう言って、次に通されたのは四畳半の部屋だった。テレビにローテーブル、その上に教材の置かれたここは日中用と言ったところか。ゴミ箱から突き出た割り箸にハンガーからずり落ちた上着に、他人の入り込む隙のない彼の多忙ぶりを垣間見る。貴重な休みである今日を割いてくれたことには優越感すら覚える。
「やっぱ男の一人暮らしはこうでなくちゃ」
「洋平それ、どういう意味?」
それから少しアパートの周囲を歩いて回り、コンビニやらバイトの行き先を確認した。歩道を引き返す頃にはすでに日が落ちていて、進行方向に伸びた身長差のある影が仲良く並んで歩いていた。傍目にもただただ睦まじく、くだらない馬鹿話に笑い声を共有すれば僅かな年齢差も忘れてしまうほど、涙の浮かぶ笑顔を見せてくれるほど、肩が並んだ気分になる。しかしただの小遣い稼ぎで上京してきた男と、毎日夢を追い駆けるその人との間にはそれを裏付けるだけの生活があるわけで、実際に肩が並ぶことはあり得なかった。
「俺土日は実家戻ってバスケ、月火木はサークル、他は勉強したりジム通ったりで、ホント寝に帰ってるようなもんだから、いない間も好きにしてて」
「実家は泊まりってわけね」
「うん、土曜の明日は試合なんだ」
「へー。強いの?」
「まあね、メンバーがメンバーだから。今年は翔陽もインターハイ行けたって、藤真さんが一番喜んでたよ」
その姿を顧みてか、ふっと彼の零した笑みにオレンジの夕陽が射す。見上げた二十数センチ先に今日も見惚れる洋平だが、つい余計なことを口走ったことには後で気付いた。
「翔陽には湘北も苦戦したからな。あと、海南にも……」
「まあ仕方ないよ。天才のいる湘北には適わないさ」
笑顔は一瞬涼しくなるが、すぐに顔を上げた彼はこう言い添える。
「それに、洋平もね」
「俺……?」
「ああそれで、インターハイはどうだったの?」

先にシャワーを済ませた洋平が荷物を整理していたところ、今浴室を出た神がただいま、と襖から覗いた。濡れた髪をタオルで拭いながら「ボックス足りる?」と様子を窺い、棚引くカーテンに誘われるよう窓の前に立つ。
充分だ、と洋平は少ない着替えを取り出しながら、冷房に満たない夜風にふと、今日ここに来る前のことを思い出した。
「神さん聞いてよ。今日電車で流川と一緒になったんだ」
「流川と? ああ、今年も全日本合宿か」
「それが違うんだな。あいつ今度引っ越すんだ。だから辞退だとよ」
「引っ越し? そうなんだ……。インターハイ終わったあとでよかったのかもしれないけど、一人の神奈川代表を失うって意味では大きな損失だね。国体なんか、今年は流川がキャプテンで大方決まってただろうから」
外の景色に神奈川バスケを案じた彼は、昼間の洋平と全く同じことを呟いていた。
「信長のやつ、案外シュンとしちゃったりして」
窓は開けたまま、薄いカーテンを閉めた彼が窓辺に腰掛ける。すると都会の夜の生温い風が湯上りの香りを運び、夏の思い出に加えてくれた。
テレビの音も妙な沈黙もなく、まったり過ごす合宿初夜。話題は自ら口にした流川に独占されてしまったが……。
「流川ってさ、湘北に友達いるの?」
「湘北にはいなかったな」
「バスケ以外に趣味とかあるのかな?」
「ああ、洋楽聴いてましたよ。確かsynspliumとかって」
「へえ、意外」
ということは、神もそれを知っている。洋平だけが知らない世界にまたも壁を設けられた気分だ。遠慮なく胡座をかく居候はティーシャツにパンツ一枚、対する大学生はハーフパンツだからと、無意味な境界線を引いては改めて自らを不良枠に置いた。そして洋楽を知る流川をその境界線に置いてみるが、「……いや、不良を負かすアイツこそ不良だろ」独り言を零したところ、洋平は探っていた鞄の奥にカメラを見つけた。
「あ、現像出しとくの忘れた」
これには今年の予選からインターハイにかけての思い出がたくさん詰まっている。現像に出すつもりですっかり忘れていたが、そこにはまだ空きがあった。何を期待するわけでもないが、ここらで初日を仲良く迎える為のふざけた交遊を試みた。
「神さんちょっと」
ん? と振り返った彼に、その容姿とは相反する小道具を与えてみる。
「なに? 俺に吸ってみろって言うの?」
「まさか、持って咥えるだけ」
今日も鞄のポケットに忍ばせた一本を彼に持たせ、それをファインダーの奥に覗く。
「うわー、悪いな神さん。停学決定だ」
「証拠を押さえる気だな」
「そうだな。いっちょ海南にもばら撒くとするか」
くだらない、と馬鹿にすることなく神は寧ろ乗り気だ。洋平は夢中でシャッターを押した。
「んー、こんな感じ?」
そう摘まんだ一本を唇に、ぎこちなくはにかむバストアップは一枚目。
「でもやっぱり不良はこうだよね?」
二枚目は更に調子に乗り、股関節柔らかにヤンキー座りを決め込むなかなか悪い顔つきを。残る一枚は、投げた一本を咥えようとして失敗した、大好きな彼の笑顔だった。屈託も遠慮もない自然な笑顔を両手に封じた。
手にした思い出が数分の間に、持っていられないほど重くなっていたと気付いたのは、それから二週間ほど後のことだった。
「はい、もう終わり。寝るよ」
一本が手元に戻り撮影会は終了。告げられた就寝時刻はまだ十時五分前だ。
「で、また五時起きとか言うの?」
「うん、そのくらいかな」
覚悟はしていたがやはり、この人との合宿となれば規則的な生活を強いられるわけで、早くも自信をなくしてしまう。それでも落胆は程々に、次の台詞に今後の希望を抱いてみた。
「あとそう、布団一組しかないんだ」
彼の言うことに部屋を見回してみれば、押入れもないここにあるのはマットレスの上の一組のみ。以前、彼が自宅で使っていたものだ。しかしそれは消灯直前に言う台詞か。男色を持ちかけた男へ告げるにはとても遅く、洋平は意図を汲んだ上で添い寝を申し出た。
「じゃあ、一緒に寝ましょ」
そう言いたいとしか思えず、そこに冗談を浮かべる気もなかった。そもそも以前も床を共にしている。キスを挨拶程度というのなら添い寝くらい、今更どうということないのだろう。指でこめかみを掻いてはにかむ彼はやはりそれを望んでいたのか、きっと呆れているわけだが、それでも申し出を受け入れてくれた。
「俺デカイから、洋平のこと蹴飛ばすかもしれないよ」
「そりゃ激しい夜になりそうだ」
……とは言ったものの、熟睡を知らない都会の夜は思ったより静かだった。電気を消したあともどこぞのネオンが部屋を灯すが、それでも大きな騒音はなく、昼夜不問の生活音も不眠を煽る段階にない。何故ならより睡眠を妨げる温もりがすぐ隣にあるからだ。
「ねえ、なんで……?」
――なぜその人は、洋平をここに招いたか。優しさだけで居候を呼ぶ人でないことは察している。
「うん、なんでだろうね……」
艶やかなネオンもその黒目の内に封じてしまう、天井を見つめ微睡むそれは都会の夜を夢に見ていた。やがて明確な返事のないまま閉じられそうになったそこに、上体を起こした洋平は口付けを落とすが、反応はない。一言だけ……
「そろそろ、聞かせてよ……」
「何を?」
暫く答えを待ってみても、そこに聞くのは小さな寝息。そこにも唇を落としては洋平もまた隣に収まり、薄がけの端を被った。ここまで蒸し暑いとそれも必要ないが、それでも腹だけ、同じ一枚を共にすることでときめく心がここにある。隣の寝息と体温で知る揺るぎない現実を、薄地に封じて眠るここはまるで、まるで夢の中だ。見知らぬ街で二人きり、邪魔者のいない静かな時間を独占している。夢見る彼に背中を向け、瞼を閉じてこっそりはにかむ。
こうして禁煙も兼ねた合宿初日は穏やかに過ぎていった。数度目となる同衾にふと抱いた期待も希望も、朝日に蒸したアスファルトの臭いに掻き乱されて目が覚めた。彼のいない朝を迎えた。
夢の中で追いかけたその人はすでに実家へ向かったか、気配もなければ物音もない。浴室から少しの湯気と、襖の向こうのキッチンにカップ麺の殻が一つ。四畳半のローテーブルには食べろとばかりに未開封がもう一つ。風に揺れるカーテンの向こうにも細長い影はなかった。
しかし温もりを探るより、八時出勤の一時間前を枕元の腕時計に確認、洋平は着替えに袖を通した。そして歯ブラシを咥えたところ、アパートの階段を駆け上がる足音を聞いては体が玄関に赴いていた。
「フー、ただいま」
正面のドアが開くと同時にその人の声、汗を吸ったジャージ姿。
「走ってきたの?」
「うん。やっと起きたね」
なるほどなぁ、と、どこか救われた気分。
それから半分浮ついた調子で洋平はバイトに出向き、夜勤を組み込まれた翌日には初めてその人の寝起きを見た。目覚ましが鳴ろうとなかなか姿を見せない彼は布団の中で蠢いていて、むっくり起き上がるとふらふらトイレへ。出てきた彼は一変してスッキリ、身支度を整え走り込みに出る。
シフト上、朝五時には帰れない日もあるが、それでも一度部屋へ戻る彼のために洋平は朝食を用意した。朝からインスタントで済ませていた彼だが、買い揃えた食材で拵えた手料理を、手軽な一品と毎日具の違う味噌汁をいつも残さず食べてくれた。母親が趣味で作る様々な異国料理も好きだが、洋平の作る和食も好きだと喜んでくれれば、夜勤を好ましく思った。しかし眠りを見届けることを考えれば日勤がいい。共に布団に就くひと時は譲れないわけだが、いずれにしろ、宣告通り多忙な彼とはあまり顔を合わせなくなってしまった。 合宿が始まり一週間、神もまた行きつけのジムでバイトを始め、十時過ぎの帰宅が多くなったのだ。夜勤前に洋平の作った夕食はいつも冷めていた。それでも朝、帰ると空の食器があればバイトにも精が出るというもの。
所詮バイトとあって仕事は楽なものの、日中の暑さとガソリンの臭いには多少やられていた。連日の猛暑で頭はクラクラ、キャップの中は乾く間もなく汗に塗れ、ボンネットの反射に目が眩む。営業スマイルも溶け崩れ、少しずつ少しずつ、今を蝕まれてゆく感覚に茫然と立ち尽くしていた。
慣れない生活に多少疲れていたのだろう。その日はやけに怠かった。気付くと辺りに広がっていた陽炎に取り囲まれ、焼けるような感覚に身体はフラフラ。覚束ない足取りでは奥に引っ込むことも出来ず、絶え間なく噴き出る汗に吐き気まで催し、全身が見えない何かにじわじわ呑み込まれていった。これが熱中症というものだろうか。アスファルトを這うガソリンが気化し、周囲の景色は生暖かく歪み視界が溶ける。徐々に意識を奪われる中でとうとう幻を見てしまう。熱く燻る煙たさに包まれた、まるでそう…………自らの肺の中だ。
靄の向こうが見えないことには生きる目的も見失い、逃げ出すことも叶わずにいる。いつかここを抜け出せたら……そんな気楽な考えからいつしか慣れが生じ、甘んじて受け入れることに抵抗すら失っていた。このまま居心地が良くなることにずっと不安を抱きながら、ついだらだらと過ごしてしまった。
友達が、好きな人が、皆が未来を手にする中で自分だけが取り残される夢を度々見る。もしここを抜け出た世界がいつか見た幻想にあるなら、今すぐ脱する準備はあるのに、違っていたなら……と考えては不良をよすがとしてしまう。馬鹿とは時に都合良く、多くの逃げ道を有しているから。しかしそれはもうじき閉ざされる。
去年、神が迎えた分岐点に今は洋平が立っていた。しかし彼のように道はいくつもない、一つも見えないことには踏み出すに踏み出せない。だからといって、振り返る道もないのだから逃げてばかりいられない。前に進む他ない。先に待つのが天国であれ地獄であれ、飛び越えることを急ぐ気持ちは、この焦燥はたった今湧き上がったものだ。殴り込みに行く感覚とよく似ていた。限界を超えた苛々に急かされ、この不快な幻覚を打ち破ろうと振り絞った意思で洋平は今、カッと視界を切り開いた――――。
徐々に鮮明となるその奥に見たのは店長の案ずる顔だった。
「洋平くん、大丈夫?」
上体を起こし、辺りを見回せばここは奥の休憩所だ。熱中症で倒れていたと聞き情けなくなるが、店長の優しさには恩が芽生える。
「今日はもう上がっていいよ。明日は夜勤だから、よく休んでおいて」
「なんかすいません」
「いいよ、いつも頑張ってくれてるからね」
これまでの仕事ぶりが報われては自然と心が晴れ、まるで全てが順調に感じた今日、日勤を早めに上がった洋平は足早にアパートへ帰った。





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