鳴かぬなら…… 2 |
何時の間にか、土日の部への差し入れが当番制になっていた。土曜の今日は洋平と大楠で、増えに増えた部員を計算しながらコンビニで購入。ちゃっかり着いて来た弟にも一点五リットルを三本持たせ、洋平と大楠も箱アイス等を手に、冷房の効いた店内を出た。海にも似た夏空の下、すぐにも汗をかき始めたアイスを案じ足早に体育館へ向かった。 そして到着したいつもの出入り口に、懐かしい後ろ姿をみつけた。 「お、メガネくんだ」 声に気付いた彼が振り向くと、そのティーシャツにはやはり奇妙なプリントがある。 「やぁ。元気?」 笑顔も趣向も変わらない彼に大学生活二年目を窺ってみるが、「えっと、メガネくんどう調子は?」依然本名を思い出せない洋平だ。 そこに晴子も駆け寄ってきて、洋平はコンビニの袋を差し出す。 「お疲れさん。これいつもの差し入れね」 「ありがと洋平くん。ホント助かるわ」 続いて差し出す純平にも可憐な笑みが降りかかれば、それは校舎沿いに咲く撫子と同じ、薄桃色に染まった。そして次の瞬間――――洋平もまた、露草より濃い蒼白にさぁっと染まるのだった。 「アイスだから、早めに食っちまって」 「そうね。でも…………」 それは難しいとばかりに何やら晴子が館内を振り返る。洋平も皆が注目していた1on1を覗き込むと……………… ――いつか見たことのある光景だった。一昨年の決勝リーグ、そのスリーポイントを封じるべく特命を受けた花道が、持ち前の運動能力で俊敏に壁を作る。人間離れしたディフェンスで素早く目の前に立ちはだかるが、対するその人は今、直様シュートへ立ち向かんばかりの視線を切った。……フェイクだ。見る者全てを欺く素振りで鮮やかに振り切り、引っ掛かった花道のその後まで見据えたドリブルで離れ、忽ちシュート態勢へ。指先から目も綾なシュートを放つ。 「よし、桜木の負け」 そうやって、また爽やかに見せつける笑顔…………。 心臓が一つ大きく打ったきり、脈も呼吸も途絶えた時にはすでに自我を失っていた。ときめきと落胆の狭間は非常に居心地が悪く、壁を殴りたい衝動で無意識に拳を握る。コート上より多量の汗を掌に潰す。 程なくして、無愛想なキャプテンの「休憩」の合図ですぐに駆け寄ってきたのは花道だった。副キャプテンにして真っ先に晴子からアイスを受け取り、壁を背に腰を下ろすと早速、洋平に負けた苛々をぶつけてきた。 「ったく、勝負の最中にキョロキョロキョロキョロしやがって。この天才をおちょくっているとしか思えん!」 「ありゃキョロキョロじゃなくてフェイクだろ?」 「わーってるよんなこと。でもあいつ目ーデケーから余計気になんだ」 と聞いては、花道ですらその瞳に……などと余計な不安を抱いてみたり。隣で噛り付く溶け気味のアイスに、真っ昼間から非ぬ思い出を重ねてみたり……。そして、透かさず耳に入り込んだその人の声でビクッとして、冷や汗が流れた。 「すみません木暮さん、少し待っててください」 それはもう、洋平のすぐ背後に迫っていた。近付いていたのはあの香しさで疾うにわかっていて、同じ空気に触れてしまえばもう、昨日までの自分を裏切る他ない。声をかけられれば時すでに遅し、振り返ったが最後だった。 「洋平」 「ああ、神さん」 今気付いたとばかりに見上げた洋平の、ごく自然な愛想笑いに誰も二人の仲を疑わない。 「ビックリした?」 「ええまあ」 神の元気そうな笑顔は近づくほどに愛らしく、陽射しを受けたこめかみの汗まで凛と輝く。乱れた短髪さえ爽やかなまま、今日も洋平の痛いところを初っ端から突ついてくるのだ。 「それで、禁煙は?」 「いや」 「じゃあ、丁度いい土産があるよ」 意味深長に微笑む彼の手がさっと伸びてくる。それはポケットに入れていた洋平の手を取ると、賑やかな体育館からそのまま洋平を連れ出していった。 「おい洋平! どこ行くんだ!」 熱い胸騒ぎに駆られ、花道の声に振り向くことも出来ないまま、ウインドブレーカーを羽織る彼に校内を連れていかれる。途中、渡り廊下を行くサッカー部員らが一斉にこちらを振り向くが、それは県立校湘北で見慣れない大学生に目を奪われてのことだろう。水戸洋平という不良に釣り合わない交友を訝しんでいる。 間も無く日陰を欲し行き着いたそこはいつかの体育館裏で、真っ赤に染まったあの日の夕陽が嫌でも蘇った。沈みゆく軌道をじっと見守る長い時間、口実を得て奪ったあの瑞々しい感触を、足の先まで痺れるような甘い口付けを、彼も覚えているだろうか。 「実は今日さ……」 その人に促されるまま、コンクリートの縁に並んで腰を下ろすと、不意な今日の経緯がその口から語られた。 「木暮さんがこっちに用があるって言うから、今日は一緒に帰ってきたんだ。サークルが一緒なの、知ってるだろ? 俺もこれから翔陽向かうから、そのついでってわけ」 来んなよ……とは心の中で、「バスケ頑張ってんの?」と気さくに応じる洋平だが、今、右の頬に執拗なまでの視線を感じる。心の奥を訝る瞳が「どうしたの?」と顔を覗き込んでくる。 「いや、何でも」 軽く受け流してみるが、欺くことに長けた彼にはやはり見えているのか。もし本当にこの気持ちを知られているなら、それでも嘘を吐き続けるほど滑稽なものはない。 「誰かさんからさっぱり連絡なくて、寂しかったんだ」 「もしかして、泣いちゃった?」 冗談めいた本音には冗談で返してくれる、この優しさが憎たらしい。 「泣いた泣いた。三日も飯食えなかった」 しかし、続く返事はもっと優しく残酷なもの。壁に後頭部を凭れぼんやり空を見上げていたところ、微かに漂っていたミントの香りごと、唇に押し当てられていた。 「ちっとじ……………」 柔らかさと同時に直に鼻腔へ入り込む、キツいミントが涙腺まで刺激する。青空が淀んで見える。 まるで喫煙に対する制裁を受けているような気さえして、忽ち患ったのはあの潔癖だ。忘れたなんて嘘だ。いっそ心地いいくらいの悪寒が背中を走り、病んだ肺がキュンと泣く。 「ったく、あんたって人は」 洋平はその首に手を回し、強引に引き寄せ、油断したその隙間から舌先を忍び込ませた。するとそこに感じたのはピリリとするほどのミント味。器用に探り出したそれを自分の口内へと絡み取ると、それは確かな土産物だった。 「はは、取られちゃった」 そう苦笑を零す唇から確実に受け取ってしまった。 「へー、これが土産?」 「うん、気に入ってくれた?」 「うーん、悪かねぇな」 使用済みのミントガムを口に含みながら、とんだ演出だと、そのために体育館裏まで来たのかと洋平は呆れて笑う。 彼は彼でぼんやりフェンスの向こうを眺めながら、またふざけたことを抜かしていた。 「ホント、慣れって怖いね。もう挨拶でする外人のキスみたいな、笑ってやり過ごせる感じ。ヤバイねこりゃ」 いやいや、慣れてもらっては困るわけだ。ドキドキして、それを恋だと錯覚してくれなきゃ色々とやりにくい。だからもう今日はしない。してやらない、と洋平は話題を変える。 「それで、大学は順調なの?」 「まあまあかな? やっと落ち着いたところ。やっぱりサークルじゃ物足りなくて、人数も人数だし、まともにゲーム出来るのなんて週一くらいだし、終わった後一人で走り込みしてるんだ。まあ充実はしてるけどね。時間はいくらあっても足りないくらい」 面白味に欠ける近況を後頭部に手を組んで語った彼が、「洋平は?」と尋ねてきた。 「俺はまあ、バイトすっけど、インターハイ終わってからだな」 「はは、行くのはもう決まってるんだ」 「当然。ただ……」 ただ、単車の免許を取りたい。原付で正月に山を登ったらさすがにガタがきた。しかし掛け持ちをしたとしても夏休みだけでは足りない。高校生のバイトとなると良くて時給850。合宿でも十日はかかるから……というそれは洋平なりに夏の計画を建てた結果だ。よって諦めかけていることをここで打ち明けたところ、その人はなんと、願ってもいない最高の夏休みを提案してくれた。 「要は、手っ取り早く稼ぎたいってことね」 「まあ」 「今大学の友達のその弟が近所のスタンドでバイトしてるんだけど、時給千円って言ってたよ」 「はー、さすが都会だ。千円か……なら多少……」 「夏はもっと時給いいとこ移るって」 「はあ、贅沢だな」 そう恨めしそうに吐き出した溜め息が、その人の中の優しさに届いたようだ。 「夏休み、うちで合宿する?」 体育館でのさよならの後、練習に暮れる部員に代わり、校門までゲストを見送るのは洋平一人だった。 |
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