鳴かぬなら…… 11

無言で戻った三日ぶりのアパートへ、玄関を入ってすぐ覗く四畳半に懐かしさを抱く間もなく、神は豹変した。
「神さん、だから痛いって」
またも強引に腕を引かれ、連れていかれたのは六畳の寝室だ。入室すら拒まれていたそこのマットレスの上だった。電気も点けずカーテンも閉めず、そこに無言で押し倒され、透かさず迫り来るその人には戸惑うばかりだった。上から両腕を押さえつけ、息荒く圧し掛かるその人にどうしたの? も言えないほど、切ない気持ちでいっぱいだった。
「洋平、好きだよ……」
まるで耳を疑う台詞は目の前の男から。生温かな風の吹き込む暗がりに、月明かりの淡く象るその端正な顔立ち。黒く凛とした瞳に吸い込まれるよう、ゆっくりと視界が閉ざされ、柔らかな唇が重なってくる。なぞるだけのぎこちないキスにこじ開けられた隙間から、舌先が滑り込んでくる。
まだ何も強請っていないというのに、告白とキスのセットにうなじを支える優しい手付き。一体何がどうしたのか、急な彼の愛情にはいよいよ応えられず、洋平は仰向けに寝そべったまま、不慣れな口内の蠢きを後から追っていた。それでいいと言わんばかりに、全てはその人により与えられるから。
上に重なる身体の重みと唇の弾力を感じ、啄むキスに倣えばいい。下唇を二、三度吸う。その甘やかな水音で下半身が目を覚まし、先端が彼の腹筋辺りに訴えかければあとは望み通り、興奮に駆られた今日の彼ならすぐにも触れてくれるだろうと、そう期待していた。
しかし間もなく慌てて離れた唇に、それは裏切られてしまった。今、ゲホゲホと洋平の眼前でむせった彼は直ちに上体を起こし、「やっぱり苦い」と顔を背けて咳き込む。洋平はあれから口を濯いでいなかった。
「神さんうがいしてきなよ。俺も行くから」
「いいよ。今日はいいよ」
頑なに拒む彼だが、ヤニだらけのこの苦味を嫌っているのは夜目にも明らかだ。洋平は今度という今度こそ禁煙すべきなのだ。
「ゴメン。俺今度こそやめっから」
「って言ったって、どうせまた吸うんだろ? 別に構わないよ。身体に悪いのわかってて吸うなんて、俺には理解できないだけ」
そう、また暗に馬鹿を貶める彼には不貞腐れてしまう。だがすぐ奪われたキスに口答えの余地はなく、あの日のミントガムとはまた違う、胸がキュンとするほどの甘さに不満が溶けた。このズルい唇にはきっと一生逆らえないのだろう。洋平の中のニコチンが一気に抜けてゆく感覚……着実に浄化される。
同時に作業着のチャックが開けられ、中のティーシャツが下から捲られた。ついはっとした洋平は神の様子を窺う……というのも、昨日銭湯には行ったものの、彼の目下に晒されたこの蒸れた身体には一応一日働いた臭いがある。煙草にガソリン、汗に加え、先程の火薬の臭いも染み付いているだろう。どんなに落ちこぼれようとヤニに穢れようと不潔にはなりたくない、洋平の譲れないものの一つだった。
「神さんやっぱシャワーだけ、いい?」
「今更いいよそんなの」
「また咳き込まれても俺ショックなんだけど」
「じゃあ、その間に俺が冷めちゃっても構わない?」
構わない、とはとても言えず、起き上がろうとした上体を再び寝かせた。
シャワーも待てないという神の今日の行動は全て気まぐれ。スタンドへ迎えに来たのもそう、衝動であり焦燥であり、つまりその人の本心……いや、本人すら自覚のない深層心理とやらかもしれない。それは常に内面の見えない彼に対し、洋平が一番望むものだった。
今目の前にある貴重な彼の感情……敵意に満ちた試合ですらなかなか表に出てこないそれが、今は自分に向けられ、この火照った身体を欲している。だから今は全てを信じ、黙って受け入れるべきなのだ。大人しく寝そべる洋平の、ベタついた髪を撫でる彼はこうも言ってくれるのだから……。
「別に男の汗には慣れてるし、それに……」
そっと下りていった彼の頭が洋平の胸元に唇を落とし、そこに舌を這わせつつ呟いた。
「うん、ちょっとエッチな匂いする……」
洋平も、その人の匂いが大好きだ。体臭の相性というのは遺伝子レベルでの相性でもあるという。胸元に片頬を置き、直に心音を聞くその姿を愛おしく感じている。
洋平はふと手を伸ばすと、彼がいつも手を組んでいるその後頭部に初めて触れた。いつもは決して届かない、また伸び始めた髪を襟足から撫でたところ、ぴっとり貼りつく左胸に彼の問いかけが響いてきた。
「ねえ、まだ……?」
「まだ……って…………」
そんなもの、答えは疾うに出てるというのに。彼の片頬に響く程のトクトクと鳴り響くこの鼓動。愛情と欲情の狭間にあるこの音が嫌でもはっきり伝わっているはずだ。しかし彼が欲しいのは洋平の雌伏。即ち「好き」の一言だから、洋平はまだ口を閉ざす。
神はおもしろくない、と言った具合に嘆息を漏らすと、そこでとうとう本気を出したか、自らのジャージも下着も脱ぎ捨て、すでに乱れた洋平の作業着も手荒に剥いできた。
「可愛くないって言ってるの、わからない?」
パンチより痛い一言を耳に直接吹き込まれる。横に放られた作業着の上にジャージが被さり、仲良く絡まった二つの袖が近い未来を描いていた。ベタついた素肌を滑る片手が下から胸元へと滑り、その頂点へ行き着くと、先端を強く擦り上げてきた。
「神さん、それダメ……」
ビクビクと跳ねる洋平の身体が長い四肢に封じられる。密着し汗が擦れ、割り込んだ長い脚が洋平の身体を開き、二人の間でソレは重なる。触れた先端がビクッと反応すれば、上から凭れかかる彼のモノも次第に熱を増していった。忽ち形を成すその硬さを誰より身近に感じていた。その先端より垂れ落ちた露を裏筋に浴び、自然と擦り合った挙句互いの根元まで濡らし合った。
「あッ……ハァ……ぁ……」
これだけ両脚が開かれると快感の逃し方がわからず、吐息は苦悶と快楽に迷う。再び愛し合った唇も洋平の胸元に下り、右の胸にキスが落とされた。きゅうと尖ったその先端に熱い舌先が触れ、「ぁ……」と声が漏れると同時に下半身にも指が触れる。男の勝手を知る右手でしっかりと握られ、先から根元まで愛でてくる。時に彼自身の熱も押し付けられ、右胸の突起も舌で弾かれ、暑さと迫り来る快感を前にプライドは溶けるばかりだった。
「もうダメ……イかして……」
すんなりと落ちた身体は正直で、彼の愛撫にこのまま解き放たれることを、顔を横に伏せて強請った。
今自身が感じるこの手付きはこれまで洋平が与えたもので、自らを慰めるには最も有効なため、今にも飛び出しそう、苦しい、辛い。雁首を締められる度に自ずと腰が浮いてしまう。
「イキたいの?」
「頼むから」
掲げた片腕に顔を隠し、煩わしく不機嫌に強請る。…………それが間違いだった。無言で離れていった愛撫に失望、それでも冷めない身体を恥じる。ハァ、と吐かれた溜息にすら善がる性感帯は、洋平も知らぬ間に調教されていたようだ。
「シッポを振って喜べとは言わないけど、せっかく気乗りしてるのにその態度はないよね」
彼の呆れた呟きを寧ろ望んだような結果には洋平も落胆していた。が、下の方で暗闇に紛れ、今ゴソゴソと動く彼はまだ、冷めたわけではなかったようだ。
「一筋縄じゃいかない男、とでも思われたいの?」
続く嫌味を聞き流しながら、先端から浴びた水分に思わず声も跳ね上がる。
「へっ!? ぁ……な…………」
何? と続く二の句を封じるよう、再び裏筋を這う彼の手付き。ヌルヌルと生温いそれを塗りつけ、そのまま下の方へ滑り、もう片手で洋平の片脚を押し上げた。大きく開かれた中心は惜しげなく天井を仰ぎ、すでに受け入れることを知ったそこは初めての瑞々しさに続く次の感触を待っていた。しかし一体、何故だろう……?
「神さん、なんでこんなの持ってんの?」
「なんでって、買ったから」
「なんで買ったの?」
「そんなの一人でする以外に使い道ある?」
至って真顔で答える彼に、洋平は思わず噴き出した。知り得た一人者の性生活を哀れむというよりちょっとした安心、平然と買い物をする長身の彼の姿もまた可笑しい。しかしこの場面で笑い声を上げては、当然ムスッとされてしまう。入口の辺りを解していた指先が徐々に中を貫いてきた。
「ハッ、……ッグ」
二週間前の傷は疾うに消えていて、彼の自慰も手伝ったそれがすんなり挿入を促すため、感じるのは妙な温さと細長い指の往来だ。
「ン……ク……」
このなんとも言えない感覚を快楽へと繋ぐのは紛うことなくこの気持ち。宙を藻掻く手足の指もきっとそれを受け入れようと、続く二本目、三本目の圧迫から逃れる準備をしている。
痛くないかと、ここにきて急に優しくなる、いや、根は優しい彼に耳元で囁かれ、洋平は喘ぐ吐息に戸惑いながら黙って頷いた。グリグリと押し広げる指にその気遣いは感じないが、そこがいいとすら感じるのは正しくイイところを突いてくるから。上ずる声を窺いながら、指の腹を上にして奥の前立腺を攻めてくる。そしてなんの一言もなく、引き抜いた指の替わりにいきなり太い先端を押し込んでくるから、あまりに素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ぬぁッ! ちょっと、いきなり……!?」
開かれていた脚が飛び跳ねるのを見計らったように、じっとしろとばかりに上から押し返す筋力はジム通いの賜物だ。視界を阻むその胸筋は当然ながら洋平より引き締まり、余分な肉などどこにもない。なんてかっこいい男だと、改めて惚れ直している間に更に中へ押し込まれ、視界は流れ、力むことも敵わない感覚に五感が歪んだ。
ずっと握り締めていた拳がふわっと開く。自ら受け入れた時と違い、計らずも刻まれる律動にまたも妙な声で鳴いていた。
「ハァぁ……ぁ……あッ…………」
憚ることなく打ち付ける腰が体幹へ直に響き、同じリズムでマットレスが軋み、視界が定まらない。ゆらめく空間は闇にも阻まれ現は夢に溶けゆくが、ここで腰振ることに徹した彼の、実に満足げな顔を見た。
現を取り戻して見据えた先にこめかみから零れる汗、興奮に茹だる小刻みな吐息、ニヤリ持ち上がった右の口角にいよいよ奥の顔が覗く。
「洋平を鳴かせるのは俺だけ……なんだろこの優越感。ハァ、悪くないよ」
水戸洋平という不良をまるで犬のように可愛がること。対等でなく下に置き、ワンと鳴かせることで彼は悦びを知るようだ。洋平とはまるで逆……つまり、相思相愛は叶ってしまった。しかしだからといって、まだ鳴くことは出来ない。好きだと言えない、言ってはいけない。張り詰めた想いは喉元まで出かけているのに、きっと一生飛び出すことはないのだろう。ここまで綺麗で純粋な想いは大切にとっておきたいという、ヤニに穢されずにいた最後の純情がまだ洋平の中に残っていた。言ったらこの不思議な魔法は溶けてしまうと、それは天変地異にも値する今日の神の告白が新たに呪文をかけたのだ。だから頑なに歯を食い縛っているのに、こうもかまをかけてくる男がいる。禁忌の呪文を解こうとして、甘い呪文を唱えてくる。
「洋平、好きだよ……」
背中にまわされた手付きから、肩甲骨を愛でる指先からもしっとりとした愛情を送り、お腹いっぱいになるくらい欲しい言葉を囁いてくる。
「今、洋平を本気で抱いてるって言ったらどうする?……ねえ、気持ちい? ここ、イイ? ……ねえ、好き?」
中の感触を愉しみながらゆっくりと腰を引き、またゆっくりと押し込みながら、耳まで痺れさせる甘い言葉の数々。内側をせり上げる裏の性感にもつい本気の善がり声を漏らすが、熱く渇く忙しい呼吸に返事を濁せば彼は口を尖らせてしまった。
「もう、嫌いになっちゃうよ」
洋平はあまりの愛おしさに気が狂い、好きに代わってうわ言のようにその名を呼び続けた。
「ぁ……神さん、神さ……ハァ、神さ……」
すると遂に律動が止み、とどめの一言には脈拍も止んだようだ。
「洋平、俺と付き合ってよ」
ストレートな告白。続く長めのディープキス。身体は漸く解放されたにも関わらず、たった今激しい余韻で果ててしまった。散々裏側を刺激された所為で幾度と昂ぶった性感をその人の腹筋に浴びせていた。
気怠さと情けなさと満足感……まだ覚束ない深呼吸と共に、洋平は片腕で顔を覆う。恥辱に怯え視線を逃れたつもりが、その黒眼に捕まっていた。
「ずっとこうされかったんだろ?」
腕を引き剥がされ、真上から見下ろすその人に何もかも、この薄闇の中ですら見透かされてしまう。しかし呼吸を整える間が与えられれば洋平にも理性が戻り、素直に否定することができた。
「違う。俺に神さんのケツ奪える自信ないの」
とても畏れ多いことだと、不良である身を弁えた尤もな理由だが、それも真っ向から否定された。
「それはただの言い訳だよね。洋平は俺にされるのが好きなんだろ? ここも、こういうこともこういうことも……」
身をもって知れとばかりに、達したばかりのソレを握られ、尖ったままの乳首をこねられ、感じてしまう。改めて組み敷かれた身体もあっさりと貫かれ、洋平はハァハァ鳴いた。
「ッ……ハァ、も……ダメ………ぁ……イィ………」
再び熱を増したその先端を濡らし、はしたなく乱れる姿はまるで盛りのついた犬だ。その人の前ではただの犬畜生に成り下がる。愛嬌もなければ可愛くない、躾のなっていないこの野良犬を飼ってくれる人間などそういないというのに、馬鹿の扱いに手慣れた彼はこうも見事に手懐けてしまう。
「犬ってのはさ、忠誠を誓った人間から徹底的に支配されることを望むんだ。お手、お座りに始まり食事の量や時間まで。でもそれが高じると、飼い主を傷つける者には見境なく牙を剥く。そんな悪い癖を持った犬もいるから、俺が躾けてやる必要があるよね」
だから今は噛み付くことを忘れなさいと、見えない鎖を握った男がにっこりと笑っていた。その笑顔に服従した。首輪なくして受け入れた雌伏が尊い至福と交わっていった。





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