鳴かぬなら…… 12


あれから三日も経てばもう夏休みの終わる二日前、そろそろこの街ともお別れだ。一人荷物を纏めた洋平は肩掛けを手に、駅前のデパートで菓子折りを三つ購入後、私服でバイト先へと向かった。
「ちわーす、お疲れっす」
今日は日勤で働く倉田さんに会釈、「ありがとうございました」と車を見送った彼に歩み寄り、洋平はこっそり手渡した。
「水戸くん、何これ?」
「この間のこと、店長に言ってないっしょ?」
「うんまあ……」
所謂口止め料を手渡し、事務室にいる店長にもそれを差し出した。お世話になりましたと洗濯した制服を返し、深々と頭を下げる。頭を上げればそこに見慣れた笑い皺があり、少しばかり後ろ髪を引かれた。
「一ヶ月間お疲れ様。よかったら、またうちで働いてね。控室の煙草はあのまま置いておくから」
「いやあれは……」
買い置きのし過ぎで余った数箱。禁煙三日目の身としては捨ててくれと言いたいところだが、色付けされた給料を受け取ったばかりにそんなことは言えない。
「来年……いや、冬休みも来れたらまたこき使って下さい」
今回ここに来たのも全てあの人次第だから、もうここで働くことはないのかもしれない。それも少し寂しいから、この見えない鎖を辿ることでこれからあの人の許へ向かおうと思う。帰る前にもう一つ、彼に返すべき物があるから。
「神さん、お疲れ」
彼がジムのバイトへ向かう前に、学校を終える三時過ぎを見計らい、駅で待っていると、それはいつもの軽快なリズムをもって駆け寄ってきた。
「あれ? 洋平もう帰るの?」
「ええ。神さんこれからジムっしょ?」
「そうだけど、一回アパートに帰るつもりだったから」
じゃあどうしよう、と悩むより先に、洋平は一緒に帰ることを申し出た。最後の時間を惜しんでくれるならそうするまで、彼の背中を追わずともすっかり覚えてしまった路線図を頭に、彼の前を歩いてみた。先週の事件が嫌でも頭を過るこの電車に乗り、アパートの最寄り駅へ、日が傾こうとまだまだ日射の激しい道のりを経て、二人過ごしたアパートの二階に辿り着く。後ろの彼が階段を上りきる前に洋平が鍵を開ける。
「……って、鍵どこやったっけ……」
ジーンズの尻のポケット、肩掛けのポケットを叩いてもその感触はなく、下ろして開けた肩掛けの奥を覗き込む。その間に彼が鍵を開けていた。
「ホントよく失くすよね」
最後の最後まで呆れられ、顧みたのはまた去年の夏、鍵を失くし部屋に入れずにいた洋平を誘ってくれたあの夜のこと。あの時鍵を失くしていなければ洋平は今、ここに居ないのかもしれない。
「お、あったあった」
鞄の奥に鍵を見つけ出し、洋平も部屋の中へ。
「神さんこれ」
お世話になりましたの意を込め、合鍵と菓子折りを差し出した。
しかし同様に鞄をガサゴソと探った彼はそれを受け取ろうとせず、洋平に別の物を差し出してくる。
「失くしやすいならこれでも付けておけばいいよ」
「へ……?」
なんでまた……と神から受け取ったのは何故かキ○ィちゃんのキーホルダーだ。彼の手にはもう一つ同じ物があった。
「神さんこれどうしたの?」
「あの女の子からだよ。今朝電車でばったり会って、あの日はありがとうって」
先週の事件の被害者である女児から二人にと受け取った物らしい。間違っても少女趣味に走ったわけではないその人は、鞄からペットボトルを取り出し水分補給。ふぅ、と腰を下ろしながら今朝のやり取りを語った。
「俺さ、ついうっかりして、あの子に大丈夫? って訊いちゃったんだ。大丈夫なわけないのにね。まだあんなに小さいのにさ……。でも、事件のショックより助けてくれる人が二人もいた、それが嬉しかったって、言ってくれたんだ。強いよね、女の子って」
伏し目がちに女児を思うその人の優しさと、そして当時真っ先に行動に出た勇気には誰より男を感じている。しかし、彼の持ち味はそれだけではない。
「洋平みたいなヤツが狙われればこの世は平和なのにね」
「どういう意味?」
「そのままだよ。か弱い女の子が被害の対象になるより、腕っ節のいい男がその対象になれば、すぐ返り討ちに遭うだろ?」
先程の憂いはどこへ行ったか、嬉々として持論を述べる彼には色々と疑いたくなる。そして暗に洋平を咎めつつ、口答えを封じてくるのもこの人のやり方だ。
「でも……世の中には意図せず変態に導かれた人間もいるから、その責任を負うって意味では、洋平は返り討ちなんて出来ないよね」
そう言って、痴漢さながらティーシャツの内に滑り込んでくる右手。下からの深い口づけと共に、真昼間からそんなところを、知り得た洋平の性感帯を捕らえてくるからもう惚れ抜くばかりだった。立っていることも覚束ず、膝が崩れたところをしかと支えられ身も心も傾く。急速に身体が火照り、遠く意識の溺れた目で淡く甘く見つめてしまう。
ここまではしたない姿を曝け出すその真意は服従だ。これから彼のよき愛犬となるため厳しく叱られ、たくさん可愛がってもらう必要がある。だからまた……
「神さん、今度いつ?」
「ちゃんと鍵渡しただろ?」
ああ……と気もそぞろな返事で握り締めた右手にはまたもその感触がない。何時の間に落としたか、見下ろして見つけたそれを、畳の上のそれを先に拾い上げた彼には早速叱られてしまった。
「そんなに要らないならあげないよ?」
目の前に摘まみ上げられたそれを取り返そうと手を伸ばと、彼は突然立ち上がる。ひょいと持ち上げられたその位置に当然届くはずもなく、まるで小学生かと呆れるばかりだが、このまま諦めようものならきっと本当に返してくれないのだろう。まずは鳴くまで放っておくのがこの人のやり方だ。
「神さん、お願い」
洋平は落胆のあまり再び両膝を着くと、向かい合った目の前の彼の腰にひしと抱き付いた。そして、ジャージのゴムに手を掛けるとそれを下にずらした。
お願いだからと切実に、汗に蒸れたボクサーパンツも下ろし、萎え切ったソレを両手に掬う。先端から口に含んでやる。
「ねえ、俺これからジム行くんだけど……」
困り果てた声とは裏腹に、口内で膨れ上がるソレはみるみる熱を増していった。吸い上げれば尚膨張し、先端に少しの塩分が滲む。顔も歪んで辛そうだから、すぐ楽にしてあげる。日中に相応しくない音を立て、もっと激しくしてあげる。だからお願い、返して……。
「神さんお願い」
張り詰める想いを込めた口内にそれは程なく与えられた。喉奥に噴射された苦味が口いっぱいに広がり、洋平は一思いに飲み干す。あとは縮みゆくだけのその表面に少しも残らぬよう、丁寧に舌で舐め回してからそっと手放してやる。
「まったく、こんなに口汚して」
鍵を右手に持ったままの彼は萎んだモノを仕舞いつつ、テーブルの上のティッシュを一枚取り、洋平の口を拭った。そして洋平の片腕を引っ張ることでその身体を自らに引き寄せ、尻餅を着いた背後から深く抱き締めてきた。滑り降りた片手が洋平のベルトを外し、中に忍び込んできた
「ホント好きだよね」
うなじの声をくすぐったく感じてる間にトランクスから取り出されたソレを、すでに張り詰めたソレを扱きながら改めて約束が迫られた。
「いい? もうホントに暴力はダメ。相手にどれだけ非があろうと復讐はダメ。そのためにセックス出来ない俺を思えば、容易いもんだろ?」
一度は破った約束を、息が詰まりそうなほど裏筋を擦られながら迫られてはとても拒むことなど出来ない。
「ん……うん……」
寧ろ苦しいくらいに顎を持ち上げ、首を縦に振ることも出来ずにいると、「これ、持ってていいから」ソレを握る逆の手から漸く鍵が返された。
洋平は受け取ったその手を握り締め、「わかり……ました」水戸洋平から腕力を奪うこの約束を受け入れた。
すると手付きは更に激しさを増し、程なく吐き出したそれが掌を満遍なく汚す。
「すごい量だね」
褒め言葉を放つ彼にまた会えるその日まで、またここで抱き合えるその時まで暫くの別れ。予定をだいぶ押し、日が落ちる頃に二人アパートを出た。

やがて駅のホームで別れ、一人になった洋平はポケットのそれを握り締める。不似合いなキーホルダーの付いた一本に封じられた約束を。ついでに禁煙も出来たなら彼はもっと褒めてくれるかもしれない。今度こそ寝床を共にしてくれるかもしれない。いや、別に禁煙せず怒られるのもいいと思うのは、まだまだ甘えたい年頃だから。だから、また今度。たった一ヶ月過ごした街並みとの別れを惜しんだ。
ここに来た本来の目的は免許資金であったものの、より大事なものを得たこの街がもう恋しくある。車窓に流れるその景色が薄暗く消えかかろうと、輝き続ける鮮やかなネオンはその人の瞳に似て、希望に満ちて見えるから不思議だ。
少しの長旅を経て電車を降り、地元の潮風に触れてもまだ、夢心地だった。
「おいよーへー!」
駅を出たところで声を掛けられても上の空。後ろからグイと肩を掴まれたことで初めて癪に触れ、ポケットの中で拳を握りつつ洋平は振り返った……が、合鍵に触れたことで慌てて拳を緩めた。
同時に気も緩んだのは、夜目によく知る男を見て、少しばかりつむじを曲げたその巨体を見上げてみて。
「なんだ花道か。こんな時間まで何してんだ?」
「何って部活に決まってんだろ? よーへーこそ何してたんだよ、さっきから声かけてんのに無視しやがって、ずっと連絡も取れねぇし」
共に帰宅の途に就きながらブツクサと不満を零す隣の友。このまま洋平のアパートまで着いてきそうな彼を黙らせるのはそう……これしかなかった。
「そうだ花道、土産あるぞ」
「土産?」
「ああ、ずっと心待ちにしてたんだろ?」
肩掛けの奥から取り出したそれを手渡す。雑誌に挟んでいただけなので少し折れ曲がってしまったが、本人はとても喜んでくれた。
「おお! 撮るの上手いなよーへー。いやモデルがいいからか。これで国体も頑張れる!」
そんな彼にはもう一つ、大事な伝言を預かっている。
「それと、選抜まで引退しねぇように言え、ぜってぇ勝ち上がって来い! って流川から」
「は? 流川? えらそーに、アイツもう転校したんじゃねぇのか?」
「前に偶々会ったんだよ」
「まぁそれはいい。それよりこの晴子さん、イカす! これも、おおこの横顔も!」
そう次々巡りゆく写真から、大切なものを取り除くことを洋平はすっかり忘れていた。
「まただ……また……! なんで神がここに居る! しかもナニ煙草なんか吸ってやがる!!」
わなわなと震える手にそれを持ち、まだ洋平の近くにいる男を写真越しに睨め付けていた。
思えば目の前でキスをしたのだからもう隠すも何もないわけだが、それで軽蔑されるのも少し悲しかったりする。
「言っとくが、それはやらねーよ」
「いらんわンなもん!!」
取り返す前に突き返されたその人の写真。しっかり晴子の写真は懐にしまい、肩を怒らせた花道はズンズンと先に帰っていった。
「こりゃ妬いてんのか?」
まさか……と鼻で笑いながら、辿り着いた久々のアパート前でまた鍵を探した。ポケットにあるキーホルダー付きでは当然開くはずがなく、それでも鞄にないことには去年と同様、夜風に吹かれながら一人帰りを待ち侘びた。ドアを背にしゃがみ込み、うっかり鞄から煙草を取り出そうとした右手を止め、深い頬杖に変えた。夜は閑静な生活を好む、ネオンも疎らな生活圏を見つめながら、同じ血を分けた同じ落ちこぼれをぼんやりと待ち続けた。
やがて、ムスッと鼻息荒く帰ってきた弟は、額に頬に素手に背中に汚れと擦り傷を付けてきた。
「おい、何してきたんだ?」
「洋平こそここで何してんだ?」
鍵を失くしたという兄に替わり弟がドアを開ける。すっかり足の踏み場をなくした中で荷を下ろし腰を下ろし、そして黙って浴室へ向かう弟を止め、問い質した。
「で、どこのどいつとやってきた?」
「溝口第二の奴らだよ、また調子に乗ってきてっから一発かましてやったんだ」
「ハァ、溝口ね」
地元に帰った途端に触れる血生臭い話題。単純に、プライド高く喧嘩っ早いヤツがいなければ洋平もその腕を振るうことはないのだと、それは地元を離れる度に思う。それもそれでつまらないわけだが、自らを誇示したいがために機会を仕組んででも襲う、その動機とやり方には共感を抱けなくなっていた。遅まきながら大人になったのだろう。あの人のよき愛犬に一歩近付いたのかもしれない。だからまた弟の身代わりになることもゴメンだと、洋平は彼の言葉を口にした。
「なあ純平、お前もそろそろ引けよな。どこぞの阿保がこの辺闊歩してようが、触れなきゃそれまでだろ? そんなヤツとっちめたってまた同じことの繰り返しだ。無意味で不毛。徒労に終わる。あの花道ですら結構無理して抑えてんだ。若さ持て余してんのもわかるが、そろそろわかったらどうだ?」
……そう、自らに言い聞かせるために言ったつもりだが、弟もそれとなくわかっていたようだ。いや、もう気付いていい年だった。
「まあな、次やる時あっちの人数増えてるだけだし、人ぶん殴んなきゃ発散できねぇストレスもそうねぇわけだし。受験勉強でもしてんなら別だが、そんなのやるわきゃねぇ。ただの暇つぶしでしかねぇんだろーな」
ストレス発散にも満たないただの暇潰し、洋平の欲しい言葉を同じ弟の声から聞くことで自らを諭した。そしてもう一つ。
「それと純平、今日からこの部屋禁煙な」
「は?」
「吸ったら千円、吸殻も一個千円」
「は? なんだ洋平、また女出来たのか? ふざけんなこの、誰が守るか!」
そう殴りかかってきた弟へ、その脇腹には先に拳が飛び出てしまい、ボディブローが決まってしまった。
「あ、いけね……」
ここに厳しい校則はないのに、つい咎められることに怯え振り返ったのはあの肩掛けだ。中にある大切な笑顔が胸の中で冷たくなる、その効果は絶大だ。また一緒に寝てくれないなんて二度とゴメンだから、きっともうしない。
「純平、わりぃ。一発殴れ」
「ああそうしてやる……」
クソ、と痛々しく脇腹を抱え、拳を振りかざす弟の前で洋平は正面を向いた。しかしそれが飛び込んでくることはなく、一変してにっこり笑った弟はその手を下に下ろしていた。
「無意味で不毛、徒労に終わる、ホントその通りだよな」
兄と同じ顔で見せる屈託のない笑顔。兄と違って可愛気のあるその素直さ、洋平は少し妬いた。早くも兄の言うことを聞く弟は兄より大人なのかもしれない……と、関心したところでたった今顔に拳が飛んで来た。人間とはそう簡単には変われないものだ。
「テメェ……」
しかしある人との出会いによって洋平が変わったのも事実だ。とても大きな特定の存在。それは、きっと誰にとっても必要なもので、知らぬ間に与えられているのかもしれない。
今、突如玄関のドアが開いた。
「よぉ純平、暇だから来てやったぞ」
「は? 惺!? なんでこんな時間に来んだよ! また親に怒られっぞ?」
「おいよーへー、さっきは悪かった。まずコーラ飲んで落ち着こうぜ。あとゲームやらせろ」
「……って、なんで花道まで来んだよ……」
一人二人とやって来て、更にぞろぞろと加わる桜木軍団。洋平の周りは今日も賑やかで、早速『禁煙』を書いた貼り紙には卑猥な落書きやくだらない寄せ書きが増える。未来のバスケット選手のサインが『禁煙』の字を塗り潰してしまい、最早ただの落書きでしかなかった。
しかしそれは夏が終わり、あの日の陽炎が消えたとして、秋が来て冬が来てやがて春がやってきて、皆がばらばらになったとしても、ずっと消えることはないのだろう。手にした鍵を使うことでこの先いくら変わろうと、洋平が泣こうと笑おうと、きっとずっと変わらないのだ。
「そうだお前ら、ただいま」
ここは逃げる場所ではなく、たとえ鍵を失くしたとしてもこうして帰ってこれる場所。変わらないでいてくれる人が、今日も洋平を待っていてくれた。




― to be continued. ―


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