メロスの犬 2

優勝は出来なかったが、三位決定戦でも負けてしまったが、それでも監督は笑ってくれた。漸く海南キャプテンの荷を降ろした神はまた常勝の歴史を一から積み上げるよう、その襷を清田に継いだ。そして合格も決まったという、相次ぐ朗報のあとで春はやって来た。厳しい寒さもだいぶ薄らぎ、少しずつ風の優しくなった春休み。…………別れの春だった。
「洋平の言った通りだったよ」
「なにが?」
「誰も放っとかないって、言ってくれただろ?」
待ち合わせた最寄り駅から、その人の家まで向かう穏やかな昼下がり。無駄に記憶している広い歩道を並んで行けば、縮まらない身長差が歩幅によって明らかに、ポケットに両手を突っ込んだまま二、三歩の早足で追い付いてみる。
そよめく春風を誰より高く纏うその人を、太陽より眩い小顔を今日も洋平は下から見上げ、人知れず懸想していた。
こうして直接会って話すのは湘北でのキス以来。季節は変わり
、薄地のコートを羽織る神は少し髪を切っていた。あれから着実に夢を掴み、もうすぐ行ってしまう彼の背が更に伸びたように感じた。
「牧さんがさ、大学にサークルしかないのを知って、元翔陽バスケ部で組んだチームを紹介してくれたんだ。だから毎週土日はこっち戻って、藤真さんの下で練習するよ」
そうバスケのことを語る彼はいつも決まって、真っ直ぐ前だけを見つめている。街路樹の導く進行方向にすら己の未来を見据える、その瞳に無理にでも映り込むならそう、あの人並みの身長が要るのかもしれない。
「その人なら選抜予選で見ましたよ。あのデカイ人、花形さんと一緒だった」
「花形さんか。あの弟には苦戦したなぁ。となると、来年のキャプテンはその花形かな? うちは清田で……湘北は?」
「そりゃあ勿論……――――」
するとその時だった。突如前方から全速力で走ってくる大型犬と、その力に引き摺られながらも固くチェーンを握り、必死に追い駆ける男が程なく目の前に飛び出てきた。洋平と神は同時に足を止め、コートの外でも騒がしいその飼い主を見やった。
「……って、信長?」
「じ、じじじじ神さん!?」
互いに顔を合わせるなり、清田が慌てて「ストップ! ストーップ!」五メートル手前で仰々しい急ブレーキがかけられ、犬は一歩手前でお座り。その後ろにゼェゼェと呼吸を整える、試合以上に体力を消耗する次期海南キャプテンがいた。
「神さん、どうも……ハァーしんど……」
しかしそんな飼い主の様態も顧みず、激しく尻尾を振りまくる犬が嬉々と神に飛び掛かってきた。きっと、この中で一番立場の高い人物を本能で察したのだろう。
「ほら神龍、信長の言うことちゃんと聞かなきゃだめだろ?」
大型犬でも届かないほどの高さから優しく窘める神。上から伸ばされるその手に犬は尚満足げで、太い尻尾を振り続ける。
神さん構って! 早く遊んで! ねぇもっと……もっと……――!
そう全身で強請るよう、とても素直で、無邪気で一途で健気な仕草。青年と犬が戯れるだけのただ微笑ましい光景が目の前に広がっていた。
――――いや、違った。はっと息を呑む洋平は今、とても言葉が出ない。立っているのがやっとの衝撃が不意に背中を駆け抜け、忽ち色を失う。疼く胸の痛み、蠢く肺の燻りとほろ苦い唇の乾きを知った。洋平を蝕むその全ての真理に触れてしまったことに、深い後悔と、激しい落胆の渦に呑み込まれていた。
「おい神龍、神さんから離れろ!」
ギリギリとチェーンを引く清田だが、彼の力では及ばないほど犬はでかく、欲情さながら前脚で神にしがみついたままだ。
当の神は犬を遠ざけるでもなく、また可愛らしい困り顔で犬の頭を撫で、犬ではなくその飼い主を柔らかく諭していた。
「言っただろ信長。犬は立場を弁える動物だって。そこをちゃんと教え込めば逆らう真似はしないんだから、絶対になめられちゃいけないんだよ。育て方次第で忠犬にも番犬にもなる優秀な動物なんだから」
「身分っつったって、こいつの馬鹿さと馬鹿力ときたらあの赤毛猿といい勝負っすよ。名前赤毛猿にすりゃよかった」
そう洋平を横目にぼやく清田は、果たして気付いているだろうか。気兼ねなく愚痴を零すその目は誰をどれだけ慕っているか、甘えているか、如何に手懐けられているか。悟ったばかりの洋平にはわかってしまう。犬にそんな名前を付けるのだから、間違いないのだ。
……などと考え込んでは一人気を逸らしていたところ、何時の間にやら神の足許で大人しく伏せる犬がいた。何事かと隣を見上げれば、それはいつか、万引きした後輩に向けられたあの日と同じ…………普段は決して開かれることのない、上から蔑む鋭利な視線。だから犬もあの後輩同様、クゥン、などと甘えた声を発しては不貞腐れている。神による無言の威圧に屈しているのだ。この人には決して敵わないことをそれこそ本能で察し、洋平と同じ雌伏の心を知ったのだ。
……すでにわかっていた。初めて声を交わした今夏、喧嘩慣れした洋平にまで鳥肌を与えたあの瞬間は今も、煙草より早く取り出せる位置にある。この先もずっと、肺の奥に染み付いては忘れさせてくれないのだろう。
ふと、そこにたった今春一番が吹き込むや否や、いつかの彼は消えてしまった。洋平の隣にいるのはいつも甘い顔をしたお兄さんで、しゃがみ込んではにっこりと利口な犬を撫で回している。
「ほら、頭はいいんだからちゃんと言うこと聞けるんだよ」
「一瞬で躾けるなんてスゲーや神さん! 魅せてくれるぜ!」
にべない鞭を振るったあとの、飴より甘く清らかな笑みが春の晴朗に浮かぶ。犬も後輩も手懐ける上、一人の男を夢中にする、そんな男と洋平は今日、また一夜を共にする。

遅い昼食を共にした清田と別れ、漸く上がり込んだその人の部屋。互いに変態の烙印を押し合って以来のこの空間を、モノクロのチェッカーを懐かしく思う。小洒落た小物もなければあまり生活感もない、それでも清潔感だけは漂う神そのものを映す六畳間だ。窓から差す優しい光が静かな温もりを与えていた。
が、今日はいやに閑散としていた。積み上げられたダンボールはすでに荷物を詰め終えたようで、一年早く卒業式を終えた彼との別れを先に告げる。そんな彼に別れを惜しむ気配はなく、話題は一向に逸れないわけだが。母親と妹の外出により二人きりとなった今、黒ずんだ洋平の肺は早くも疼き出しているというのに、相手がバスケットマンでいる限り無意味な隙は与えられなかった。
「牧さんには優勝してくるって言っちゃったけど、大栄は強いよホント。優勝は結局山王だし。今度牧さんに会ったら何て言うかなぁ。よりによって学校近いんだもんな」
「そうなの?」
それは先日の電話の続きで、メガネくん、もとい木暮により神が導かれた先はなんと、牧とルームシェアするアパートだった。狭い1DKの一室でメガネくんに夕食をご馳走になり、十七年連続インターハイ出場を成した海南元キャプテンに頭を下げてきた。という話をコートを脱ぎながら語ってくれた。
「俺、土下座なんてしちゃったよ」
「そこまですんの? とんだ縦社会だ」
「だって他に詫びようがないし、殴られるのは覚悟してったから」
などというやりとりを軽く受け流す中、逸る洋平の視線が捉えたのは神の腰掛けたベッドだ。まだ布団が敷いてあり、すぐ引っ越すわけではないと察してはとりあえずの一息、隣に腰掛ける。
そこに、すっと伸びてきた指先が今眼前にあった。洋平は不覚にもドキリ、邪な方向に期待するが、神は前髪に付いた埃を摘み取ってくれただけだ。不意に唇を奪われるでもなく、そのまま押し倒されるわけでもなく、一人肩透かしを食らっては溜息も出なかった。
「前髪下ろしてたら純平くんと見分けつかないでしょ?」
妹が怖がるといけないからと洋平は今日も前髪を下ろしてきた。普段は全開の額に垂れ落ちた髪を丁度疎ましく思っていたところだ。しかし今はそんなことより、裏切られたときめきを返してほしい気持ちでいっぱいだった。
「ねぇ神さん……」
昂るばかりの情欲を下に、摘んだ埃にふぅと息を吹きかける彼のその手首を掴んでは、そろそろと引き寄せた。
長い別れを惜しむための折角の二人きりの時間、ずるずると神のペースに引き込まれるわけにはいかない。少し強引なくらいじゃないとこの人はずっとこのままなのだ。だから、この上なく顎を持ち上げて迫るキスは図々しい。触れればしっとり柔らかい。焦らすだけ焦らした彼の下唇を感じた途端、肺はあっさり満たされていった。
黒いタートルネックのニットを着たその人の腕を更に洋平の背中へと引き寄せ、その細い身を捩らせ、胸の中のベストポジションをこっそり死守した。これでも今日の犬より上手く甘えたつもりだ。初めは戸惑っていた唇も徐々に大人しく、洋平のキスに倣い甘く蠢いていた。
だが離れて間もなく毒を吐くそれは、口内に残る苦味に気付いてしまったようだ。確信めいた口調でニヤリと言ってくれた。
「洋平禁煙は?」
「全然。俺神さんいねぇと禁煙出来ないの」
「じゃあこの先どうすんの?」
「さあ」
未だ禁煙出来ない馬鹿を見下してくれるが、禁煙と言いつつ今日も付き合ってくれる彼こそ、あの約束を守っているのか。期限はあと数日。洋平の足の完治までだが、出会いと別れの盛んなこの時期、卒業式のあと近くの女子高生に呼び出しを受け……なんて展開があってもおかしくないわけだ。
「そういう神さんは約束守ってんの?」
「約束? ああ、守るも何も、結局高校三年間何にもなかったよ。惨めだよね、男子校だから仕方ないのかな」
「でも大学は共学っしょ?」
「まあね」
「じゃあすぐにでも女寄ってくっから、安心しな」
……それならよかった。洋平は思わずニヤニヤしながら、律儀な年上の童貞を手際良くベッドに押し倒した。腰に跨り両膝を着き、下に寝そべる彼のベルトを外し取り、チャックを下ろすと透かさず捕まえる。ボクサーの生地越しに寝そべるそれを形に倣って握り、ムクムクと主張が感じられたところで窮屈そうなジーンズから解放してやる。紺の生地に透ける先端がやや上に傾いていた。そこまでをじっとりと舐め回していた視線を、一度彼の顔に放り、そこに微かな期待を乗せた。結果は、またしても裏切られてしまった。
恥じらいのない涼しい顔は次の展開を待っているだけ。されるがまま両手を頭の後ろに組み、一人ことを進める洋平をその黒眼に映している。じっと洋平の真意を探るような、軽く馬鹿にしているような、どうとでも汲めるその瞳に洋平は次の注文を伺った。
「最近のオカズは?」
「うーん……懇切丁寧ご奉仕系!」
「了解」
快諾してすぐ、早速剥き出しにしたそれを唇で細やかに愛でる。下から先端までを数回のキスで繋ぎ、すっかり熱を発した裏筋に吸い付き、片手で下の袋を弄ぶ。ン……という喉奥の声を頭上に聞き、洋平の先端も濡れた。すでに膨れた自身のそれを左手で慰めつつ、注文通りの舌遣いで彼の性器を包み込んだ。
「神さん、気持ちい?」
「気持ちいい……けどさ、ホントどこで覚えてくんの?」
そう口元に苦笑を浮かべながら神は上体を起こし、下腹部に突っ伏す男の後頭部に片手を添える。
「まさか、誰かに教わったりしたわけ?」
そう嘲けるような口調で、憐れむように頭を撫でるから、洋平は胸を痛めていた。無意識に奥まで咥え込み、少し浮いた目の前の腰にしがみつき、熱い射精を煽るべく頭を上下に揺らした。土下座より低く何度も頭を下げ、そこに一切の屈辱がないことにプライドを砕かれるが、身も心も火照る今は恍惚感に満たされていた。それが何を意味するのかを今日、洋平は知ったばかりだ。
「ねえちょっと、そろそろ……」
発射寸前を告げる神に、それなら早くと急かす愛撫はとても丁寧且つ激しい。まだ明るい室内に淫らな水音が響き渡り、ムンとした湿気が漂う。だからど離して……と続く声を無視すれば、程なくして忙しく詰め込まれる口内に熱く迸った。一瞬息を止めた後の荒い呼吸を耳に、洋平は口に広がる苦味をそのまま喉に流し込んだ。うっかり口から零れた数滴も、神の内腿に着いたそれも残さず口にした。
「……不味くないの?」
「うーん、煙草よりは」
「まさか、飲んじゃったの?」
「へへ」
袖で口許を拭い、漸く声を発した洋平をまじまじと覗き込む怪訝な瞳。何故そこまで……? とでも言いたげな視線は洋平を色々と疑っているようだ。
「別に、他の誰ともやってなけりゃ病気もないから、安心して?」
「いやそうじゃなくてさ……」





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