メロスの犬 1


試合終了のブザーが鳴り響く館内で、「まっ、しゃーねぇか」と苦笑気味に頭を掻く洋平は、今日もいつもの面子と共に二階最前列から見下ろしていた。
選抜予選準決勝――。陵南と当たった湘北はたった今一点差で敗れ、冬を終えた。その始終を見届けてきた軍団が花道の慰めに向かおうと早速席を立つ。が……
「純平どうした?」
今日彼らについて来た、座ったままの弟に洋平が声を掛けた。
「俺はこの後を見に来たんだ」
「そっか」
視線がコートに貼り付いたままの弟をそこに残し、四人は湘北控え室へ。やがて純平の隣に一人戻ってきた洋平は共に第二試合、海南対翔陽の準決勝を観戦した。お互い別のユニフォームを熱い眼差しで追い掛けた。
純平は、洋平のアパートに引っ越してから友人である惺と暫く離れてしまった。だからその分、センターを継いだその名を誰より熱く連呼する。もちろん洋平も、湘北が敗れた今は海南が湘北にリベンジする機会はなくなったわけだが、その人の目は今日も人一倍輝いているから、他に観戦しない理由はなかった。
古着風のパーカーを着崩した弟と、洒落っ気のない無地のパーカーを纏う兄。同じ顔の兄弟二人、コート上の熱い勇姿に個々の思いを馳せていた。

やがて終了のブザーが鳴り、純平は惺に話があると先に席を立った。洋平も程なく席を立つが、振り返った先にいつかのデカイ恩人を見つけては真っ直ぐ歩み寄る。
彼は今日母校である翔陽の、そしてポジションを継いだ弟の試合を見にきたのだろう。隣には元翔陽のホケツ……ではなくキャプテン兼監督もいた。
「花形さんっすよね?」
「ああ、水戸くんだね。怪我はもう大丈夫?」
「ええ、おかげさんで。ホント世話になりました」
「いやあ、俺も以前助けてもらったから」
それはいつか、流川の見舞いへ向かう花形を洋平が原付に乗せていったこと。その後、今度は怪我をした洋平を見つけた花形が救急車を呼んでくれた。今は面倒な弟を持つ兄同士、弟が世話になっていてはすでに他人でもなかった。
「事件のことは後で弟に聞いて、なんだか弟も絡んでたみたいで、すまなかった。入院も長かったみたいだから見舞いに行こうとしたけど、生憎ね」
入院先を知っていたということは、入院中に頼んだ花道と流川を伝っての礼もちゃんと届いたのだろう。
「いえ、じゃあ俺はこれで。試合惜しかったっすね」

そして翌日の決勝戦、私服の洋平は今日もそこにいた。陵南対海南のたった一つの椅子を賭けた最後の戦いを、洋平にとって神の最後のバスケを見に続けて足を運んだのだ。
そんな海南の相手は今年日本一に輝いた陵南だが、それでも入院中に見せてくれたあの瞳を洋平は信じている。負けた湘北を思うと多少複雑ではあるが、その人もまた、毎日馬鹿みたいに練習してきたのだから。外の寒さも知ることなく、高校生としての集大成をこの日に賭けたのだから。
最後の最後まで拮抗した試合は延長戦まで縺れ込み、運命のブザーが鳴った今、その人の瞳には眩しいライトのみが映り込んでいた。崩された常勝のリベンジを遂げた、両腕を高く掲げた彼に後輩らが我先に飛び付き歓声を上げていた。いつかコンビニで万引きを働いた後輩も紛れるその中で、誇り高い無上の笑みを浮かべ、客席の洋平に気付いては白い歯を零した。厚い人望を見せ付けるように、まるで、射幸心を振り撒くように……。
「おめでと神さん」
そう一人呟く洋平の中でふと蘇った、神が幸せ過ぎると言っていた入院中のこと。洋平の不運な過去に比べたら……と申し訳なさそうに言っていたあの夜だ。しかしそれは彼が努力を惜しまないからであり、決して偶然ではない。輝く笑顔のその裏を洋平は知っている。いつか見せてくれたあの日のこと、その人も覚えているだろうか……。

その晩、初めてかかってきた彼からの電話を受け取ったのは弟だった。「洋平、電話」という無愛想な取り次ぎのあと、受話器越しに朗らかな声を聞いた。
「声もそっくりだから、髪型じゃなきゃ見分けつかないね」
何の屈託もないその声に思わず頬が緩む。あの夏のリベンジを果たせたことで漸く胸を撫で下ろしたのだと、察しては洋平も胸がすく思いだった。
「お疲れさんでした。キャプテン」
「まだまだだよ、これからが大変なんだから。次は全国だし、これまで以上にもっと頑張らなきゃ」
あれだけやってまだ頑張るのかと内心呆れるが、それがその人なのだと自らに言い聞かせて納得する。
「で、足はどう?」
「もう歩ってますよ。本当おかげさんで」
「ならよかった。昨日は純平くんもいたね」
「ああ。あいつあの後湘北に転校したんだ」
その湘北で思い出したか、神が夏の湘北体育館裏のことを言ってきた。
「あ、そういえば桜木は? あの後どうなったの? キスしてたのバレバレだったろ?」
「おかげさんで、俺ゲイ認定」
なんて冗談を言ったところから砕けた交友が花開いた。久々の笑い声をいいことに、洋平は俄然饒舌に、あえて殊勝ぶることで更なる嗤いを誘ったつもりだ。
「だから汚名返上のためにさ、最近は図書室でナンパしてんの」
「図書室って、そんな柄じゃないだろ?」
「何言ってんの。俺は専ら文学少女狙いだ。走れメロス片手に声かけてんだけど、これが誰も口聞いてくんねーの」
受話器の向こうに聞く溜息混じりの、なんの遠慮もない苦笑いは確かな友情があってのもの。それならいくらでも、いつでもいつまでも笑わせてやると、声とは裏腹に無表情で嘆く洋平は近い未来を見つめていた。……そう、彼の卒業は迫っていたのだ。
「それより神さん、進路決まったの? つっても、附属だから海南大か」
「いや。海南大は行かないよ。バスケはまあまあだけど、大卒としては色々と微妙だから、別の大学進むよ」
「へえ。で、どこ行くの?」
「東京」
「っつーと、神さん家出てくの?」
「まあね。通いでもいいけど、少し自立したいし、親もいいって言ってくれたし」
さらりと聞き返したものの、洋平は密かに動揺していた。それは決して距離の問題ではなく、電車で一時間ちょっとを指すわけではなく、その人の中の洋平という存在に尽きる。
落ちこぼれと優等生……奇跡としか言いようのない出会いによるその関係は誰も保証してくれない。その人に必要ないとされれば今すぐにも終わる関係は、友情では繋ぎきれないだろう。きっと、高校卒業を機に絶ってしまう。爽やかで華々しいキャンパスライフを味わえば、そこに洋平の食い入る隙などなくなるはずだ。洋平の予感がよく当たるのは賭けで膨らんだ財布が物語っている。だから、洋平は今、すごく寂しかった。
「洋平寂しい?」
「もう涙止まんねぇや」
「はは、見たいなそれ」
「じゃあ泣かしてください」
「それは、ウィンターカップで優勝するより難しいかな」
いつも消えない、その人の中のバスケに少しの安堵。少しの嫉妬。
「あ、じゃあもうご飯呼んでるから」
一方的に切れた受話器を置くと、洋平は今夜、無駄に長風呂した。

そして翌晩もかかってきた電話。
「どうしました?」
「それがさ、今日オープンキャンパス行ってきたんだけど、そこで元湘北の人と会ったんだ」
元湘北の、バスケ部元ベンチで眼鏡と続けば該当者は一人だった。花道が散々世話になった元副キャプテンの……
「メガネくんだ」
「それあだ名?」
「花道がそう呼んでたから」
神は今日、志望校で大学生の彼とばったり出会したようだ。そこで彼の落としたノートを預かっていて、次回返す予定だがとりあえず名前を教えてほしいとのこと。しかしすっかりメガネくんで定着してしまったため、本名を思い出せない洋平だ。
「で、そのメガネくんと同じ大学行くの?」
「うん、その予定なんだけど……」
そう言ったきり、受話器の声は途絶えてしまった。
「神さん?」
「……いやあ、今更ながらちょっと、迷っちゃって」
珍しく頭を抱えるその人。理由は複雑で、バスケと親の家業のどちらを優先するかで彼の進路は分かれるらしい。勉学優先なら木暮と同じ大学になるが、そこに神の求めるバスケ環境はない。しかしバスケの道を選べば望む学部はイマイチ……という悩みは以前、彼を湘北に呼び出した際も零してくれた。
もちろん、自分の何かも見つからない洋平に出せる答えなどない。明かしてくれたことには応えてやりたいが、答えのない慰めの言葉なぞに彼は騙されない。ただ…………
「じゃあ神さん、両方やりゃあいいんだ」
つい先日、海南が優勝した瞬間を顧みては口がそう発していた。その二択は両方とも彼の夢であることは確かだから、きっと今までもそうだったはずだから。勉強もしてバスケもする、そのためなら何の苦労も厭わない姿は、今後どれだけ離れようと何一つ変わらないのだろう。
どうやって……? と聞かれても困るが、「きっとなんとかなるって」理屈のない、強い確信だけがずっとここにあった。
「あんたに関しちゃ、きっと周りが放っとかねぇから」
「……そっかな?」
「ええ」
すると受話器の向うからは小さな微笑が零れ、そして洋平にもささやかな褒美が与えられた。
「ねえ洋平、受験終わったら、また遊んでよ」
「いっすよ。じゃあ、選抜も頑張って」
洋平は今夜、入浴の間ご機嫌な鼻歌を口ずさんだ。歌詞を一部メロスに替え、メロスを待つ友人の心を思ったりした。





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