友達と友達とその知り合いの友達 8

土曜の放課後、洋平は湘北体育館裏で口付けを交わしていた。壁とフェンスに囲まれた、フェンス越しの夕陽が赤く背中を射すここで、遠く野球部の声を聞きながら、入院時以来の唇を下から強請った。
片手に松葉杖を突き、他校の制服を着る長身の彼に合わせ、高く顎を持ち上げ、時折ポケットの時計を確認しながら静かにその時を待っていたのだ。
すると程なくして、待ち人のわかりやすい足音が近付いてきた。
「ったく、用事ってなんだよーへー」
おそらく今、部活上がりの彼は体育館の角を曲がったところ、「な………………」と忽ち息を呑む声が洋平の背中に届いた。
洋平は、屈むその人の首に片手を回し、更に舌先をねじ込ませた。微かに身を引いた分更に詰め寄り、下から引き寄せたディープキスを後ろの親友に向ける。忙しく舌先を行き来させ、より卑猥なキスを夕焼け色に演出する。
彼女との仲を疑う彼に、男色の非ぬ場面を見せつけた。
「な……よ、ようへ…………?」
すっかり立ち竦む花道を薄い流し目で確認、唇を重ねたままでほくそ笑んだ。
しかしそこに、奥の通路から麗らかな声が響き渡った。
「桜木くぅーん、どこー?」
徐々に彼女の声が迫る中、僅かに後ずさる本人は驚きのあまり、未だ気付いていないらしい。
目を剥いたままの花道に、洋平は首を押さえていた片手を離し、愛しい唇は重ねたままで声のする通路を親指で指した。
「桜木くぅーん」
続く声に、我に返った花道は慌てて走り去っていった。
「あ……ち、ちちちちょっとトイレ行ってました」
そう、焦って体育館へ促す声を角の向こうに聞き、ホッとした洋平は間もなくキスを解いた。
「ハァ、本当すんません」
軽く呼吸を整えながら、今日わざわざ部活を抜け出して来てくれた彼に心底礼を言う。
ブレザーの彼もまた、やっとの呼吸を取り込みながら笑ってくれた。
「いいよ。それより俺ビックリしちゃった。急に女の子の声するんだもん。なのに洋平離れないし」
オレンジの夕日に染まる微笑が、学ランの公立生を見下ろしていた。
「はは、つい。悪りい悪りい。まあ花道以外には見せる気ねーし」
「当たり前だろ」
「でも本当に、忙しいとこすいませんした。神さん戻ったらまた五百本でしょ?」
「まあね。でもいいよ。そろそろこうして出歩く時間もなくなるんだ」
青春を部活に費やす生徒らを横目に、同様の彼を隣に、校門へ向かい校庭の端を歩いていた。
「勉強もしなきゃなぁ」
後頭部に手を組みながら神が呟く。
洋平は器用に松葉杖を突きながら、下からその台詞を窺う。
「ああ、受験すか?」
高校三年生に立ちはだかる進路。一つ年上の彼にとって大きな選択の時だった。
「うん。でもまだ学校も決めてないんだ。やっぱりバスケも捨てられないんだよね……」
遠く夕焼けを見据える瞳に、進学を望む優等生に何も言うことはない。ただ一つだけ……
「神さんバスケやめちゃうの?」
「やめる気はないけど、なるべく勉強も力入れたいんだ。語学重視かな? でも両方に重点を置くとなると、悩むんだよねこれが」
「なるほどね……」
その辺の知識は何もない洋平だが、先日語られた夢が本気であることは理解出来た。しかし理解しただけで、選択に倦む彼へ掛けられる言葉などなかった。
校門に差し掛かったところで、「駅まで送りますよ」と一言。立ち止まった神は、今尚固定された足を一瞥する。
「いいよ。それじゃ大変だろ?」
「でも今日はホント俺のわがままで……」
今日は洋平のわがままで、花道の不信感を消し去りたいためだけに態々神を呼び出した。神は快く応じてくれたが、今までのことも兼ねて何かと頭の上がらない洋平だ。思っては極端に項垂れた。
すると神は、面倒見のいい優しい先輩は、ろくでなしの後輩に今日も明るく微笑みかける。
「いいよ、気にしないで。ただ……」
何やら考え込むなり、唐突に全く無関係な条件を洋平に突き付けてきた。
「洋平はさ、もう喧嘩しないで」
「へ……?」
「ずるいよ俺だけセックス禁止なんて。だから洋平は暴力禁止」
場にそぐわない台詞を恥じらいもなく吐く彼は、先日の童貞条約にふざけた交換条件を付け加えた。
「俺がセックスしない替わり。まあ妥当だろ?」
「はっ、どこが妥当だ」
軽く受け流す洋平だが、すんなり表情を消し去った神が、俯き気に語り出したのは先日の合宿のことだった。
「花形の弟に、そもそもなんでこんなことになったんだって、弟くんの話のついでに聞いたんだ。そしたらさ……」
あっさり足を洗い、バスケに返り咲いた花形の弟。そんな彼に対し礼がないという理由で元仲間らが暴行。知った洋平の弟が駆け付けたところに、神が折しも出会したのがインターハイの夜だった。……とのことだ。
「本当くだらなくて、俺すっかり呆れたよ。たったそれだけのことが膨らんで、結果洋平がこんな怪我しなきゃならないなんてもう、馬鹿馬鹿しいとしか言えない」
話す節々に微苦笑を浮かべ、嘆くように言い切った彼は、今回の件で馬鹿を相当毛嫌いしたようだ。
結局はやられたやり返したのイタチごっこでしかなかった。過去はさて置き、その不毛さは洋平とてわかっている。洋平の求める有意義な喧嘩、所謂タイマン勝負はもう誰も挑んでこず、漢とは名ばかりの卑怯者揃いだ。
それに、神の辟易は今度の怪我あってのもの。洋平の小慣れた松葉杖歩行に、彼は今も憂いの目を落とす。
「したいなら別にいいけどさ」
ここで無理強いをしないのは、その淡白な性格からだろうか。
「神さん、約束守ってくれんの?」
「うん、洋平が守るならね」
……男に二言はない。今、期限付きで彼の童貞が約束された。洋平は条件を呑む他ないが……
「じゃあ神さん、二つだけ例外認めてください」
「例外?」
「ええ。神さんと友達に何かあった時だけは許してください」
しかし神は、そこで快く頷いてはくれなかった。
「んー、一つは認めない」
「え?」
「そもそも俺が喧嘩なんてすると思う?」
「いやそういう意味じゃ……」
「じゃ、また連絡してね。足大事にするんだよ」
そう爽やかに笑って、洋平に有無を言わせる間もなく神は背中を返した。一方的な条件を押し付けたまま、彼は黙って行ってしまった。
「なんだそれ……」
呆然と立ち尽くす洋平は、校門に一人置いていかれたまま、徐々に縮みゆく背中を見つめる。夕陽へ向かい、歩道を行く長い影はこの足ではすでに追いつかない。それは先の進路へ向かい、洋平より一年先に行ってしまうのだ。
「ねぇ神さん……」
約束守ってよ……と、遠くの背中に釘を刺した。
なんなら俺にくれよ……と、その貴重な童貞を強請った。
ふと、自身のガサつく唇に触れながら、忽ち蘇るはあの鳥肌が立つ程の滑らかな感触。洋平の中で疾うに色情倒錯していた。あのシルクのような唇は、ニコチン以上の中毒性を多量に含むらしい。しかしながら、その確かな禁煙補助剤は受験のため暫く手に入らないとのこと。もう唇が寂しいのに、肺は号泣しているのに、禁欲を解かれた今も洋平は満たされないでいる。それが何故なのかは、今回の件を申し出た時点ではっきりしていた。帰りゆく生徒が唖然とするほど、知らぬ間に滲み出た洋平の禁断症状はあまりに不気味だったようだ。




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