友達と友達とその知り合いの友達 3

「あと神さんそれ」
洋平はベッドの下に視線を送り、荷物の入った紙袋を指した。
「今朝借りたティーシャツ、ボロボロにしちまいました」
「いいよこんなの」
神はそう言って、下の紙袋からそれを取り出す。今朝は確かに真っ白だったはずが、血や泥の生々しい色に染められていた。
「こんなボロボロになるまで……なんで、洋平がやられなきゃいけないの?」
「そりゃ……」
それは馬鹿だからとは、洋平は答えなかった。歩けなくしてやると、容赦なくバットまで持ち出す彼らをバスケ一辺倒の彼が理解出来るはずない。一生無縁であるべきその人にしてやれる説明など皆無だった。
「酷い顔……」
そう囁くよう、腫れた横顔に触れてくる彼には尚更。
「そんな酷い? 俺まだ見てねんだ」
「見ない方がいいよ」
「はは、笑ってください」
「笑えないけど、笑っとく」
ニコリと可愛く笑ってから、彼は小さく息を吐き、洋平の額をそっと撫でる。
「洋平は本当、悪いヤツだね……」
悪を窘める微笑みが、無機質な白に柔を与えていた。
「いや、神さんには適わねぇ」
そのまま自然と見つめ合えば、その大きな瞳にグッと引き寄せられる。今日も本当に大事なものを奪われてしまいそうだ。未だかつて遭遇したことのない、洋平も手に負えない稀代の悪が、優しく怪我の具合を案じていた。
「ちゃんと治すんだよ?」
「頑張ります」
「あ、あとコレ母さんから」
稀代の悪はそう言って、持参したビニール袋を持ち上げた。
「母さんもビックリしてたよ」
「はは、昨日の今日だもんな。礼言っといてください」
「じゃあコレこっちに出しとくね」
背中を向けた神は、裏の台の上にドリンクや果物を並べながら、今日のことをおかしく振り返り出した。
「部活終わって夕飯食べに帰ったら、丁度玄関で母さんが電話受けてて、そして『ナンデ田くんから』って俺に受話器よこすんだよ。電話の向こうでずっと、『なんでだ!?』って騒いでたみたい。『あんたの友達じゃないの?』って言われて取ったら、そしたらまさかの桜木だもん。本当ビビったよ」
椅子に戻り、シーツの端に肘を着き、花道のらしい電話を楽しそうに語っていた。しかしその口許は、忽ち笑みを消し去っていった。
「でもまさか、洋平が怪我したなんて聞くとは思わなかった……」
そう、陰りを落とすその前に、洋平は神の手首を無言で掴む。そして持ち上がった顔に、冗談のない真顔で甘えた看病を強請った。
「神さん、俺タバコ吸いてぇんだ」
心配してくれるのは有難いが、いつまでも湿っぽいこの空気を壊したかった。
神は忽ち噴き出してから、出入り口に覗く廊下の壁を視線で指した。
「もしかして、あの字も見えないほど殴られたの?」
緩む口許で、振り向いた先は後方の壁の札だ。大きくわかりやすく太字で書かれていたのは『院 内 禁 煙』の四文字だった。
「はは、全っ然見えねぇな」
洋平はニヤニヤ笑いながら、掴んだ手首を更に引き寄せた。しかし速やかに寄せた唇は、すんでの一言でさらりと躱されてしまう。
「病人のくせに」と鼻で笑いながら、すっと立ち上がった彼は足下のカーテンを閉めに去った。そしてすぐこちらに戻るなり、長い両腕が洋平の顔を跨いだ。覆い被さるよう上から見下ろし、切れた唇に無言のキスが落とされた。
洋平は早くも去ろうとするその頭を片手で押さえ込んだ。油断した唇から舌先をねじ込ませ、朝以来の唇を欲しいままに、病人のくせに、病人らしからぬ情欲で巧みに迫った。
すると次の瞬間、一面の視界が突如真っ暗になった。廊下も室内もパッと明かりが消えたのは、九時丁度を示す消灯時間だった。
押さえる掌に再び抵抗を感じ、洋平は頭を解放した。
「そういや口も切ったんだ。不味くなかった?」
今も残る鉄の味に、濡れた唇は笑顔で頷く。
「ああ。すごく不味い」
「はは、すいません」
「でも煙草よりましだよ」
そこに、見計らったような咳払いはカーテンの向こうからだ。二人思わず目を合わせ、気まずそうに押し黙った。
神はクククと笑った後で、その唇を洋平の耳元へ寄せ、小声で囁く。
「せっかくの夏休み、病院で過ごすことになっちゃったね」
直に触れるこそばゆさに、洋平は悶絶を押し殺して横向きに囁く。
「退屈で死にそうになったら、もう飛んで来てください」
平然と甘えれば、すぐ真横にある顔が、夜目に見る意中の彼が小さく笑っていた。
「神さん、可愛い」
つい口走った唇に、その傷口に今更痛みが走った。

非常口の緑がうっすらと差し伸べる中、耳と唇を交互に寄せ合いながら、ただただ他愛もないことを囁き合っていた。体温計を持ってきたナースが年配だったこと、お姉さんと呼びたいのは十こ上までということ……途中何度か噴き出す度、ここは病室だとなるべく声を抑え、時も怪我も忘れて静かなやりとりに暮れた。
「でも洋平、そろそろ休みな」
神が気を遣ってくれたのは、おそらく一時間は経過した頃だ。
「そっすね」
素直に頷くと、洋平は早くも目を閉じる。思いがけない二晩目にこのまま至福の夢を望んだ。
……が、夢は果てしなく遠かった。明らかな視線を意識しては全く寝付けないのだ。その眼差しを片頬に感じ、視界を閉ざした今も察知しては無意識に眉間を寄せてしまう。妙な汗すら湧き出てくる。
言い様のない緊張感と、何かを期待しての胸騒ぎがまるで止まらなかった。洋平は、手探りで触れた体温を掴まえた。
すると、頬の不快な湿布の上から今確かに触れた優しい温度……軽く乗せられた唇を、その柔らかさを洋平はしかと感じてしまった。心電図が一定のラインを記録した。
肺の奥の奥底から、やがて決壊の如く溢れ出す慕情。それは豪快な音を立て、水戸洋平を確実に崩しながらついに雌伏の台詞を吐かせた。
「神さんやめてよ……」
苦痛の声で目を開けると、見守っていた白い顔が暗闇に浮かんでいる。しかしそれは、今日の優しさとは程遠い声で……
「早く寝なよ」
あの万引き事件以来の冷やかな声に、怒気を孕んだあの眼差しに不思議な悪寒を改めて知った。起きていたのを知ってのキスと、優しさの欠片もない厳しい忠告……大好きな夜更かしをキツく怒られてしまった。うっかり泣きたくなったから、もう自分が恐かった。
なんだよもう…………。洋平はもう、黙って目を閉じるしかなかった。胸騒ぎを灯したまま、そこに心痛を患ったまま。しかし残念なことに、天使を装う稀代の悪は夢の中でも健在だった。

そして翌朝――。昨日と同じ、愛しい朝の挨拶で目を覚ます。
「おはよ」
朝の光を含んだカーテンはすでに明るかった。
「あ、もう起きてたの?」
寝ぼけ眼をぐりぐりと擦り、咄嗟に起き上がろうした洋平はふと、ゆっくりに切り替える。
神はカーテンを開けながらにこりと話しかけた。
「だってもう朝食の時間だよ? 俺持ってくるから待ってて」
やがて朝食を終え談笑していたところ、「洋平ー」と顔を出したのは花道だ。一面だけ開いた足下のカーテンから、同時に振り返った神を見やるなり透かさず突っかかった。
「ぬ……テメェまだ居やがったのか!」
「仕方ないだろ? 昨日帰れなかったんだ」
洋平はその帰りを思い、昨日に続き用件を託す。
「花道ぃ、わりぃけど、神さん駅まで送ってくれよ」
「ぬっ、今日もか……」
花道は花道なりに渋ってから……
「……洋平が言うなら仕方ねぇ」
「わりぃな。神さん部活間に合う?」
「うん、まだ平気」
「じゃあ早く行くぞ」
そう言って、早速踵を返した花道を慌てて呼び止めた。
「あ、花道。今日部活ん時、流川に伝言してくんねぇか?」
その憎き名前を口にすれば、振り向いた花道は忽ち取り乱した。
「ル……ルカワだと!? なんだ洋平、神の次はルカワとも仲良くしてんのか!?」
しかし流川の次は……
「はは、ちげぇよ。流川に、花形さんに礼言っとくよう伝えてほしんだ」
「は、花形……!?」
「ああ、お兄さんの方に昨日助けてもらった。なんでこっち居たか知んねぇが、きっと救急車呼んでくれたのもその人だわ」
……流川に言えば本人に伝わる。去年を顧みれば確実な連絡網だった。
「一体何がどうなってんだ……」
今にもショートしそうな花道だが、「じゃ、合宿前にでもまた来るから」と立ち上がった神に連れ出されていく。
「ああ、お袋さんにも礼言っといてください」
「うん、またね」
そして二人が病室を出て行けば、賑やかだったここは忽ち穏やかだ。嵐が過ぎ去ったように、狭く仕切られたカーテンの中は本来の病院らしさを取り戻していた。
同時に、沸々と蘇ったのは白の圧迫感だ。嫌味を含む眩しさに目がチカチカして、耳は塞がるようで、息の詰まるような感覚を改めて感じる。
流川の見舞いへと、去年花形を乗せここに来た際、もう二度と来ることのないよう願ったはずだが……最低でも一ヶ月はここに囚われる。何の恐怖にも怯えない、身の安全を保障されたここで、洋平の平和な夏休みが始まった。





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