柄一つない天井を眺めながら、洋平は一人、静かに過去を振り返っていた。
……中学時代だった。花道が連れ出されたと聞くなり、直ちに飛び込んだ先はまたしても卑怯者の巣窟だった。そこに花道などいなかったのだ。……短絡的だった。少し考えれば疑うべきはいくらでもあった。しかし花道と聞いては夢中で駆け出し、洋平は、当時も大きな怪我を負った。馬鹿だったとは思うが、不意にその名を出されたら、冷静を欠いた洋平はまだ中学生だった。
その結果、彼は以前も同じ天井を眺めていた。彼らが卑怯者を忌み嫌う理由はそこにあったりする――――。
それから薄味の過ぎる夕食を口にした後、「洋平……?」と足元のカーテンが開いた。今朝別れたばかりのその人が、ビニール袋と紙袋を手にこちらを覗き込んでいた。
「あ、神さん……」
中へ踏み入れた彼は、朝と同じ練習着のまま、汗の滲んだ首のタオルは外すことすら忘れてきたのか。険しい表情でベッドの傍らに立ち、洋平の腫れ上がった片頬を上から見下ろした。
「痛みは?」
今朝とはまるで別人の洋平に、暗い視線を落としていた。窄められた大きな瞳が今にも零れてきそうだった。
「さっき痛み止めもらったんで、まあ何とか」
そう……とパイプ椅子に腰掛けた彼の、ハァ、と吹きかける重い吐息は今日の疲れも含み、腫れ上がった患部に触れた。
「神さんそれより、急にこっちまで出てきて、五百本だって出来なかったっしょ?」
そう起き上がろうとした洋平に、神が厳しく言い聞かせる。
「寝てなきゃダメだよ」
一切笑ってくれない瞳は、今日五百本を放棄しただろう彼は、目の前の怪我にただただ落胆していた。怪我をして初めて知る彼の優しさが、全身の傷に沁みて痛かった。
「……そうだ。これ桜木から預かった着替え」
思い出したように立ち上がった彼は、備えの収納に紙袋をしまい入れ、「鍵はこっちね」と鍵を台に乗せる。
「すいません」
花道に、アパートから荷物を持って来てもらうよう頼んでいた。しかしその花道はどこに……?
「ああ、親父さんの入院先も行くからって、先に帰ったよ」
そっか。と納得したところで、先程から射す眼差しは洋平を戒めるものだ。再び椅子に掛けた神が、先程とは打って変わり鋭くこちらを睨みつけていた。つまり怒っていた。
「で、何したの?」
ぐっと眉間を寄せ、咎めるように事情を質されるのは本日二度目となる。
「ああ。そこなんだ……」
洋平は仰向けに寝たまま、改めて事の真相に迫った。
「神さん前、俺に似たヤツが喧嘩してたって言ったっしょ? その話、もう少し詳しく教えてよ」
「はぁ、やっぱりそこなんだ」
神も薄々察するなり、詳細を語り出した。
「インターハイ初戦の日だよ。洋平と身長も同じくらい、髪は今日の洋平より少し長いくらいの、とにかく似てるヤツが数人を殴ってた。すごい形相で、倒れた一人を庇いながらもう派手にやってたよ。その後駅の交番に通報しただけだから後は知らないけど」
「それどこですか?」
「Y駅から少し歩いたとこ」
「Y駅?」
「うん。そっちの友達と会った帰りだったんだ。駅に向かう歩道で、ビルの影から急に声が聞こえて、洋平と似た声だったから少し覗いてみたんだ。そしたらそいつが、『赤は止まれ青は進め、黄色は注意って知ってっか?』って、指鳴らしながら息巻いてた」
そう聞いた途端、洋平の勘は大きな確信に変わり、思わず鼻で笑ってしまった。が……
「でもまさかな」
「ん? 何か知ってるの?」
「やあでも、Y駅っつーのは有り得ねぇんだ」
「……? 有り得ない?」
心当たりを仄めかす洋平に、神もすっかり首を捻っていた。
「どういうこと?」
そう心身に質してくれる彼に、切り傷の真新しい唇から洋平はとある事実を明かした。
「ああ、俺弟いんだ。双子の」
「え? でも昨日、兄弟いないって言ってたよね?」
昨夜風呂場で、洋平は確かに『いねっす』と答えたが、その真相はこうだった。
「うち親が離婚して、弟は父親の方ついてったから」
「そうだったんだ……」
「でもこっちにいるはずねぇんだよなぁ……」
離婚後、弟は父に連れられ東京に引っ越した。だからこの辺で油を売っているはずないのだが、そう都合良く似た人間が現れるとも思えない。そうなるとやはり……
「やっぱり純平か」
「純平?」
「弟の名前。離婚はしたけど名字はそのままなんだ。それなら合点がいく」
似た人物がケンカをしていたこと。相手が苗字を知っていたこと。洋平が弟の返り討ちに遭ったとすればそれは見事に繋がる。
しかしながら、今本人が名乗り出てきたりしない限り、喧嘩の原因もなぜこっちにいるのかもわからない。結局何が解決するわけではなかった。
「あいつ一体何してんだか……」
虚空の白へ吐いた溜息に、ふと幼き日を顧みていた。
「話、したい?」
「え……?」
唐突な提案を聞き返せば、「その弟くんと」と答える神は果たして弟の何を知るか。
「だって神さん、弟なんて知らねっしょ?」
「うん知らない。でも、その弟と一緒にいたヤツを知ってる」
「一緒に?」
「うん、花形だよ」
神は以前も告げた、現場にいたもう一人のことを教えてくれた。
「翔陽の、今年出て来た金髪のセンターだよ。その弟くんの後ろに倒れてたんだ」
洋平はその花形の名でもう一つ肝心なことを思い出した。
「あ、その人だ……。俺その人に助けられたんだ」
……おぼろ気な記憶の中で微かに覚えている。必死で名前を呼び、血を拭ってくれたその眼鏡の彼を。
「助けられた? 花形に?」
「ええ、でけぇ眼鏡の人っすよね?」
デカい眼鏡の、いつか流川の見舞いへ原付に乗せた翔陽の彼だ。しかし神が言うには……
「それはお兄さんの方じゃない?」
「え?」
「俺が見たのはその弟。洋平と同じ二年だよ」
「あ、そすか。なんかややこしくなってきたな……」
「その弟と来週合宿で一緒になるから、俺少し話してみる」
「ああ、なんか本当に……」
昨晩泊めてもらった上に見舞いにまで来てもらい、更なる用事を請け負ってくれるとはどこまでも申し訳ない。そう胸の中で呟いた洋平は、どこかしら繋がっていたことに感心しながら卓上の時計に目をやった。
「そういや神さん、いんすか? もう七時半だ」
「ああ、明日帰るよ」
「へ?」
「桜木に乗せて来てもらったのはいいけど、道わかんなくなっちゃったし」
確かに、今の状況で神を駅に送ることは出来ない。
すると神もまた、申し訳なさそうに尋ねてきた。
「いたら、邪魔かな……?」
上からかかった息は柔らかく、切に窺うその端正な顔を洋平は直視できなかった。思わず目を逸らしてしまった。
……何故ここで下手に出るか。彼は何故、絶妙な琴線に悉く触れてくるか。
「じゃあ、明日練習前に花道来っから、そん時送ってもらうように言います」
洋平がにっこり言うと、神も明るい顔を上げてくれた。
「はは、こりゃ桜木に礼でもしなきゃな」
「それは俺がしとくから」
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