禁煙席 7

淡い月夜の下、庭一面に咲くホーリーグリーンが、その中央に建つ家の白を品良く際立たせていた。
行き届いたガーデニングに浮かぶ等間隔のランプに導かれ、高い背中に続き辿り着いたのはその彼の家だった。洋平は今日、ここに泊まることになった。
そして神の話はこうだった。先週、洋平がインターハイに行っている間のことだ。神が練習帰りに立ち寄った隣町で、洋平によく似た男が複数を相手に喧嘩していたという。それは時期からしても新聞で見た障害事件と関連していそうな気がした。
神は目撃したその場からすぐに立ち去ったものの、あまりに似ていたこと、その男がとても怒りに満ちていたこと、そして顔見知りの男もいたことにはそのままやり過ごせず、彼の中に留めておくことが出来なかったという。
もちろん洋平の身に覚えはなく、ここ暫くは恨みを買った記憶もない。ただ似た人物と聞いては少し気にかかり、そのまま話が長引くことに彼が気を遣ってくれた結果が唐突な一泊だった。思いやりも充分に備わった彼には専ら感心している。
「ただいまー」
「チワース」
玄関を開けた神の背中から、キッチンへ続く廊下に向かって挨拶する。そこに「おかえりお兄ちゃん」と出迎えてくれたのは「ああ、ゆめ子」というパジャマ姿の幼い女の子だった。
「神さん、妹?」
「うん」
「へえ、ちっちゃいなぁ」
おそらく小学生だろうか。彼に似た大きな瞳はまるでお人形。長い睫毛に透き通るような白肌は、この家系に継ぐ確かな遺伝子らしい。
「まだ小学一年生だよ」
高校三年生の兄がスニーカーを脱ぎながら教えてくれる。
「こんにちは」
洋平も神に続き、その妹ににっこりと微笑んだ。しかし彼女はすぐ兄の後ろに隠れ、脚の影から恐る恐るこちらを観察していた。
「ははは、彼は恐くないよ」
楽しく宥める兄には洋平も自身の外見を顧みて、洋平の中で一番の優しい笑顔を浮かべた。
「ゆめ子ちゃん、よろしくね」
返事はなかったものの、妹ははにかみながら小さな笑みを返してくれた。
そして程なく通されたダイニングには、これまた彼に似た母親がテーブルに大皿を並べていた。……だが太っていた。せっかく綺麗な顔をしているのにもったいないと思いながら、洋平は軽く小首を下げる。
「どうも、邪魔します」
「こんにちは。そこに掛けてちょうだい」
妹と違い、偏見なく向けられた笑顔は底抜けに明るくて、なんだか暖かかった。
洋平の隣の椅子に掛けたその息子が母について語ってくれた。
「母さんは色々行った中でもイギリスがお気に入りで、この家も家の中もほぼ母さんの趣味だよ」
聞いた洋平は、この家の外観、内装、庭のガーデニングを、そして息子とは縁のないこの身なりを受け入れる、その寛容さに頷いた。
「あ、母さん今日彼泊めるから」
「そう、ゆっくりしてってね」
そんな母親の手料理は焼きたてのミートパイで、洋平は、初めて知る味ながらどこか懐かしく感じていた。中のソースの、舌も焦がす程の熱さが少しだけ、恋しかったのかもしれない。
夕食を終えたら風呂、ということで、「わたしもいっしょにはいるの!」と駄々をこねる妹は優秀で優しい兄を心底慕っているようだ。「もう入ったでしょう?」という母の声も聞こうとしない。
「じゃあ、三人で入っちゃう?」
已む無く提案する兄に頷いて、いざ三人で入った風呂は少し狭かったが、その談笑が絶えることはなかった。
妹も何とか洋平に慣れ、というより前髪を下ろした洋平は大して恐くないらしく、共に浸かる湯船ではすでにはしゃぎ出していた。
「神さんも、こんなに歳離れてたら可愛くてしゃーないっしょ」
洋平は妹をあやしながら、後ろの洗い場に立つ兄に尋ねた。
しかしそれは、シャワーの音に紛れながら別の質問が返ってきた。
「ああ。水戸くんも兄弟いるの?」
「いやぁ、いねっす」
……もくもくと湯気の立ち昇る中で、洋平の脳裏にふと過去が過った。
寝巻きには神のティーシャツを借り、洋平は、同じ石鹸の香る高い背中に続き浴室を後にした。
ガーデニングは屋外に留まらず、間隔を意識した緑はそこかしこに飾られている。その感性が素敵だと、素直に感じる洋平自身の感性もまた、誰も知らないことだろう。
そうして階段を上がり、二階の一室に通されてすぐ、真っ先に目についたのはモノクロのチェッカーだった。床一面が白と黒で敷き詰められ、他の机やベッドも程よく色味を抑えられ、放りっぱなしのジャケットすら自然と様になって見える。
洋平は、少しばかり彼の趣向を垣間見た。
「水戸くん、名前何ていうの?」
「洋平っす」
「そっか。洋平くん友達になろうよ」
気さくに申し出ながら、神がベッドの縁に掛けた。
「呼び捨てにしてください」
続いた洋平もその隣に腰掛け、二人は漸く友達となった。
爽やかな仲良しごっこも、頭のいい彼となら難なくこなせるのかもしれない。そう思ったところで早速話が振られた。
「信長がね、あの人俺と声似てるって、気味悪がってたよ」
「ああ、そういやぁ……」
日中耳にした野猿くんの声は、確かに洋平のものと似ていたか。
「煙草はこっちで吸ってくれればいいから」と開いた窓を指す神を見て、洋平は今更思い出した。
「ああ、俺暫く禁煙してんの」
「やめるの?」
「そのつもりはねーんだけど、ここ暫く吸ってねぇんだな……」
……それはあの日から。神に出会った翌日から、洋平は一度も口にしていないのだ。その事実は未だ不思議で、洋平自身も興味を抱いていた。
そこに、「そー!」と階下から呼ぶ声は母親のもの。立ち上がった神は、「ちょっと行ってくるね」と部屋を出て行った。
一人取り残された洋平は、一通り六畳の室内を見回していた。周りの野郎部屋にない雰囲気は異文化に近いが、整頓し切れていないCDや安上がりなラックには厭味がない。男臭すぎず清潔すぎない。金もかけずにこの雰囲気を創り出すのは、それこそ彼特有の感性なのだろう。
洋平なりに納得して、あとはバサっと後ろのベッドに倒れ込んだ。その瞬間、ふわりと立ち昇る空気が仰ぎ見る天井へ向かう。いつか肺を癒してくれた、あの清潔な香りに再び包まれた。これまた彼特有のもので、洋平は今日も、肺が洗われる瞬間をありありと実感した。それは、年中燻らせていたあの苦い香りに嫌悪を抱く瞬間とあいまっていたようだ。形のない、香りに恋をするというのもまた可笑しな話だろうか。
禁煙の理由がわかった気がして、洋平は力なく笑った。
そのまま二分待っても帰ってこないことに退屈し、洋平は隅に置いた自分の鞄を開けた。何かと隙のない彼の裏の顔でも探ろうと思ったが、くだらない。エロ本をみつけたところで何が楽しいわけでもないと、洋平が鞄から取り出したのはエロ本だ。
……いや、表紙の折れ曲がったいつかのあの成年雑誌だ。あの日からずっと鞄に押し込んだままだった。
そこに、開いたドアから「ごめんね」と部屋の主が顔を出す。洋平は掛けたベッドから、開いた雑誌に目を落としたままで友達の攻略にかかった。
「神さん名前、そうっていうの?」
「宗一郎。じじくさいんだよね」
「はは、覚えときます」




戻6 | 7 | 8次