……ある晩のこと。洋平は、不思議な夢を見た。暗闇にあやなす個々の光が鮮やかで、幻想的で、それは見渡す限りの宙に延々と舞い続ける。ずっと触れていたいとすら感じる夢幻は、洋平の奥の何かをまるで呼び覚ましていた。
しかし現実とそれは程遠いもので、ふと目を覚ました洋平の視界に飛び込んだのは低俗な日常だ。まだ夜明けにない六畳一間で、数時間前の行為を物語るゴミ箱、自身の乱れたティーシャツ、そして隣に眠る半裸が先の幻想を瞬時に消し去る。
インターハイから帰ってきてすぐのバイトで、疲弊しきったはずの身体はより重く、上体を起こすにも一息を要した。心地良い睡眠を遮られたことには頭痛がして、やや大袈裟に頭を抱え込んでみた。
そこに、「もう起きたの?」と微睡みの声でゆっくりと身を起こす隣の彼女。こちらを見つめるなり、ギラつくマニキュアの乗った指が顔に伸びて来た。更に抱き締めようと、「眠れないの……?」と洋平の首筋へ擦り寄る半裸……――――。
「……何、なの…………?」
無言で立ち上がった洋平に、眦から憎しみを放つ鋭い眼差しが突き刺していた。
その日の昼、洋平が昼食にありついたのはバイトの休憩時間を三十分程過ぎた頃だった。暇を持て余した同年代の彼らが、食事を余所に談笑を交わすのはここ、コンビニからすぐのファストフード店だ。夏休みの今はすっかり若者の巣窟となっていた。
周囲の騒がしさに加え、窓からの眩しい日射しが頭痛に障るが、三十分後にまた戻ることを考えれば恰好の休憩所だった。
洋平は外をぼんやり眺めながら、いつもの頬杖をつくのは二階窓際の禁煙席。無意識に掛けたその席で、一人静かに腹を満たしていた。
そこに、「あれ……?」と聞こえた声に目線をやる。
「あ、もしかして休憩?」
周囲から頭一つ浮いた彼は、いつか唇を交わしたその人だった。今日も練習なのか、お決まりのジャージ姿で首にタオルを掛けている。そして洋平の相棒とよく似た後輩を後ろに連れ、「奇遇だね」とバーガーとドリンクの乗ったトレーを隣のテーブルに置いた。
「ええ。コンビニ弁当も飽きたんで」
「頑張ってるね」
「あ……ーと……」
……野猿くん、だったか。少しばかり花道と気質の重なる彼は、先日の予選決勝でその健闘ぶりを拝見したばかりだ。いつかパチンコ店前で顔を合わせたのを覚えているのか、彼は不思議そうにこちらを見つめていた。
「湘北の生徒だよ、桜木の友達だって」
隣の席に掛けながら、先輩である彼が一言紹介すれば、その対面に着いた野猿くんは、「ああ、知ってます」と早くもハンバーガーにかぶりついた。
「海南は今日も練習ですか?」
「うん、信長にも五百本やらせてるんだ」
正面の後輩にニヤリと微笑む先輩を前に、当の野猿くんは顔をげっそりとさせる。
「俺には無理っす……」
「五百本?」
洋平がその意味を窺えば、神は驚愕のシューター育成法をさらりと教えてくれた。
「一日五百本シュートするだけだよ。それより、湘北は?」
「ああ、昨日帰ってきたばっかりなんで、今日は休みっす」
――昨日、ベスト8入りを果たした彼らにはまだ上がいた。点差も僅かではあったが、全国制覇にはまだ足りない何かを個々が掴み取ったようだ。来年こそはと、バスケに賭ける彼らの意気は轟々と上がるばかりだった。
「そっか……」
ふと視線を落とした隣の彼が小さく呟いた。
淡く浮かぶ顔の陰りは、先日のショックをまだ拭い切れないらしい。青春の全てをバスケに費やしているのだから尚更、日々五百本を貫く彼にとって、生きる糧を失ったに等しいだろう。
しかし洋平が別の話題をふろうとする前にも、神は笑っていた。
「水戸くんは、夏休みもあのコンビニでバイト?」
「ああ俺、今週でバイト辞めるんだ」
「なんで?」
「女の家転がり込んでたけどもう、ダメっすから。今日から家帰るようだし、やっぱりこっちまで通うの面倒なんで」
所詮ペットの分際で、飼い主に愛嬌を示さなければただのヒモだった。さっぱり居候を諦めた洋平は、彼女に追い出される前に今朝アパートを出て来たのだ。
「帰りは平気なの?」
「ああ、まあ終電は余裕で」
「そう……。あ、あとさ……」
そこまで言った神は、何か言いたげに言葉を詰まらせたまま難しく眉根を寄せていた。
「どうしました?」
「ああ、いや……」
「じゃ、俺はこれで」
彼が何を伝えたかったのかはわからないが、壁の時計がそろそろここを出ろと言っていたのだ。
「あ、たぶん帰りにまた寄るよ」
トレーを持ち、席を立った洋平にそう告げられた。
そして練習を終えただろう彼は約束通りやって来た。上がりの近付くその時間、仕事を終えたサラリーマン客一人の店内へ、レジで新聞を開く洋平の許へ。
「お疲れ」
若者による傷害事件多発の記事の、向こうの頭を見上げた洋平は読んでいた新聞を畳んだ。
「ああ、神さん」
彼は一旦冷蔵棚へ向かい、スポーツドリンクを片手に戻ってくる。フゥ、と汗を拭いながらそれをレジに差し出してきた。
「今日はビールじゃないんすね」
バーコードを読み取りながら軽く嘲る洋平に対し、神は昼間の訝しげな目でこちらを覗き込んできた。
「……水戸くんは、インターハイ行ったんだよね?」
「ええ。なんとか休み貰って」
なぜそこを尋ねるか、同じく不思議がる洋平に、「そっか……」と呟く神は未だ府に落ちない様子だ。
「どうかしました?」
「いや……その、俺が関わることじゃないのはわかってるんだけどさ……」
なかなか要点を明かさない彼の、その後ろに漸く並んだ客に気付き、洋平は神に待つよう促した。
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