禁煙席 5

目の前でパチパチさせる瞬きは、そのまつ毛の長さをより印象付ける。
すっかり言葉を失い、じっとこちらを見据えるだけの彼には依然跨ったまま、洋平は再び唇を押し当てた。
軽く握った肩の生地を引き寄せ、小さく口を開け柔らかな下唇を啄む。しかし間近の様子を薄目に窺うも、無言の彼には未だ反応がなかった。それはキスを解いても、無言のままだった。
少しやりすぎたか……と洋平が大した反省もなくその膝を降りれば、缶を手にした神は平然とその中身を飲み干す。夜空を仰ぎ見るよう一気に傾け、コンクリートに置いた空き缶をコンッとしじまに響かせる。そして……
「まだある?」
突如振り向いた笑顔にその内面は読み取れないが、隣に腰を下ろした洋平は自分の缶を持ち上げ、「ああ、少しなら」とそれを左右に振った。ふと視線を逸らし、そして、油断した瞬間だった……。
「神さん…………?」
そう確かに発したはずだが、その声は今見事に封じられている。咄嗟に身を竦め、洋平は先の彼と同じように瞬きを、嘘のような視界をリセットしようと試みた。が、ビールに濡れた冷たいキスには軽く理性を奪われた。瞼の隙間から覗く瞳が間近にこちらを凝視、その妖しさが忽ち現を歪ませる。
本来ならカァッと顔が熱くなる場面かもしれないが、一切不快のない悪寒が今、洋平の背筋をゾクゾクと昇り切ったところ。不覚にも欲情したというのか……。
自ら先に仕掛けておいて、いざ同じことをされれば激しく動揺している。実に情けなく思うが、バクバク打ち鳴らす心臓に嘘は吐けなかった。
「はは、残ってた」
にこやかにぬかしながら神は漸くキスを解いた。酔っているのか、その判別は傍目にはつきにくいが、洋平はすっかり不意打ちを喰らったわけだ。それが少しばかり癪に障ったから、そのまま離れようとした神の腕を掴んだ。気付いた彼を強引に引き寄せ、挑発の目を向けた。
「そんなんじゃダメだってば」
そんなキスでは……と、気分が高揚するあまり調子に乗っていたようだ。
取られた腕にバランスを崩し、階段を踏み外した彼の背中を透かさず支え、引き寄せた腕を自身の背中まで回す。
それでも表情を崩さない、抵抗も見せない彼を、開いた脚の内側に抱き寄せた。そして、背中を支えていた手を彼の頭へ、逃さぬよう押さえつけながら洋平は再び口付ける。そっとこじ開けた中へ滑り込み、苦味の残る舌先を舌でゆっくりと這う。
……悔しかったのかもしれない。キスでここまでの気分にされたのは初めてだったから。真面目一辺倒だと思っていた彼に情欲を揺さぶられるとは、まさに不覚だった。

微かな夏風が心地良くて、そよめく青葉が耳を透かした。そっと掌に触れた頬は冷たく、同性を疑う素の滑らかさには苛立ちすら覚える。同時に、ほろ酔いにも満たない身体が茫然と興奮に染まりゆく…………この瞬間が何より不思議だった。キスした本来の目的を忘れていた。そして忘れてはまた……洋平はすっかり注意を欠いていた。
今、突然肩を押されことで視界がそっくり返る。星空を仰ぎ見る間もなく目を瞑ったのは、階段の角に頭がぶつかるのを恐れたからだ。しかし透かさず伸びた彼の片手にしっかりと支えられ、その悪戯な顔に仰ぐ視界を奪われたところ。
彼はにんまりと、笑いながら告白した。
「俺実は、男が好きなんだ」
「は…………?」
うっかり真に受けた洋平は息を呑み、目を大きく丸くした。キスしても怒らない、更に返してきた彼には事実その気があるものだとつい納得してしまった。そしてこのまま、まさか返り討ちに……? と不安を抱きながらも何故か抵抗にない身体。なぜなんだと疑心暗鬼に陥る間にも、彼は抱擁を解いてくれた。
「はは、冗談。ゴメン、調子に乗った」
キツイ冗談を爽快に流す彼に、先の確信は即座に消え失せた。そもそも真面目なジャージの彼に男色など似合わないと、どこかで信じていたからだ。洋平は騙された自身に呆れ、「最低だ神さんは」と笑顔で鼻白む。
「ありがと。おかげで忘れたよ」
「おやすいご用で」
程なく立ち上がった神に洋平も続き、二人は最後まで爽やかな交遊を貫いた。
「また遊んでよ」
「いっすよ」
まるで何事もなかったように、尻の砂利を払いながら誘う神に付け入る隙はないらしい。
「じゃ、勉強頑張ってください」
そう言って、程なく別れた。

……その、夜のことだった。アパートへ帰りすでに眠っていた洋平の許へ、漸く帰ってきた女は今日も酒が臭う。キツイ香水と客のタバコも混じった臭いがいつになく鼻を刺した。
「もう寝てたの?」
女はすぐに絡み付いてきた。急に点いた明かりの影に、覗いた肌は酷く荒れていた。化粧で隠しきれていなかった。
洋平は、先風呂入れよ……とは口には出さない。首筋に擦り付く厚化粧を責めもしないが、客や他の男にも抱かれているであろう体を今更汚らわしく感じている。
…………そして、キスを拒否した。身体は応じたが、唇は潔癖症を患った如く何も受け付けなかった。
眠気を言い訳に、手をあてがうだけの無気力な愛撫を施したが、その感触で眠気が覚めることはなく、洋平は本番を前に情けなく願い下げた。
「眠い。今日はもう勘弁……」
身勝手な中断に彼女はあからさまな不満を浮かべる。洋平はペットである身分を弁えず、無視に徹し彼女の布団で眠った。しかしそれは、その日のキスだけに留まらなかった。
後日、いつものトイレで摘んだ煙草も唇へ寄せたところでふと手を止めた。何気なく触れた唇は、心なしか潤っているような。常にガサガサに乾燥していたはずだが、一本に奪われる水分量はなかなかであることを知った。
そのまま、徐々にトイレが遠のいていったことには洋平自身も驚きだった。

 

それから待望のインターハイ初戦はすぐにやってきて、洋平は行かなかった試合の分もと誰より応援に励んでいた。見つめる先の親友は今のところ問題なく、開始から今まで実に集中を保っていた。
勝手に決勝を見据えた洋平は、纏めて休みを取ることに成功したのだ。だから今日も最前列を確保し、四人で手に汗握りその勇姿を見守っている。このまま勝利をもぎ取ってくれることを強く望んでいた。
――――それは中学時代のこと。親父さんの都合で越してきた花道が加わり、馬鹿は五人になった。共に喧嘩に明け暮れては絆は深まる一方で、その絆があってこその伝説の桜木軍団だった。だから、そんな花道が去年見い出した夢はろくでなし四人の夢でもあった。
未だ自分の何かが見つからない四人にとって、花道は誇り高き不良であり、そして立派なバスケ選手だ。だから応援も負けやしない。逞しい背中を追う眼差しは焦がれる程に熱く、暑苦しく。
今は喧嘩なんかより、その成長を見守ることが青春であり、まだ見出せない四人の何かなのかもしれない。

初日の全試合を終え、客席で一頻りばら撒いた紙吹雪を拾い集めた洋平が、ふと振り向いた先に見つけたのはわかりやすい長身の黒縁眼鏡だった。確か去年、流川の見舞いへと原付きに乗せた元翔陽のメガネ。正しい名前は覚えていないが、彼は後方の席に掛け、同じく試合を鑑賞していただろう元翔陽のメンバーと思しき三人で話をしていた。
すると鞄を手に立ち上がった眼鏡の彼がこちらに気付き、軽い会釈が投げられた。
立ち去るその大きな背中を見て、洋平は先日の試合で聞いた、花道がやられたという翔陽のセンターのその名前を思い出したところだ。
「なるほど、兄弟か」





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