禁煙席 4

試合終了のブザーが鳴り、たった今、常勝を意味する十八年連続出場が虚しく絶たれたところ。祭りの如く歓声を上げ、はしゃぎ飛び上がる湘北部員と同じコート上に、肩を落とし涙を流す海南部員がいる。
ふと洋平の視界に入ってしまったその人は、夢を失った瞳は今何も見えていないだろうか……。あの日語ってくれた夢が目の前で崩れたのだから、いや、崩したのだから。彼の産まれた年に産まれた、その常勝の歴史を壊した最低のキャプテンが、僅か一点差の下で静かに立ち尽くしていた。

表彰式を終えると、先程まで混雑にあった観客席は徐々に空いていく。
「おい洋平どうした? 行くぞ」
早速応援グッズを祝福グッズに持ち替えた三人から晴れやかな声がかかる。
「ああ、俺バイトだから」
洋平が軽い笑みを返せば、じゃあなと手を振った彼等は浮かれ調子で去っていった。
「あ、花道にはバイトだって言っといて」
それだけ伝え、洋平は一人その場に残った。消えゆく周囲をよそに、腰を据えたままで暫し、先の試合を振り返っていた。
……ハーフタイムに訪れた控え室で、不調の天才にどうしたんだと質せば、彼は驚きの顔を上げてからこう呟いた。
「洋平、来てたのか……」
バイトが一人減った所為で先週は来れなかったと理由を告げれば、立ち上がった彼はいつもの痛快な笑い声をぎこちなく上げる。
「そ、そうだったのか……ナハ……ナハハハ! 俺の勇姿が見れなかったとは哀れだったな洋平」
そこには透かさず退場の事実を突っ込んでやると、知ってたのか……と若干むくれるが、しかしその後、「サンキューな」と目も合わせず呟いたのを洋平は聞き逃さなかった。
そして続く後半、まるで前半戦が嘘のように花道は調子を上げた。コート上を豪快に走り回るいつもの天才だった。二桁の点差はみるみる縮まり、やがて残り五分を切ったところで追いつき追い越されの接戦が繰り返され、残り数秒の時点で二点差。逃げ切ることに徹した湘北だが、清田の弾いたボールが巧く神に渡った瞬間、彼はすでにシュート体勢に入っていた。赤を応援する皆が息を飲み、最悪の逆転負けを頭に描いた。音もなく放たれた途端、思わず目を覆った者も少なくなかった。
しかしブザーが鳴っても点差はそのまま、ボールは3点を与えるリングへは向かわなかった。それは惜しいと言えるミスではなく、ボールを放つと同時に明らかな異常を示していた。神は何かに気付いたように、慌てて右手を離していたのだ――――。
……いつか、負傷させたあの右手だった。嫌な憶測はおそらく的中だ。

洋平はバイトに向かってからも、詰まる蟠りが解消することはなかった。小慣れた営業スマイルも上手く頬が持ち上がらず、接客に気も篭もらない。
やがて上がりの近付くその時間は、今日も客が少なかった。いや、他に店員もいない今は洋平一人、漸く来店した客には顔を上げることもせず、無気力ないらっしゃいませを口にした。
すると、程なくレジへやって来たその客はなんと、今日の最低なキャプテンだったからもう言葉がなかった。お決まりのジャージ姿はもう彼以外になく、洋平は少しだけ、こんな日にのこのこ来店した彼を恨んだかもしれない。しかし……
「見逃してくれる……?」
そう言って、コトンと台に置かれたのは一本の缶ビールだ。彼は馴れ馴れしく台に肘を着き、ニコニコとこちらを見上げていた。
その笑みに一切応じることなく、洋平は手にした一本を読み取りながら厳しく質した。
「神さん……病院行かなかったの?」
「ああ、痛みも感じなくなったから、また治ると思ってたんだけど……。まあ、俺の過失だよ」
ハァ、と洋平は溜め息を一つ、神が小銭を取り出す前にポケットから財布を取り出し、二百五十円をレジに納めた。
あ……と気付いた彼には小銭をしまうよう目で促す。
「ちゃんと治してください」
一切の愛想を省き念を押せば、あまり反省の見えない彼は俄然気を抜いたのか、床に膝を着き、台に伏した顔を持ち上げ、洋平をじっと見上げていた。
その大きな瞳を以ての上目遣いは、油断するとうっかり吸い込まれそうだ。
「ねぇバイト、何時に終わるの?」
「は………………?」
嫌味のない、スマートな色気で誘うまさかの不意打ちに、洋平を思わずドキッとするが、そこは気の所為としておきたい。
間もなくティーシャツに着替えた洋平は別の缶ビール一本をレジへ、交代のバイトに代金を支払い、定刻通り今日の仕事を終えた。そして入り口に立つ神の許へ歩み寄り、お疲れを言う彼に後の予定を尋ねるが、具体的な答えは自然と逸らされ、そのまま雑談を交わしながら夜道を辿った。
そして、結局着いたのは先日の公園だった。土手を下る階段に並んで腰掛け、真っ暗な芝生を広く見渡す。背中の外灯だけが階段を白く照らし、足下には二人の身長差があからさまに伸びるそこで、他愛ない話をしていた。
「酒は人生の怒りを流してくれる……だっけな? ルパンが言ってたんだ」
神は得意気に語ってから、夜の心地良い風にプシュッとタブを弾かせ、喉へ一気に流し込んだ。実に爽やかな光景だった。しかし唇が離れるなり、早くも俯いたようだ。闇に染まる顔半分には薄く陰りが覗いていた。
「はーあ、負けちゃった」
微笑みつつも上がり切らない頬……今日の痛みを精一杯溜め込んで見えた。すでに落胆を通り越し、むしろ清々しく嘆く彼は暫く消化出来ないだろう。
洋平は、何も言えなかった。かけてやれる言葉など何一つ浮かばなかった。そのショックがとても計り知れないなら、それまでの努力もまた計り知れないからだ。その首にかかったタオルはまさか……試合後も一汗かいてきたというのだろうか。そこまでの努力をしたこともない、する気もない洋平に何も出来ることはなかった。だから、隣の重い溜め息には無愛想に一言。
「神さんきっと、今日は何しても忘れられませんよ」
「だよね……」
洋平もタブを開け、クッと口許で傾ければ、隣の重い口が再び開かれる。
「……監督が言ったんだ。うちに天才はいないって。だがうちが一番だって。……でも結果はこうだ。結局努力は天才に適わないんだよ」
やや投げやりに言って、更にビールを流し込む彼に否定はしないでおく。天才も努力なくてはただの初心者だと、言うのは今でなくていい。
「忘れたい……?」
……これだけ。今日中に忘れたいのであれば、どうにかそれを叶えてやることで突き指を負わせた件も同時になかったことにしてもらえるだろうか。
洋平もまた罪悪感を解消するため、嫌われるのを覚悟で、それは歴とした必要悪だと認めた。
「そりゃあね」
そう力なく発した神に、その膝の上に、立ち上がった洋平は透かさず跨ったのだ。「え………………?」と大きく見開く瞳に瞬く間も与えず、じわりと詰め寄り、声の出ない無防備な唇を無言で奪った。
……風も止んでいた。しんと静まる景色は外灯の白以外よく見えず、それは、彼の呼吸すら止めてしまう……
手前ですっかり固まってしまった神のその唇は、漂う苦味以上に柔らかだった。ただ触れ合うだけの感触に不自然な汗が滲み出て、同性を意識するなら尚更、重なった下半身が不思議と続きを欲していた。しかし、心地良いとすら感じ出した自身がふと怖くなり、洋平は自ら仕掛けておきながら咄嗟に唇を離れた。
「……はい、これで忘れました?」
目の前の無言の彼にニヤリと言って見せた。……それは同性からの、不釣り合いな男からのガサガサで汚ないキスだ。試合の負け以上にショックなことなど他にあるだろうか。これぞ強力な必要悪だと、自負した洋平は鼻で笑った。





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