翌日――。決まって暇を持て余すのは上がりの近付くその時間だ。時計を見上げつつぼんやりと頬杖をつく洋平の許へ、洋平一人のレジへ、スポーツドリンクとガムを差し出したのは昨日のあの彼だった。
黒い短髪は軽く湿り、首にタオルを掛けているがやはりジャージ姿だ。
「お疲れさん。昨日は本当に……」
洋平はバーコードを読み取りつつ、店側としても今一度丁寧に頭を垂れた。
「水戸くんもお疲れ」
ふと苗字を呼ばれるが、見上げた先の大きな目は胸元の名札を見ていた。ああこれかと納得する前に、洋平が心配すべきは昨日の今日だ。
「神さん手は……?」
それは昨日とは別のテーピングでしっかりと固定されていた。
「ああ、取り合えず様子見。治るときは治るんだ」
「え……? じゃあ病院は?」
「行こうとは思ってたんだけど、練習に夢中になってたらすっかり忘れちゃって」
「もしかして、こんな時間まで練習してんすか?」
何でもなく言ってくれる彼は昨日と同様、肩にスポーツバッグ提げたジャージ姿は、まだ家に帰っていないらしい。
そう言えば今月は予選で、月末は決勝リーグであることを思い出した。
「ああ、まあね」
ここは感心を通り越して苦笑するところだ。
「はあ、流石っすね……」
「今年も湘北に勝つためだから、当然だよ」
そうあっさり応えられてはもう返す言葉などなく、洋平は小計ボタンを押した。
「王者海南っすもんね。二百四十円で」
「じゃ、水戸くんもがんばって」
彼はその翌日も顔を出し、その翌日は来なかったが、そう毎日買い物などないだろうと気には留めず、定刻通りにバイトを終えた洋平は真っ直ぐアパートへ向かった。
前開きの学ランを肩にさらりと羽織り、脇腹に初夏の夜風を通しながら、指に引っ掛けた指定の鞄を背中に、まだあまり慣れない夜道を辿った。
時間にして徒歩十分程か、アパートの門まで行き着いたところで洋平はふと立ち止まった。暗闇の中ポケットを探るが、街灯の淡い明かりで鞄も隅々まで探るが見当たらない。ブランドのタグの付いたアパートの鍵がない。どこに忘れたか、家主である水商売の女の帰宅は当然今日も午前様だ。
「はぁ………」
一階のドアの前に立った洋平はその場へ力なくしゃがみ込み、早速取り出した一本を手に、彼女の帰宅を待つことにした。生活音も静まり出した住宅街へ、真っ黒な肺いっぱいに溜め込んでから、フーッと今日の疲れを吐き出す。何が疲れたわけでもないのに、無駄に疲れた顔をしてみる。薄い鞄の奥によく見えない腕時計を確認しては、あと二時間の退屈にすっかり目が眩んだ。肺の黒さが増すだけの時間にただただ呆れていた。
そこに、道路を行く足音がすぐ近くでぴたりと止む。
「あれ? どうしたの?」
聞き覚えのある男の声に顔を上げれば、それは白い煙の向こうから、今日は来なかったその人がこちらを覗き込んでいたのだ。
街灯の下、門前の道路に立つジャージ姿は今練習あがりなのだろうか。洋平は咥えていた一本を摘み取り、後ろのドアを親指で指しながら事情を明かした。
「ああ、鍵なくて入れねんすよ」
「え? じゃあずっとそのままなの?」
「いやあ、同居人が帰ってくるまでかな」
「いつ帰ってくるの?」
「まあ遅くに……」
言っては早くも淋しがる唇へそれを戻してやった。だらしないヤンキー座りをどうぞ嘲てくださいと、先日の優等生ぶりに次元の差を見せられた洋平は、それとなくさよならを促したつもりだ。こんな不良が知り合いというだけで癪だろうと、今更ながら、見られたからには開き直るべきだと、いっそ煙を濃く放った。
しかし彼はにこやかに立ったまま、両手を背中に組んで見下ろしている。
「じゃあ、遊ぼうか」
屈託のない、胸をすく笑みがニコッと傾き、洋平を楽しそうに誘っていた。
開けた口から、うっかり煙草を零しそうになった。
「……? 今から……?」
「ああ、嫌だった?」
「いや……だって、神さんは平気なの?」
「うん、俺は平気。一人でずっと待ってるのもつまんないだろ?」
洋平はまず、三分のニを残した一本を足下に捨て、コンクリートに踏み付けた。すぐに立ち上がり、気を遣ってくれただろう彼の許に歩み寄った。
「すいませんね。でも、何します?」
こんな時間に自分なんかと一体何をするというのか。やめとく、の一言が出なかったのは、きっとその真意が知りたかったからだ。遥か上の顔を見上げて覗き込むが、街灯が眩しくてよく見えない。
「んー……そうだね。夜だし、少し早いけど花火しよっか。コンビニに売ってたよね?」
「んまあ……」
すっかり更け込んだ住宅街で、ついさっき出て来たばかりのコンビニへ二人で引き返していく。哀しい程に長さの異なる歩幅を揃え、並んで歩く初めての距離感は夜風に似て新鮮だった。
「タバコってうまいの?」
ひょんな頭上からの問い掛けは、きっと学ランに染み付いたこの悪臭に対してだろう。
「ああすいません、臭います?」
「平気。ちょっと興味があっただけ」
「いやあ不味いし、やんないほうがいい」
だって……
「神さんなんかつけてる?」
「……? いや」
「いい匂いしますね」
「そう? 汗臭いはずなんだけど」
おそらく柔軟剤か何か……夜風に乗って隣から漂う清潔な白の香りが先程から気に入っている。黒に満ちた肺奥へすうと注がれていく、その馥郁にはすでに侵食されていたのかもしれない……――――
さすがにこの時間は誰もいない、しんと夜風も佇む真っ暗な公園で、広い芝生の中央でコンビニの袋を囲い、手探りで開封したところで神が忘れ物に気付いた。
「あ、火ー点けるのないや」
洋平はすぐポケットから取り出し、差し出された二本の先に黙って点火した。
「はは、準備がいい」
あとは暗闇に眩しく放つそれを一本ずつ持ち、二人仲良く並んでしゃがんだ。シューと噴き出す七色をぼんやりと眺め、最近知り合ったばかりの彼と、少し早めの夏を見守っていた。
「……この前の後輩、今年入部したばかりの部員だったんだ」
ふと呟いた隣の声が噴射音に霞む。
洋平が隣を覗くと、火花の明るみを赤く受ける横顔はそれを見つめたまま、淡々と事情を零し出した。
「うちの部は練習も監督も厳しいからさ、もう毎月のように退部するヤツがいるんだ。昨年の全国二位もあって、四月には何十人って部員がいたんだけど……はは、もう十人いないよ」
フッと苦い笑みを上げた神は徐々に表情を消し去り、再び切なく口を開いた。
「先日の後輩はPGとして頑張ってたんだけど、ずっと牧さんがいた所為かな。監督がいやに厳しく当たるんだ。あんまり後輩育ってないから仕方ないとは思うんだけど、彼はやる気なくしたみたいで……。俺、それなりにフォローしたつもりなんだけどさ……」
そこまでを思い詰めたように語ってから、神はぼんやり聞いていた洋平を見て微笑んだ。
「なんかゴメンね。つまんない話聞かせちゃって」
「いえ、湘北にいいタレ込み出来そうだ」
「はは、参ったな。うっかり口が零れたよ。……そういや俺、昔家の中で線香花火して怒られたんだ」
思い立ったようにコロッと話題を変えた神は、同時に先の憂鬱を消し去ったようだ。
「ああ、俺もガキん時やったな。二人して怒られたんだ」
洋平は笑顔につられ、軽い思い出話を述べたものの、つい浮かべた微苦笑をそっと陰りに封じた。遠い昔の火遊びを手にした一本に重ねるが、それはすぐ、儚く灰になってしまった。
すると更なる一本が手渡され、消えればまた一本が、挙句には数本ずつと、袋の中を次々消化してゆく。
「水戸くんは、なんでバイトしてるの?」
隣の問い掛けに、洋平は膝に頬杖をつきながら調子よく応える。
「ああ、暇だからじゃないですか? だったらその時間働いて金になった方がいいってね」
「ふーん」
「俺神さんや花道みてぇに、一つのことに集中したり努力したりってできないから」
「はは、そうなの?」
「ああ、楽ばっか選んでんだ」
「それは、好きなことじゃないからじゃない?」
「ああそれは……あっかな」
「だって煙草は続いてそうだし」
ニヤリと言い得た彼には思わず表情を崩される。
「ははは、そっすね確かに。神さんは、やっぱりバスケ好きだから努力してんの?」
「うん、きっとそうかな。俺も昔、監督にちょっと言われてさ。センターは無理だって。もちろんそれで諦めたわけじゃないけど、他に伸ばせるところもあればってシュートに徹したんだ。でもやっぱり悔しかったから、正直今も根に持ってるよ。それは実力でしか返せないから、だからさ、俺、今年も絶対に優勝しなきゃ気が済まない……」
……特にその後半を、語勢強く告げた横顔に一切の綻びはなかった。燻っていた感情が炙り出されたか、暗闇を射る眼差しは鋭く、今年の栄光を逞しく見据える。
洋平はそれを、顔を向けて、この目でしっかりと捉えていた。鮮やかな閃光をそのままに映した黒い瞳を、薄淡く染まった白い素肌を。花火そのものよりもっと幻想的な場面に、洋平も知らない未知の感性が色付いていた。自分がその場にいることすら暫く忘れていた。
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