禁煙席 1 |
「ありがとうございました」 ……と、笑顔で発し続けること五時から十時まで。二年に上がり少し経った今、女のアパートに転がり込んだ洋平は近くのコンビニでバイトを始めていた。学校は少し遠くなるが、性欲盛りの高校生が毎晩セックス出来るとなれば寧ろ健全といえよう。溜まるものは吐き出さないと、心にも身体にも不健全だ。しかしそのセックスが健全かと云えばまた違うのかもしれない。基本は彼女から、上から覆い被さってきては好きなように動いてくれる。 「俺よく知らねーから、教えて?」 年下からの魔法の言葉で洋平の理想は叶った。仰向けに寝た彼は煙草を咥えながら、巻いた茶髪に添えた左手を導かれるまま下の方へ、終盤のみ体位を変わり、腰を揺らすだけでいい。年下が可愛いとか、所謂ペット扱いだから、無駄口叩かず可愛がられていればそれでいいのだ。 彼女とは以前のバイト先で先輩を介して知り合った。洋平と同じ煙草を吸っていた、細身で大人びた年上のキャバ嬢だ。小うるさくないこととスタイルの良さがポイント高く、何故か一方的に気に入られたら断る理由もなかった。後は先輩の仲介で、流されるまま求められるままのお気楽性生活に落ち着いたわけだ。 ペットとしてヒモでいられることには何より出費が抑えられ、体も不自由しないこの現状は我ながら合理的だと、洋平は青春の在り方に頷いていた。 そして今日も、学校を終えるとすぐ電車に乗り、そのままバイト先へと向かう。学ランを脱ぎ、ショップカラーの制服に袖を通し、「いらっしゃいませ」と爽やかな笑顔でレジに立つ。 仕事をするからにはしっかりその賃金分尽くすのが洋平の信条だ。柄にもない笑顔を向けたところで客は真っ直ぐ商品棚へ向かうわけだが、こんな身形でも雇ってくれた店のため、ついでに最速の時給アップを目論んでいた。 去年のインターハイ後……。自分の何かとやらを洋平なりに考えてはみたが、結局結論には至らなかった。ただこうして働くことで、金が入れば多少社会勉強にもなっているわけだから、何もしないよりはマシだと開き直っている。 ありがとうございましたーと丁寧に客を見送り、更には万引きチェックも欠かさない。これに至っては手馴れたもので、まず自動ドアが開いた時点で大方察しはつく。 上がりの近付くこの時間、ブレザーの中に着たフードを深く被り、下向きに入店してきた学生らしき少年……。 俺の前で悪さするとはいい度胸だ――。 洋平は成年雑誌コーナーへ向かった少年に、いや、レジ下の防犯カメラ映像に目を光らせた。他の客が画面から消えるなり、その少年と画面越しに目が合い、即向けられた背中には思わずほくそ笑む。透かさずもう一台の逆視点画面へ目をやった。やがて手にした一冊を下へ、空いたブレザーの内側へそっと隠し入れる瞬間を見届けた。 やりやがったな……とレジを離れた洋平は速やかに雑誌コーナーへ、手にしたケースは品出しを装い、自動ドアへ急ぐ少年の背中へ素知らぬ顔で迫る。そして近付くブレザーの腕を背後から掴もうとしたその瞬間……チッと舌打ちが聞こえ、犯人は一目散に駆け出した。 気付かれたか……。 「待て泥棒っ!」 逃すものかと直ちに追いかける洋平だが、スタートダッシュに出遅れたせいで伸ばした手に掠りもしない。 「クソ待ちやがれ!」 すると、折しも来店してきた客と突っ走る犯人がなんと激しく正面衝突。自動ドア前で重なり倒れたその上へ、洋平は透かさず飛びかかった。その際、手にしていたケースを夢中で投げ落としていた。 「すいません、すぐ退きます」 運悪く下敷きになってしまった客へ詫び、洋平は犯人の腕をしっかり取り押さえてからサンドイッチを降りた。 「すいません、万引きがあったんで」 しっかり腕を掴んだまま、上がった息を整えながら再び頭を下げれば、痛たた……と右手を庇いながら起き上がる客には思わず目を凝らした。 「あれ……?」 するとその客もまた、ゆっくりと犯人のフードの中を覗き見、「あれ……?」と不思議そうに首を傾げている。気まずそうに顔を背けた犯人に対し、「まさか、万引き……したの?」とその高い背中を屈め、可愛らしい顔立ちながら冷たい眼差しを刺していた。 「あ、知り合いですか?」 口を挟んだ洋平に、「ええ」と応えた客は大きく息を吐き、陰らせた顔は急な落胆を隠せないでいる。 そんな長身の彼はKAINANのロゴ入りジャージを着ていて、犯人のブレザーもまた私立を窺わせる制服だ。察した洋平は取り合えず雑誌を拾い、二人を奥の休憩室に通した。出勤したバイト仲間には理由を告げ、あとはパイプ椅子三つを囲うように広げ、事務的な個室に簡素な話し合いの場を設けた。 専ら俯く犯人と、対する落胆の吐息で中の空気は重く沈んだ。ドアの向こうのいらっしゃいませが三つの席の間に虚しく響き渡り、嫌な静けさが増す。 洋平はまず、大人しく抵抗を見せない犯人には目を光らせつつ、明らかに見覚えのある彼の右手を窺った。 「それ、消毒しませんと……」 白い指に滲む微かな血は、衝突時洋平の投げたケースにぶつかり、その淵で切れてしまったのだろう。万引き犯を捕らえるためとはいえ、店員が客に怪我をさせたことに変わりなかった。 しかし顔を上げた彼は優しく微笑み、「ああ、平気ですから。それより……」と体を向き変える。すっと表情を消し去り、それは再び、改めて犯人を問い詰めた。 「……ねぇ、なんでこんなことするの? わかってるとは思うけど、うちは私立だよ? 退学になったら親にも迷惑かかるの、わかるだろ?」 じっと詰め寄る大きな瞳に、犯人は決して視線を上げず苦々しく舌打ち、ガラ悪く悪態をつく。 「つーか関係ねぇだろ? 俺はもう部活辞めたんだ。いつまで先輩面してんだよ」 すると咄嗟にガタッと椅子を揺らし、勢いよく立ち上がったジャージの彼は洋平の目の前で犯人の胸ぐらを掴み、そして、顔に合わない冷ややかな声で再び責め立てた。 「なあ、その態度はないだろ? お前何したかわかってんの? まずは謝るのが先だろうが」 適度に抑えた声音が却って威圧的で、加えて静かな薄目が、洋平の背中に微かな悪寒を与えていた。 ああウゼェ、と吐き捨てた犯人は、手をポケットに突っ込んだまま立ち上がり、かったるそうにこちらへ頭を下げる。 「すいませんでした」 不機嫌な声にあまり誠意は聞き取れないが…… 「代金は俺が支払いますから、その、出来れば……」 並んで頭を下げるジャージの彼が、洋平の手にある雑誌に目を落としていた。 そんな彼に、洋平は今更ながらどうしても確認しておきたい。 「ていうか神さんっすよね?」 ……海南バスケ部6番の神を、洋平はしっかりと記憶している。花道の応援へ出向いては、去年一年間だけで無駄にバスケの知識が詰め込まれていた。周りに比べるとやや華奢な体から、天衣無縫に放たれた3Pシュートは洋平にも鳥肌を与えていた。何より、ここは海南からとても近いのだ。 程なく疑問の顔を上げた神に、洋平はにっこりと素性を明かす。 「俺湘北なんすよ。花道のダチで」 「ああ、桜木の……?」と、あまり興味なさそうに応えてくれるのはきっとこの場面だから。未だ落胆を払えない顔には漸く安心を与えてやりたい。 「いっすよ。警察にも親にも店にも言いません。そのかわり、彼暫く出入り禁止っつーことで」 神はなんとか胸を撫で下ろしたようで、ホッと安堵の息を吐いていた。 「本当に、ごめんね」 「いっすよ。後輩なんすか?」 「うん、元ね」 あとは俺が支払うからと、神はその少年を帰した後で再び雑誌を指した。 「それ、いくらかな?」 表紙の半裸女は酷く折れ曲がり、とても商品として陳列出来るものではない。しかし…… 「いやそれより、神さん手……」 バスケ選手の大事な指を、神は先ほどからずっと逆の手で握り締めている。 「いや平気だよこのくらい」 そう言ってくれるが、握る手は明らかに固定を試みており、もし中に異常があるとすれば頭を下げるでは済まない。 「いや、ダメだ」 すぐに応急処置を、洋平は奥の救急箱を取り出した。腰掛けた神の正面で膝を着き、まずは手に取った彼の指の切り傷を、吹き出た血液をティッシュで拭い、そこに消毒液を垂らす。 神は一瞬身を竦め、「悪いね」と顔を引きつらせた。 「いえ、こっちこそ」 薄く腫れ出した患部を見ては冷却を、洋平はカットした湿布をあてがい、長い二本の上からテーピングを撒いた。 「慣れてるね」 「まあ。でも、明日必ず病院行ってくださいね」 そこは強く言って、テーピングを鋏で切り、簡単な処置を済ませた洋平は漸く腰を下ろす。 「あとこれ……」と再び落とされた視線には透かさず…… 「いや結構です。怪我させたのは俺っすから。それより治療費は支払いますんで、後日また伺ってください」 先の少年と違い、洋平は誠意を込め神妙に告げた。が、神もまた食い下がった。 「いや、それはいいよ。見逃してくれたんだから、これでなかったことにしてくれるなら本当にじゅうぶんだから。……あ、それで、桜木はどう?」 ふと思い出したように神の声が持ち上がる。やっとの笑顔が蛍光灯に明った。 「まあまあ調子いっすよ」 「あんまり頑張んないように言ってよ」 「それは出来ませんね」 「はは、まあ俺も、負けないよ」 ニッコリと爽やかに言って見せる、目の前で立ち上がった長身は下から見上げる他になかった。 「じゃ、本当にごめんね……」 天井に着きそうな頭が再び下げられ、彼はそのままドアの方へ、スポーツバッグを肩に掛け、すらりと長い足で立ち去っていった。 「こちらこそ……」 洋平は、そのスマートな背中を見送った。 あとは三脚を片付け、漸く仕事の締めに入る。まず折れた雑誌を手にドアを出て、そのバーコードを読み取り、財布から取り出した小銭をレジに納めた。バイト仲間の接客中に防犯ビデオを逆戻し、少年が現れたところで録画ボタンを押し、学ランに着替えた頃にはすでに十一時を回っていた。 |
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