低気圧をこえて 9

それから数日後、母親から「木暮くんから」と電話を取り次いだ花形が、その電話の主と落ち合ったのはそのまた数日後のことだった。
バイトである家庭教師の研修その他予定の調整として、月に一度営業所へ立ち寄るその日。しかし今日花形がここに来た理由は、バイトを辞めるためだった。
……先月のこと。彼は父に紹介されたとある男と会った。彼は父の元同僚で、実業団バレーを共にしていたことで、バスケと日々の生活の両立を志す花形に理解がある。且つ、彼がこれから立ち上げる会社というのが知とエンターテイメントを融合させた凡ゆる商品開発というクリエイティブなもので、すでに商談を経た取引先は名のあるものばかりで、つまりそれだけのコネクションを持つ彼の人柄にも花形は強く心を惹かれた。よって四月からは学生社員として就職が決まったから、という理由で、事前に今日を以って辞めることを告げてあった。
その後木暮と待ち合わせた営業所前で、互いを懐かしむのも程々に、あの最寄の喫茶店へと足を運んだ。
この度、木暮からの急な連絡の旨はドリンクが運ばれて早々に明かされた。
「何かあったのか?」
バスケサークル仲間の神から様子を窺ったと聞けば、花形も納得したようだ。
花形が明かした不調の理由は、学生社員としての生活を目の前に控えた彼にとって当然の不安だ。目上の人間との付き合い方やマナーの他に、初の引っ越し、一人暮らしも控えている。
そこから自然と就職を主題に会話を転がし、気付けば木暮の就職活動への不安に話題はすり替わっていた。
木暮はこの時、花形の言った「やりたいこと」に何か手応えを得たようだ。出てきたばかりの営業所を窓の向こうに眺めては、そこに自らの将来と希望を見つめていた。今日の目的は違えど重要なきっかけを手にしたその手前で、花形の心はその逆の方へと落ちていった。視線を遠くぼんやりと、ホットコーヒーの湯気を見つめているようで見ていない。ただただ表情が翳っている。
気付いた木暮がついに核心を衝いてきた。
「彼女と、何かあった?」
その相手を知らずとも、彼女でもないにしろ、以前ここで語り合ったことで木暮は存在の有無のみ知っている。それならば……花形はそっと、事実を零し出した。相手の正体は見事にぼかし、別れが近い、それが辛いという恋人として当然の想いを語ったのだ。
そんな事情を一頻り噛み砕いた木暮は、深い同情を口にした。が、それでも健気に恋人を待つという、頼もしい言葉を返してきた。
「地球の裏側にだって決して行けないわけじゃないんだし、いざって時はどうにかしてでも会いにいくよ。俺にはじっと待ってる方が苦痛だからな」
それを聞いて、花形が零した苦笑に含まれた思いは二つだった。
木暮のようなやつに限って、強いメンタルを持っていたりするんだよな。
木暮ならきっと、辛い恋愛も乗り越えることが出来るんだろうな。
……つまり、自分は木暮に敵わないという小さな敗北感。木暮と悩みを交わしたことで救われるどころか、却って挫かれたことで、花形は終始微苦笑を貼り付けていた。
しかしそれに気付かない木暮は、バイトを通して再会し、悩みを打ち明け合うに至った今の二人の関係に喜びを馳せていた。木暮曰く、初めて見た花形は冷たく近寄りがたい存在だったそうだ。それは花形にもよく思い当たるようで、そんな自らを省みるのように自虐を込めた過去を語り出した彼は、もうすっかり淀んでいた。それをどうにか隠しきり、駅で木暮と別れた後、片手に額を支えつつ最寄のトイレへ急ぐ。鞄から取り出したのはあの錠剤だった。

――それからまた数日後、一月半ばのことだった。花形が藤真に電話で伝えた。
一ヶ月ほどチームへの参加を休みたい。理由は就職に引っ越しに向けて色々と慌ただしくなるため。
藤真は「わかった」とだけ答えた。




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