低気圧をこえて 8

ちょっとした事件が起きたのは翌日、一月四日の暮れのことだった。
花形の両親に続いて帰宅した惺が終始浮かない顔をしていて、練習に出掛けるまでの間、ずっと玄関の電話の前に佇み項垂れていた。
やがて花形の車で二人は練習へと出向き、体育館でウォーミングアップを始めたところ、惺が動いた。
比較的穏やかだった風が荒れ出し、館内の窓を叩きつける木枯らしの中、館内に続々と到着するメンバーに続いて神も顔を出す。その背中について来た惺の親友、純平のその双子の兄である洋平の姿を見つけるなり、持っていたボールを放り出した惺は一目散に駆け寄っていった。コートの外で洋平に必死で何かを訴えた彼はすっかり青褪め、あまりの肩の落としぶりには後から遅れてきたメンバーも一瞬立ち止まる程だった。
彼らはすぐに動いた。洋平と惺に続き、神までが廊下へ引き返していった。
その慌ただしさから事態を察したメンバーもざわめき立つ中、程なく戻ってきた惺が藤真に急な早退を申し出たのだ。そして急いで館内を出る惺と入れ替わりに神が戻ってきた。事情は練習後に話すとし、あとはいつもの練習に戻った。コート上に威勢の良い掛け声が響き渡った。
が、一体何が起きたのか……。三人の慌ただしさから事態が深刻且つ急を要すること。事実、いつも張り切って練習に励んでいる惺が理由も告げずここを飛び出していったことに、皆が目の前のボールに集中できないでいた。
「そういえば、惺のやつ昨日休みだったよな」
「今日もずっと暗かったし、新年早々、一体何があったんだか……」
「前みたいにまた喧嘩してくれても困るんだけどな」
最早第二のセンターとして、ムードメーカーとしても機能する惺へのメンバーの憂慮も尤もだが、今は練習中。翔陽体育館より広い、ここ市の体育館へ移っての初練習。昨日の試合を今年の初勝利で迎えたとして、それはもう終えたこと。
たった今、ネットを裂くように素早くリングを潜る音が皆の注意散漫を断った。この中で唯一事情を知る神の、人目を惹くには充分過ぎる鮮やかなシュートだった。
続いて藤真の喝が飛んだ。
「まさかとは思うが、このくらいで狼狽える肝っ玉持ってるヤツはいっそ潰しとけよ。ここは仲良しクラブじゃねーぞ! なぁ花形」
突として同意を投げかけられた花形は、立っていたコートの後方から「あ、ああ……」となんとも頼りない声を返す。
現在も副キャプテンを務める彼に集まる皆の視線に、はっと顔を上げた花形は今漸く、何かに気付いたようだった。
練習後、神から話し出さないことには何が語られることもなく、モップ掛けを済ませたメンバーは消化不良ぎみに館内を去っていった。しかし消化不良では済まない人物が一人。更衣室へ向かう途中の廊下で、コート上とは打って変わり、先の惺の憂鬱を肩に乗せた神に、慌てて公衆電話へと駆け寄るその背中に花形が尋ねた。
「それで、惺は……」
「俺、これからすぐ連絡を取ります。そして惺から花形さんの自宅に電話するよう伝えるんで、花形さんは早めに帰宅してください」
「それで一体何が……まさか……」
まさか、また喧嘩に巻き込まれたんじゃ……
眉を顰めた花形の尤もな不安は明らかで、そして正解だった。
「そのまさかです」
すでに左手に受話器を、右手で番号を押す神の、何の躊躇いもない返事だった。
「そんな……」
「でも大丈夫ですよ。惺は大丈夫だから今日こっちに戻ってきて、そしてこれからもきっと大丈夫だから、洋平が連れてったんです。……あ、もしもし?」
わけがわからずに立っている花形の隣で、神が受話器の向こうの相手に自らを名乗る。同時に相手の大きな声も受話器から漏れ、薄暗く静かな廊下に響き渡った。
「だから、なんでテメェが俺んちの番号知ってんだよ!」
「それはいいから桜木、洋平に伝言頼むよ。洋平は俺に、惺は自宅に電話するよう伝えて」
「は? 伝言ったって俺は今洋平といねぇし、あいつがどこに居っかも知らねぇよ!」
「じゃあ探してよ」
「は? テメェ何様だ……!」
「よろしくね桜木」
「お、おいちょっ……」
受話器が置かれた隣で、桜木の声を聞いた瞬間から唖然としていた花形が我に返る。
「……いや、今の伝言伝わるのか? 桜木は水戸くんの居所知らないんだろ?」
「うーん、まあ大丈夫ですよ。もし伝わらなかったとしても、連絡がなかったとしても、惺の身に何か起こるってことは絶対にありませんから」
きっぱりと断じる神のその根拠は、「水戸くんがいるから、か……」そう花形が察した通りで、他に確たる根拠はないようだ。ただ、「惺を、あいつらを信用してやってください」と言う神は笑って、連絡がなければ自分も動くからと、そう告げた。
神を問い詰めるばかりで、ここまで惺に何を質そうともしなかった兄は、「いや、いざとなったら俺も動く。悪かったな」先に更衣室へと向かった。
同時に館内の灯りが落とされ、非常灯の緑の光が唯一廊下を照らしていた。
「花形さん……」
遠退く背中を見つめる神の瞳は、何か別のことを案ずる。その背後から今度は藤真がやってきて、神の肩に手を、今日のゴタゴタを労った。
「色々大変そうだな」
「いえ。まあ。それより……」
案ずる先の背中はすでに暗闇の向こうに消え去ったが、藤真は「ああ……」と頷く。キャプテンもキャプテンで、諸々の懸案事項に頭を悩ませていたようだ。
「あいつのことは、少し待っててほしいんだ。皆の不満もわかるが、急いで解決できることならとっくにそうしてる。さすがに辞めるなんて言い出したらこんなことも言ってられないが……」
「や、辞める?」
「いや。でももう少しなんだ。ただ、今年の冬は厳しいからな……」
誰も居ない、静まり返った館内で、強く打ち付けられた窓ガラスがガタガタと悲痛を訴えていた。

その晩、神の伝言通り惺から花形宅に電話が入る。
「純平が怪我した。今夜は帰れない」
ということで、例に倣って母親が早速愚痴を零していた。
「やっぱり、まだそういうことしてたのね……」
「惺の友達は信用できるから大丈夫だよ。俺もよく知ってるから」
そんな長男の一言で少しは静かになったものの、母親はその友達のことも引っかかっていたらしい。
「そもそもその純平くん? だってどこの子かもわからないし。一緒の専門学校に行って一緒にルームシェアだなんて、なんだか惺が、また悪い方に引き摺り込まれていくみたいで……」
「惺だってもう子供じゃないんだし、自分の友達も将来のことも自分で選択するさ。デザイナーになりたいなんて、意外といいセンスしてるし、いい夢持ったと思うよ」
「そうは言っても、今回のことだってその友達が絡んでるんでしょ? 仮にもし本当にデザイナーになれたって、その子が一緒に居る限りどうせまた喧嘩して、いずれ人生棒に振るんじゃないかって心配で心配で……」
「いや……」
否定しようとつい立ち上がった長男だが、そこに割って入ってきたのが風呂を出たばかりの父親だった。
「友達って、確か水戸くんだろ?」
「あら貴方知ってるの?」
「ああちょっと。その父親が、取引先が贔屓にしてる店のオーナーで、一度話をしたんだよ。貰った名刺の苗字で思い出して、尋ねてみたらそうだった」
そのオーナーからした息子の純平には、ただただ申し訳ないばかりだと語っていた。離婚で仲良しの双子を引き離し、忙しさを理由に、自分のことばかりで親として何もしてやらなかった。その負い目があるから、例え悪さしようと叱ることも出来ず、金で済むことは全てそれで解決してきた。してやれることはそれだけだった。
しかしその悪さにもしっかりとした理由があり、本人なりの道理があるから尚更責められずにいた。馬鹿は馬鹿でも一人の男を全うする息子の姿が頼もしく、却って居た堪れなくなるのは親の勝手で、きっと逆境が子を育てたんだと、その逆境を産んだ親が言うのも憚れるから、今もこれからも、何も言わずに後ろから見守ることしかできないでいる。
「……とまあ、そんな話をつい先日だよ。うちとはまるで真逆ですねって話してたんだ。うちは小煩く甘やかし過ぎて見事な甘ったれになった。あちらさんは、少し強く成り過ぎたんだ。それが二人出会って程よく調和されたんだろ。いい凸凹コンビじゃないか。だから俺は、ルームシェアも賛成だよ」
そんな……と発しかけた母の声を長男が遮った。
「きっと明日にはちゃんと帰ってくるよ。そしてそれは、純平くんや他の子のおかげだ。俺は状況を掴むのが精一杯で、結局何もしてやれなかった……」
言った通り、翌朝には惺が帰宅し、この件は片が付いた。後日水戸側の親とも話し合いの場を設け、惺の進学もルームシェアもどうにか認められた。





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