一ヶ月後、二月半ば――。
流川はその日、母親の運転する車で街に繰り出していた。渡米の日を来月に控えた今日、やけに赤やピンクのハートが散らばるデパートへ、地下の駐車場に車を駐めた。
「やけにカップルが多いと思ったら、今日はバレンタインだったわね」
そんな母親の言葉も耳に入らぬ様子で、息子はただその後ろを黙ってついていく。彼は高校三年生にしてこれから母と二人、ショッピングに向かうのだ。が、本人はあまり気にしていない様子だ。
店舗に入れば色めき立つ視線はそこら中の女性から。母親と一緒、という体裁よりやはりその長身と顔立ちには目が食い付いてしまうのだろう。中には当然カップルもいて、男性は不機嫌になる。また要らぬところで嫉妬を買っていた。
そしてそんな親子が買い込んでいるのは衣類だ。いずれもメンズのLLで、主に母親が一方的に喋っていた。
「あっちの気候もよくわかんないから、とりあえず薄着も一通り揃えときましょ。あ、これも試着なさいね」
「あんたはデカイ割にデブじゃないからウエストと丈が合わないのよね。まあ合わなかったら父さんにあげればいいから」
息子はたった一言。
「眠みぃ……」
他にも生活用品を買い揃え、デパート内のレストランで昼食を済ませ、やがてショッピングを終えた二人は車に乗り込んだ。
「あっち言ってもマメに買い物しなさいよ。今までみたいに母さんが全部買ってくるわけじゃないんだから。困ったらすぐに連絡すること。時差とか気にしなくていいからね。でも寝てたらごめんなさいね」
忙しい小言はそれこそアメリカへ発つまで止みそうになかったが、「…………あら、今日はホントいい天気ね。このまま春が来るのかしら」地下を出た途端、ぱあっと晴れやかな空が車内にも広がったことで母の囀りは止んだ。
出逢いと別れの季節はすぐそこで、これから母親が迎えるのは別れの方。歩道を行く人々が上着を脱ぎ、日光を浴びた若者の眩い笑顔に、母はそっと唇を震わせていた。
助手席の息子はそれに気付かず、窓を流れる景色をぼんやり眺めていた。そして、言った。
「お袋止めて」
「えっ! 何いきなり!?」
ウィンカーを出して隅の路側帯に停車する。
「悪りぃ。先帰って」
「は? 一体どこ行くのよ?」
母の問いに応じることなく、ドアを開けた流川は車を降りるとすぐ、走って行ってしまったのだ。
「まったく、いつまで経っても変わらないのね……」
母はにっこりと、笑って涙した。
そして息子が向かった先は、少し戻ったところにある大きな体育館だ。というよりその敷地内だった。
先程窓からの景色に映ったのが、今目の前に立て掛けられている看板だった。
『大学選抜四回戦 S大学 対 A大学』
流川はその門を潜った。館内ではすでに試合が行われ、二階席後方に着いた流川は大学生の試合を観戦。繰り広げられるあらゆるテクニックに目を奪われる中、その存在に気付いたのはすぐだった。
「あれは…………!」
二年……いや三年前、神奈川の頂点に君臨した男。それを去年制したばかりの流川の目に、すでに大学レベルを制覇しようとする偉大な先輩の姿があった。
当時、五人中四人をマークに回してでも止める価値のあった彼は今日も健在で、ボールを手にした今も相手の厳しいマークに堪えつつしっかり隙を狙っている。
「さあどうする……」
しかしそんな流川の問いかけも当然耳に入る間もなく、味方との絶妙なコンビネーションで切り抜け忽ち点を奪ってしまった。
流川は暫し魅了され、口を開けたまま立ち尽くしていた。やがて試合終了直後、目が合ってしまった。
流川のいる客席まで牧が駆け付けたことで二人は言葉を交わす。が、それは数年ぶりの再会とするには苦々しい空気を醸していた。何故なら、牧はあの流川と湘北の酷い対戦を清田らに聞いて知っていたからだ。
「アメリカ行くのは勝手だが、お前が体調が悪いだの甘えを抜かすヤツだったとは、見損なった」
流川の言い訳も一蹴する皮肉の裏には当然、落胆もあるのだろう。そうでもなければきっと、彼は態々そこに来ない。
そんな牧に仙道の名まで出され、流川はとうとう口を閉ざした。充分な挑発とも取れる最後の言葉にも何を言い返すことはなかった。
「何があったか知らないが、アメリカに行けばどうにでもなると思ったら大間違いだ。帰国したらぜひ俺を訪ねてくれ。いつでも負かしてやる」
牧、仙道の他にもきっと、流川の負かすべき敵が国内にはまだまだいる。踵を返した牧の背中に覗いた番号は6。大学レベルは流川の知るそれよりもっと遠くにあるのかもしれない。
時を同じくして、今、花形宅には藤真が訪れていた。
母親の声で階段を降りてきた花形はスウェットに半纏姿で、うっすらと髭を覗かせていた。
急な藤真の来訪に驚くより先に、母親が息子の旧友を家に上げた。
「藤真くん、今年もうちの息子たちをよろしくね。ゆっくりしてってちょうだい」
あとは当の息子へ「あとでお茶持ってくから」の声に促されるまま、花形が藤真を自室に促した。
「で、どうしたんだ急に?」
部屋に招き入れると同時にぶつけられた疑問は、「久々だな花形の部屋」と自然に受け流される。
「お、この魚まだ元気なんだな。あれ? 少し増えたか?」
「ああ……」
花形は床に転がっていた雑誌やCDをさっと片付け、部屋中央のローテーブル前にクッションを置き、藤真の席を空ける。直後、母からコーヒーの差し入れがきて、二人は改めて膝を付き合わせた。
上着を脱いだ藤真の第一声は実にさっぱりとしていた。
「で、一ヶ月経ったぜ?」
花形がチーム参加への休みを申し出てから約束の一ヶ月後の今日、キャプテンとしてチームを統括する藤真にはこれからの都合を知る必要があった。
藤真は続けた。
「お前不在のこの一ヶ月間、試合もなかったおかげで特に支障はなかった。が、惺がな……お前のこと聞かれる度に俯いて。皆がお前を心配して、それを惺に問うんだが、惺はただ、忙しそうだと答えるだけであとは語らない。未だに先日の事件の尾を引いている感じでもないし、見てる方もなんだか気の毒でな。家ではどうなんだ?」
「ああそれは……わからない」
不自然に視線を外す花形に、藤真は「そうか」と頷くまで。今一度、進退の程を質した。
花形は視線をコーヒーの水面に落としたまま、数瞬と呼吸を二、三おいて重い口を開いた。
「それなんだが藤真……悪いが辞めさせてもらいたい」
「理由くらい、言ってくれるんだろ?」
「そうだな……仕事も始まるから、ってとこだ」
「それは、たった今とりあえず取り繕った尤もな理由ってやつだ」
間を置かず返される藤真の台詞はまるで事前に答えを知っていたかのようで、花形はただただ口ごもる。
……つまるところ、知っていたわけだ。藤真は直球で的を射抜いた。
「流川か」
「……!!」
ぱっと顔を上げ、正に図星の視線を返す花形に、それまで慎んで話を運んできた藤真の顔が綻んだ。
「はは、ホントわかりやすいよなぁ花形は」
花形は専ら狼狽え、わかりやすく顔を赤らめながらも口では否定の言葉を並べる。
「何故……いや、流川は関係ない。交友があったのは確かだが、これから暫く会えなくなるのは事実だが、それだけのことだ」
「交友だと?」
「そ……うだ」
片手で頬杖をつき下から花形を見つめる、その旧友の目に映るはそれこそ長年の交友だった。小学校入学からのバスケ部入部に続く、青春をほぼ努力と鍛錬で埋め尽くした思い出が幾重にも重なっていた。
それを断ち切るよう視線を振り切った花形がぼそり。
「……悪いか?」
確信ありきの尋問の末、どうにか開き直ったその素直さを前に、所謂人道に反した関係を藤真が責めることはなかった。寧ろ気付いていたが故の寛容ぶりに、花形の口数も増えていったほどだ。
「言っとくが、俺に偏見なんてない。中途半端な女に引っかかる花形見るよりはマシだと思った。ま、そりゃ最初は驚いたがな」
「……いつからだ?」
「そうだな。もう二年前か? 惺と流川と一志と俺と五人でバスケした時」
「あんなに前から……」
「だってさ、あの日お前ら二人と別れた後、ふと振り返ってみたらすげえ密着しててさ。それじゃなくてもお前ら二人一緒にいるのがあまりに突然で、怪しく見えて仕方なかったのに。そこであんなの見せつけられちゃ、疑わない方がおかしい」
「まあ……そう、だな」
「つい先月だって、二人でこの家に居るところを俺が邪魔したわけだ。それなりに深い関係なのは充分察したよ。きっと流川もかなりお前に甘えてるんだろ? そして花形は、そんな流川が可愛くて仕方ない。立派な恋愛関係だ」
これまで二人しか知らなかったはずの真実を言い当てられ、花形の顔は益々染まった。
「羨ましいくらいだ。それだけ一緒に居られるってことは相性もいいんだろう。まあ色々あったと思うが」
「ああ。そりゃぁ色々あった」
「で、その流川が近々渡米するわけだが……まだ受け入れられないか?」
そこまで核心に迫られては最早誤魔化すことも不毛。足を崩した花形は、胸の内に留めていた想いの数々を少しずつ、蕾を開くよう解き出した。まずは、否定だった。
「いや……渡米はもう以前からわかってたことだし、勿論不安はあるが、実はそこじゃない気がしてる」
「と言うと?」
「流川は強い男だ。誰に影響されることなく自分の信じた道をひた走る。常にやるべきことはわかってて、自分に必要な物だけを確実に手にしていくんだ。俺にはとても出来ることじゃない。しっかりと自分を持って生きる姿ははっきり言って、俺なんかよりずっと大人なんだ……。それに比べて俺は、ダメなんだ。いくら強引に誘われたとはいえ一度浮気した。逃げなかったんだ。流川は許してくれたが、俺の方がいつまでも引き摺ってる有様だ。この前だって、急な流川の引越しが何故か受け入れられなくて、かなり酷いことを言った気がする。あいつからの電話にも出ようとしなかった。……なのに、流川はいつも、俺を許してくれた。大人げないのはいつも俺で、流川はそれを宥めてくれる。だから、流川といると自分が情けくなる。俺の方が年上なのに、ダメな自分が惨めになる。自分が嫌になる。嫌いになる……」
額を右手に覆ってはそこに詰め込んだ苦悩を支え、零してみれば弱音しかなかったことにいよいよ肩を落とす花形を見て、藤真はただ、「お前、変わったよな」花形の内面の成長を見つめていた。
「前は自分より弱いヤツも馬鹿なヤツも見下すというか、対等には見なかったのに、今はまるで逆の立場だ」
それは花形もつい先日、木暮との会話中に改めて省みた自身の性格だった。
「ああ、それは俺も思い知った。今考えても恥ずかしくなる」
「けどそれって、俺の所為かもな」
「ん? なんで藤真の所為なんだ? これは俺自身の変化だ。藤真の所為だなんてとんでもない」
「いや、でもそのきっかけは俺になる」
「きっかけ……?」
食い下がる藤真の思い当たるその転機とは……
「あれだろ? 県予選の、対湘北戦敗退」
花形の表情に確信が走った。
「いくら勢いがあるといえ、赤木流川、そして三井がいたといえ、これまで格下だった湘北に負けるなどまず誰もが思ってなかった。初心者桜木がいちゃ尚更だ。でも結局、その初心者に泡を吹かされたのは事実。練習だけじゃ身につかない、生まれ持った資質と根性ってやつに俺たちはやられた。見事に負けたんだ。……それからだったな。花形が何かにつけ桜木を、湘北を讃え、他にも、端から見下すようなことは言わなくなった」
それが藤真の目から見てきた旧友の変化だったらしく、花形も自らの心と摺り合わせた。
「まあ、確かにあの時のショックは今でも引き摺ってるよ。きっと、俺の人生の中でも大きな意味の敗退だった。言われてみれば確かにあの日からか……。……だが、俺が変わるきっかけがその湘北戦だとして、何故それが藤真の所為になるんだ?」
その答えは、これまで誰より責任を重んじる役割を担ってきた藤真の背中に、痛々しいまでに刻みつけられていた。
「あの時周りに散々言われたことだ。翔陽にちゃんとした監督がいれば、俺が最初から出ていたら……」
花形が透かさず否定する。
「監督は事故死だ。仕方ない。急な監督の手配なんて俺たちだけでどうこう出来ることじゃなかった。後者だって、あくまで可能性の話じゃないか」
「しかしその可能性を一つでも増やすことが『ちゃんとした監督』の務めだろ? 後からこうすればよかったって話が出るようじゃダメなんだ」
「いやしかし、湘北相手に藤真が出るまでもないと言い出したのは俺だ。藤真が交代しようとしたのを止めたのも俺だ」
「いや、最終的な決断は俺だ。花形がどう言おうと監督は俺なんだから、俺が思うようにしたまで。それに勝敗は別として、序盤花形にキャプテンを任せたことは正解だったと思ってる」
今更二年前の試合を掘り出しては反省し、今度は肯定を掲げるという、藤真なりの清算を以っての言い分はこうだった。
「夏の合同合宿でさ、安西監督に言われただろ? 部員のことは全て花形に任せて、俺は個人練習に励めって。あれ聞いた時、俺の考えは当たってたんだって、そう思えたんだ」
「そう……なのか?」
「何て言うか、お前ってその……持ち上げらられば持ち上げられるほど自信が増すだろ? 自惚れじゃなくって、それを闘志に変えられる。部員に慕われ尊敬される、それがお前をより成長させるって、きっと安西先生もふんだんだな」
「……あまり自覚はないが、藤真が言うならそうなんだろな」
「目下の人間を見下す癖も、きっとその裏返しだろう。自信を保つために必要な自己防衛だったり、一種の自己啓発だったり。それで今まで文武両道を貫いてきたんだから、悪いことでもないと思うぜ? それに……」
じっと話を聞き入れ続きを待つ花形の顔は穏やかで、且つ神妙だった。それは誰より正確な慧眼を持ち、それぞれの成長に繋げてきた藤真を監督として認め、副キャプテンの上に立つ者として唯一受け入れてきた彼に対する尊敬と、友情の表れなのだろう。
そんな藤真が言っていた。
「それに、そんな花形のことも、流川は好きなんじゃないか? だから、浮気も酷い言葉も大人げない態度も、全部許してきたんだろ」
唯一二人の仲に気付き、それを第三者として外から見守ってきた藤真の言葉は、今日の決断に至るまで苦しんだ花形の心を解放した。
「そっ……か…………」
痛み入る胸を掌に押さえる花形を、藤真が尚畳みかけた。
「流川はきっと、これからもずっと変わらない。バスケで精進するためならどんな苦労も厭わず、アメリカに行ったからといって、お前を忘れることも決してない。逆に、変わってしまうとしたら、それは花形の方だ」
「俺が……?」
「現にこれまでバスケを休んだ。そして今日、チームを辞めたいと口にしたわけだ」
「それは……」
「流川はそんなお前を、変わってしまったと思うだろう」
二人が歩み寄るきっかけとなった合同合宿で、流川は花形に教えを請うた。当然花形のプレイに惹かれてのことだろう。そんな彼が、事実今日チーム脱退を申し出たわけだ。
「だが、俺にも事情がある」
「事情だと? もう言い訳は充分だろう? もういいだろう……?」
未だ女々しさを見せる花形に藤真が痺れを切らしたあと、彼はふと、何かを思い出したようだようだ。
「ああ、あとあれか」
リモコン、と言っては渡されたそれで藤真はチャンネルを回し、天気予報が映った番組でリモコンを置く。
折りしもお天気お姉さんが報じていた。
「強い低気圧は太平洋へと流れ、南から高気圧が舞い込み、春の陽気を感じられる日がやってくるでしょう」
藤真が問う。
「頭痛、そろそろ治ってきただろ?」
「え……?」
「昔から、気圧が低いと頭痛いって、辛そうにしてたもんな」
立ち上がりつつそう言って、藤真が手にしたのはベッドの傍に置かれた頭痛薬の箱だ。今冬、花形が何かと携帯しては欠かさず服用していたそれだった。
「ああ、もう大丈夫だ」
気温の上昇を伝える予報を見て、そっとはにかむ花形の顔にも漸く晴れ間が覗いたようだ。
そこに藤真がもう一押し。
「他に言うことあるんじゃないか?」
ああ……とすっかり低気圧を拭い去った花形が立ち上がり、藤真の前に手を差し出した。
「今年もよろしく頼む」
そしてチーム脱退の撤回を申し出たが、そこに握手は返ってこなかった。
「そうじゃないだろ花形。今年も副キャプテンとして、キャプテンのためにキャプテンの下で全力を尽くします。だろ?」
「フッ……、ははははは」
最早眩いばかりの笑い声は、後に永遠のキャプテン兼監督と呼ばれる男に更なる活力を与えたようだ。よって、今日もその役目を全うした。
それから見送りついでの帰り道、晩冬に咲く二人の談笑は早くも春の陽気を齎していた。主に花形の髭面を突つく藤真に、「藤真こそ以前……」を繰り返すやり取りを眺めていたツグミが、止まっていた小枝から春に備えて飛び立っていった。
「いつか俺たちもアメリカ行って、一度試合しようぜ。どんな形でも構わない。きっとえらい負けっぷり晒すが、流川にも負けてらんねーからな」
そんな藤真が、別れ際にもう一つ。さらりと放った彼の爆弾発言が、暫くの間花形を悩ませることとなった。
「なあ花形。高校時代、もし前の監督と俺が、実はデキてたっつったら……どうする?」
「えっ……? か、監督と……?」
「なんてな。冗談。じゃあまた来週な。練習遅れるなよ」
「えっ、冗談……? え……?」
例年より早めの春一番が二人の背中に吹きつけた。
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