まな板や野菜クズがそのまま置かれたダイニングルーム、そこから通ずるリビングルームはテレビも点き煌々と明り、テーブルの中央からはもくもくと湯気が立ち昇る。その熱々の鍋を囲むよう取り皿が三つ置かれ、漸く降りてきた流川も加わり、三人が食卓に揃った。
「ウス」
「おう流川。悪いな邪魔して」
久々に顔を合わせた他校の後輩へ、にっこりと向けられた藤真の笑顔はとても親しげだ。流川はぎこちなく視線を逸らし、大人しく手前の席に着いた。最早だらだらと羽を伸ばし恋人に甘える振る舞いは流川に見られず、当然ながら二人は今も、他校の先輩後輩の間柄にあった。
そこに調味料を持った花形が戻り、三人が席に着いて夕食にありついた。主に藤真と花形が話し込んでいた。
「本当はリビングで食事すると母親が怒るんだよ」
「あ、まずかったか?」
「いや、ただカーテンやソファに臭いがつくって話だから、明日にはもうわからないさ」
「相変わらずだな、お袋さん。で、さっきの書類なんだが、ここなんだけどさ……」
箸を進めつつ話を煮詰める二人をよそに、流川はテレビを眺めながら黙々と皿の中をたいらげる。当然話し込む二人より先に腹を満たし、あとは熱を欠いた湯気を前に低い頬杖をつき、バラエティ番組を見つめていた。そのうちそれも飽きてきたか、テレビ台に置かれたリモコンを取り、次々と番組を回していたところ、その様子に気付いた藤真が流川に声をかけた。
「そういえば流川、桜木が牧と同じ大学行くって話、聞いてるか?」
ちらと視線をやった流川は「いや」と一言。聞き返したのは花形だ。
「それ誰に聞いたんだ?」
「神から聞いた。推薦だってさ。なんでも寮に入るらしいぜ」
藤真はそこまで言ってから、頼もしく殊勝なキャプテンの笑みと、また、どこか意味深長に含んだ笑みの境を曖昧にこう言った。
「ホント、桜木も頑張ってるよな。って考えると、俺たちも益々頑張んなきゃなってわけだ。明日の試合だって負けてらんねーよ。じゃなきゃ、きっといつか追い抜かれちまうぜ。また、桜木に負けちまうな……」
流川と、そして花形に――――。
花形の箸が一瞬止まった。同時にテレビのニュースキャスターが明日の天気を知らせていた。
「明日も発達した低気圧が日本全土を覆い、どんよりとした冬空に厳しい寒気が加わるでしょう」
花形が吐いた溜息を、藤真は見逃さなかった。
直後、玄関から鳴り響く電話に花形が席を立つと、二人残されたリビングは少しの沈黙が流れる。断ったのは勿論藤真だ。
「流川はいつ帰っちまうんだ?」
「明日」
「そっか。じゃあ、明日の試合見に来るか?」
「いや」
「なんだ、残念だな。流川の前じゃ、あいつもヘマ出来ないと思ったんだが……」
あいつ……? と訝しむ流川の視線が届く前に、花形が戻ってきた。
「惺からだった。やっぱり明日の試合には戻ってこれないそうだ。前々からの約束がどうだとかで」
「てことは、明日花形の交代はナシだな。頼んだぞ」
「N大だから……確かF川先輩がいるんだったな。あの人のマークキツイんだよな……」
ぼそりと零された花形の弱音に、流川の視線が沈んだ。
食後、帰り支度を整えた藤真が玄関に立ち、二人がそれを見送る。
「じゃ、明日の試合よろしくな」
「ああ」
「流川もまたな。……つってももう……そっか。下手したら、これが最後なんだな……」
ドアを閉め、踵を返した藤真は一人帰路に就いた。はらはらと舞う雪が立ち並ぶ外灯に照らされては消えゆく中、ぼやけた夜空を見上げたのは、流川と似た憂う瞳で。
「低気圧、か……」
小さく零れた白い吐息が、儚く闇に消えていった。
翌朝。一月三日――。
また、二人の別れがやってきた。が、それを惜しむ空気は薄く、昨夜藤真が帰ってから今花形の車で駅へ向かうに至るまで続く、妙な余所余所しさ。そこにいつも流れているはずの旋律もなく、曇り空に朝日も見えず、暖房と走行音が虚しく響くだけだった。
流川が喋らないことこそいつものことだが、眠るでもなく、気まぐれに甘える素振りもなく、流れゆく窓の景色をただ遠目に眺めている。
花形も花形で流川に話しかけるものの、内容はどれも特に返事の要らないものばかりだ。
「今日の相手はN大で、前にも一度やって勝ってるんだが、よりによってセンターが先輩で……」
「そういえば、今年から練習場所が変わるから、毎回車出すようになるんだ」
当然、運転席を見向きもしない流川から何の返答もない。加えて、そんな流川に「どうした?」の一言もないのは、互いに互いを見ていないからだ。だから次第に無言となり、それでいて、嫌な空気というのも生じなかった。
曇りがちではあるものの、凛とした冬の朝の清々しさも今は意味を為さない。二人の頭の中には今、昨夜のことが詰まっていた。
「じゃなきゃ、きっといつか追い抜かれちまうぜ。また、桜木に負けちまうな……」
藤真の放った言葉に呆れも否定もせず、寧ろ核心を衝かれた如く二人は何も言わなかった。
その後、花形がふと零した弱音までが今も流川を悄然とさせ、藤真の言った「流川の前じゃ、あいつもヘマ出来ないと思ったんだが……」の言葉に押し出されるよう、溜息を吐く。
隣の運転席でも重い溜息が零れたところだった。
「そっか。下手したらこれが最後なんだな……」
藤真が帰りがけに呟いた最後が、もう目の前に迫っていたから。ふと見上げた西の空に飛行機が浮かんでいた。
花形が問いかけた。
「こっち発つのはいつになるんだ?」
「三月十日。その前にも下見と手続きで一回は行く予定」
「英語は大丈夫?」
「叔母が英語出来るから、最初だけ来てもらう」
「留学は二年だったな。……それからもずっと、あっちに居れるだけ居るつもりなんだろ?」
流川は頷いた。
間も無く駅に着き、二人は別れた。車を降りた流川の後ろ姿を見送ったのも束の間、すぐに引き返した花形は近くのコンビニに一度停車。そこで持参した錠剤を缶コーヒーと共に飲み込んだ。
その後、夕刻からの試合は結果勝利に終わったものの、内容は散々だった。
|