低気圧をこえて 6

翌朝。一月二日――。広いネイビーブルーのベッドで流川は目を覚ました。薄暗く静まり返ったこの部屋で、彼はぼやけた視界の向こうに何かを見つけた。
枕に右の頬を埋めたまま、窄めた目で見つめるは鈍く小さな光。カーテンから漏れる日光に目を擦りつつ、今一度開けた視界に留まったのは手前のローテーブルの上……錠剤のカラの向こうの、細いシルバーリングだった。上体を起こした流川はリングを手に取り、「T.H……?」裏側の刻印を覗いては眉を顰めた。
しかし持ち主であろう花形がこの部屋にいないことには考え込むこともせず、それより……と言った具合にリングを台に置くと、ふらり水槽の前に歩み寄る。
備えられた餌を勝手に与え、リモコンで暖房を点け、階下からするガチャガチャという物音に一切反応せず、今度は気ままにビデオ鑑賞とくればここは専ら彼の自室だ。昨夜の余韻がまだ残っているのか、デッキに挿し込んだビデオはもちろんsynspilumのもの。以前花形に借りたライブ映像が流れ出した。
そこに、漸く部屋の主が戻ってきた。
「なんだ起きてたのか」
開いたドアから射し込む日光と共にセーター姿の花形が顔を出す。が、依然寝起きオーラを発する猫背は画面をぼんやり見つめたままだ。花形は黙って部屋中のカーテンを開けた。忽ち明るくなった部屋の中央に、あのお下がりジャージを着てすっかり寛ぐ姿があった。
「そのジャージじゃ寒いだろ?」
「さっき暖房点けたから平気」
「そう……。で、朝食できたけど」
「ここで食う」
「ここって……ここ?……まあ、構わないけど……」
天井天下唯我独尊男とまで謂われたこの男を今さっき知ったわけではない。寧ろ深い仲にあるだけに今更何を言う気もない、といった様子で花形が大人しく引き返そうとした、その背中に流川が尋ねた。
「先輩昨日どこで寝た?」
「下のソファーだけど、夜起きたの?」
「いや」
花形が部屋を出ていくなり、昨夜に続く舌打ちが零された。
やがて部屋での朝食を終えたのはすでに昼を過ぎた頃。片付けが済むと、特に予定のない二人はただただ部屋で落ち着く。ビデオの巻き戻しも終わり、今は食後のホットコーヒーとホットミルクがローテーブルに並ぶ手前で、花形がフゥ、と一息。持ち上げたカップがコトッと置かれ、同時にそれまでまったりとしていた空気が断たれたのは、ここにきて唐突に、流川の質問責めが始まったからだ。
「ねえ、なんで昨日下で寝たの?」
「なんでって…………ーと、なんだったかな……」
何やら確信を孕んだ鋭利な眼差しに、突き刺された花形はわかりやすく口籠った。
「いや……勿論起こしちゃ悪いというのもあったが、久々に顔を合わせたのもあったかな。なんとなく、気後れして……」
「まさかこれ?」
……と流川が手にしたのは、ずっとテーブルの隅に置かれていたあのシルバーリングだった。
「ああそれは……」
「だから俺避けてた?」
つまりその指輪に秘められた関係があって流川との連絡を絶っていたのか、という花形に向けられた疑惑には尤もな根拠があった。花形には、前科があった。
「違うこれは。弟が、誕生日だからってくれたんだ」
事実を訝しがる瞳に花形が続ける。
「惺さ、純平くんと同じ専門行くんだって。純平くんはゲーム科で、惺はデザイン科。今二人でアパート探してるそうだ」
それでも不機嫌な男にもう一つ。
「ちなみに、報告ついでにそれを貰ったのは流川が電話で祝ってくれた後だよ」
それでも恋人は納得しなかった。低く気怠く頬杖をつき、とうとう不貞腐れてしまった。花形の目の前で、今日二度目の舌打ちをした。
流川の言い分は、つまりこういうことだった。
「俺もう少しで行っちまうけど、いーの?」
明日にはもうここを去るというのに……という、残された時間への焦燥と、寧ろそれを煽るように気後れする花形への苛立ち。その思いが伝わるまでに要した時間は、二人が離れていた期間と比例するようだ。
「なんだ……」
ふっと零れた安堵の微笑。二人は間もなく交わった。
「こういうのは本来俺がリードすべきなのに、いつも年下の流川にそれをさせてるな」
「先輩はズルイ」
「ああ。ズルイよな……」
早速ベッドの上で重なりながら抱き合うことに忙しい二人。暖房の行き届いた室温は益々上昇し、それは暫し抑制されていた情欲の蕾を急速に開花させる。仰向けに寝そべるだけの流川の首筋に吸い付きながら、ジャージのファスナーを下げつつ忽ちその身を剥いでゆく。緩やかな温風に流川だけがその上半身を晒し、絶えない口付けの中で右手がそっと、流川の下半身に忍ぶ。ジャージのゴムの内側から、直にその熱に触れることで漸く湿った声が漏れる。
「…………ッン」
昨夜から混浴すら臆していた年上の、すっかり手練れたこの抱き様。それは花形の調子が戻ったというより、年下の挑発によって本来彼の持つ色々なものが呼び起こされた結果、こうして荒々しく求めてくるに至る。そんな男の扱いを知り得た上での素振りを、絶妙で打算的な流川を知る者は少ないだろう。
そして、それを知らずに乗せられた年上の情欲はまず冷めることを知らない。ジャージはベッドの下に蹴落とされ、シーツは下へ下へと皺が募り、布団は端へ寄せられた、そのベッドの上で二人は今、下半身を重ね合ったところ。互いの熱を押し付け合うよう、それを逃さぬように片手を添え、上から下から刺激を貪るべく腰を揺らす。喘ぎ喘ぎの呼吸の合間の水音すら弄ぶ摩擦で、二人の顔は恍惚に歪み、やがて、互いの腹筋へ放出された。
呼吸を整えてすぐに流川はうつ伏せに寝かされ、膝を着くよう腰を持ち上げられたことで四つん這いに。ベッドを離れた花形が中身の減ったボトルを持ち寄り、次の愛撫が始まった。
尻を突き上げるようにして晒された在らぬ場所を、二本の指が押し広げるよう念入りに塗り付ける。気を確かに持っていないとどこまでも弛緩するその感覚に、流川は顔を突っ伏した枕の内へ悶絶を吐き出していた。
指が挿入されればそれは枕の内に収まらず、身をうねらせて訴える。両手に握り締められた枕が変形し、僅かに背中を仰け反らせ、そしていざ、腰を大きな両手に捕らえられて流川は一度、呼吸を整えた。
目を固く瞑りつつ強張った顔を再び枕に沈め、何度かフーッと息を吐き出す。
そして合図とする一声。流川……という掠れた声で今一度、流川が身を竦めた直後、二度目の膨張を為した花形のそれが濡れそぼった中心にあてがわれた。ゆっくりとその奥を目掛け、ズブズブと侵入する傍らで流川がはしたなく喘いでいた。
「ハァ、ァ……ァ……」
まるでその瞬間を待っていたかの如く絞り出された嬌声。花形も一度動きを止めるほど、それは色香に蒸れた顔を横に逸らし、更なる繋がりを求めるべく片手を後ろにやっていた。
救い取ったその手を固く握りながら花形が問う。
「どうしたんだ今日は……」
続く侵入に身悶えながら流川が答える。
「だって、ずっと一人でしてた、から……ッ」
連絡も途絶えてはその気持ちをぶつけることも出来ず、寂しさをひたすら溜め込んだ身体が今はその温もりに縋るよう、尻を高く突き出している。幾度と打ち付け律動を与えれば、奥を突き上げる度に今にも嗚咽が漏れそうな湿り声を発す。いつにも増してやけに鼻にかかった、くぐもった声。見下ろした先の背中が僅かに震えていた。不自然に揺れていた。
まさか、泣いている……ーーーー?
「流川……」
昨晩から流川にひやっとさせられること数度目。全てフェイントに終わっていたが、今度ばかりは違っていた。
呼んでも頭は枕に貼り付いたまま。慌てて腰を引いては、うつ伏せの両肩をひっくり返すように引き剥がせば、流川は泣いていた……というより、顔を赤くして目尻に涙を溜め込んでいた。
「流川ゴメン…………」
花形が透かさず抱き寄せると、流川はその胸の中で鼻を啜る。額から頭を撫でてのキスに黙って応じ、あとはじっと目を見つめる。レンズの奥の切ない眼差しにそっと指先を伸ばす。
年明けの静かな昼下がり。外の正月風情に触れることもなく、二人は再び、気儘な戯れ合いに及んだ。
時折テレビを点けてみたりと適度な休憩を挟みつつ、軽い触れ合いからまた激しい密着へ、キスの応酬へ。ただただ甘いだけの時間は外気との温度差を広げ、気付けば日が暮れていた。閉めようとしたカーテンの向こうでちらちらと雪が舞っていた。

急な来客があったのはその晩のことだった。
二人が寛ぐ部屋の階下から電話が鳴り響き、「あれ、誰だろ?」花形が階段を下りて行く。程なく戻ってきた彼はこう言う。
「これから藤真が来る」
やがて玄関のチャイムが鳴り、玄関の鍵を開けると、外灯の灯るドアの向こうにオリーブ色のピーコートを確認。
「よっ」
「早かったな」
茶髪に少し散らついた雪がそのさらさらな髪を滑り落ち、端正な笑顔に乗って溶ける。
「邪魔するぞ」
そう言って、玄関に足を踏み入れた藤真の手にはギッシリ詰まったスーパーの袋がある。
「とりあえず野菜一通りと鳥肉とキノコと豆腐買ってきた」
「悪いなそんなに」
「三人分で足りると思うが」
廊下を先行く花形に着いて二人が向かったのはキッチンで、コートを脱いだ藤真と共に早速鍋の準備に取り掛かかった。
「後で渡すが、今年の予定コピーする前に一度目を通してほしい。それを明日の試合後にでも配布するとして、あとは掃除当番も組むべきだな」
それぞれがダイニングテーブルの上で持ち込まれた素材を刻みながら、二人は今年も翔陽OBの更なる盛況に努める。二年前のキャプテンと副キャプテンは今年も健在だ。
藤真が言った。
「寄付っつーかカンパ? みたいな形で得た収入も、本来ならちゃんとまとめなきゃならないんだよな。一応書類は作ったんだが、毎回これやるのきついな」
「藤真の負担が大きいんだ。かといって、みんなも練習に時間空けるだけでいっぱいだろう」
「マネージャーでもいればいいんだがな。だってこの先ももっとこういう事務的な仕事出てくるぞ? ファンだなんだと有難がってるうちはいいが、これ以上規模が増えれば寧ろ迷惑にも繋がる。今は牧さんが上手く纏めてくれるから心配ないとして……」
「え……? 牧……?」
よく聞き慣れた名を聞き返せば、藤真による、とあるファン代表の真相はこういうことだった。
「そう。実はその牧なんだ」
「え……? 一体、どういうことだ……」
「まあ正解を言えば、牧のお姉さん。若子さんっていって出版社で働いてる人で、表立ってカンパ募ってくれたのも実はその人なんだ」
「まさかあのギャラリーの中に牧の姉がいたとは……」
「ははは、だろ? 弟には内緒だって言われたよ」
「牧に姉がいたのか……」
「つっても、そんな似てないぜ?」
「黒いのか?」
「いや」
「そっか……」
まさかの牧に行き着いたところで、あとは鍋が煮立つのを待つだけ。花形が流川を呼びに二階へ上がった。





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